故あって高専に戻ることになった七海を出迎えたのは四年ぶりに見る五条のにやつく口元だった。
「一応聞いていい? 七海が戻ってきたのって逸架ちゃんさんのせいだったりする?」
 開口一番そう言われ、七海は思いきり眉根を寄せた。
「しません。個人的な事情です」
 きっぱりとそう宣言するも、五条はへらへらとした笑みを控える気もなさそうだった。事務室で書類を挟んでテーブルに着く五条が、肘をついて身を乗り出す。
「ほんとうに?」
「本当です。冗談でも余計なこと言わないでください」
 風の噂でさえそんなことが逸架の耳に入りでもしたら、逸架は目も当てられないほど落ち込み仕事にならなくなる。
 ま、僕としてはそんなことどうでもいいけど、と五条は笑った。じゃあ言うなよ、と七海は思ったが、口にはしなかった。五条に何を言っても意味がないことは分かっていたし、短いながらも勤め人生活で沈黙が金であることは身に沁みている。
 諸々の段取りを終えた七海は書類を鞄にしまいながら五条に尋ねた。
「逸架さんはどうされていますか」
「やっぱり気になるんじゃん」
「気にはかけています。それはそれです」
 五条は我が意を得たりとばかりに喜色を浮かべる。
「逸架ちゃんはねえ、冥さんに手籠めにされた」
「――は?」
 胡乱げな声を漏らす七海に五条は破裂したように笑いだした。
「子育てから解放された余暇で冥さんといちゃついてたよ」
「子育て?」
 七海の言葉に、五条は七海の胸元を指さす。七海はその指先を見つめた。つまり七海がいなくなったあと、冥冥と組むようになったということだろう。彼女は独立したと噂には聞いていた。逸架も独立したのだろうか。
「でも冥さんとは破局しちゃって――」
 しなかったらしい。五条の言葉選びにいちいち目くじらを立てる気にもならず、七海はそうですかと気のない返事をした。
「で、失踪した」
「――は?」
 さすがに眉を上げ声を上擦らせる七海に、五条は唇の端を上げる。
「消息不明? 音信不通? 行方知れず? まあなんでもいいけど、そんな感じ」
「アナタの情報伝達の優先順位、どうなってるんですか」
 まず伝えるべきはそれだろう。七海は溜息をつきたくなるが、五条を喜ばせるだけなので飲み込んだ。久しく離れていたから忘れかけていたが、五条はそういう男であった。
「もともと高専には寄り付かない人だったけどね。でも七海がいなくなったら時間合わせしてくれる人もいないしバグりにバグっちゃって手に負えなくなって、もうかなり長いこと見てない」
 五条が逸架の時間感覚をバグと呼んでいることに七海は不意に懐かしい気持ちになる。それをそう呼び始めたのは七海だった。母校で創作した七不思議を在校生の口から聞いたような妙な気分になる。
「生きてるのか、死んでるのか。仕事はしてるって聞いたような気もするけど、わかんないなあの人のことは。七海が帰ってきたって知ったら現れるんじゃない?」
 生きていれば、と五条は付け足す。七海は数年ぶりに肺が潰れるような溜息をついた。
「何やってるんですか、あのポンコツのスットコは」
「七海ぃ、尊敬尊敬」
「したうえで事実は指摘します」
 部屋は、と七海が言うと、五条は「部屋?」と首を傾げた。
「逸架さんの部屋です。変わっていませんか」
「逸架ちゃんに不動産屋とやりとり出来ると思う?」
 七海はそれを聞いて席を立った。風景の変わらない道を辿り、幾度となく訪れた職員宿舎に向かう。なぜかついてきた五条が「総務で鍵借りてこようか?」と言うので七海は無言で合鍵を掲げて見せる。
「マジで? それは予想してなかった。ちょっとひいてるんだけど」
 五条に一泡吹かせてやったことに満足しつつ、七海は逸架の部屋の鍵を開ける。五条がずかずかと上がりこみながら「変わってないなあ」と室内をぐるりと見回していた。七海が最後に訪れたときから何も変わっていない。時が止まっているようだ。逸架には、止まっていたのかもしれない。キャビネットのお茶の箱だけが入れ替わっていた。
 あちこちを弄り回している五条を無視して、七海は寝室に向かう。使用感の薄いベッドの枕元にサボテンの鉢がぽつりと残されている。記憶よりも株がひとまわり大きくなっている気がした。枯れてはいない。七海は鉢を持ち上げる。培土がうっすらと湿り気を帯びていた。
「おそらく定期的に部屋に戻っています」
「七海怖ッ」
 七海はそれを黙殺し「連絡先はご存知ですか」と聞いた。五条は「変わってないはず」と答える。
「スマホ貸してください。私は逸架さんの連絡先を知らないので」
「連絡先知らないのに合鍵持ってるって謎すぎるよ、わかんないなオマエら」
 わからなくて結構です、と七海は五条のスマホで逸架に電話をかける。以前何度も聞いた「おかけになった電話は電波の届かない場所にいるか電源が入っておりません」というアナウンスを、冒頭の「お」で切った。
「また携帯壊してるんですか」
「逸架ちゃんさんすっげー古いガラケー使ってるから」
「あほですね」
「尊敬ぃ」
 逸架のことであるから、七海が選んだ携帯を替えられないでいるのだろう。五条は逸架の寝室のクローゼットを勝手に開けながら「どうする? 七海がいるって聞いたらそのうち戻ってきそうだけど」と言った。七海は五条が勝手に開けたクローゼットを閉める。
「逸架さんは私が戻った話を人伝に聞いてしまうと勝手に最悪の憶測と妄想に陥り死ぬほど落ち込んで何をしでかすか分からないので、ばれる前に捕獲します」
「尊敬」
「しています」
 サボテンを持ち出す七海に、五条は「逸架ちゃん喜ぶんじゃないの?」と言った。喜びはしないだろう。七海がそれを選んだならとは言うだろうが、内心までは七海には推し測れない。もしかすると珍しく、本気で怒った逸架を見られるかもしれない。
「どうでしょうね」
 そうだけ答える七海に、五条は「復帰任務は逸架ちゃん先輩の捜索? 特級案件だな」と軽く笑って見せた。