Truce(上)



 七海建人には少々困難な先輩がいる。いた、と言うべきかもしれない。名前を逸架といい、学年は三つ上だった。
 困難といっても後輩に対し高圧的で横柄で理不尽というのではない。むしろその逆である。茫洋としてはいるが性質は凪いでいる。誰に対しても分け隔てなく腰が低い。表立って人に手を差し伸べることは苦手としているが、人をよく見ているのでそっと手助けをしてくれる。ずばずば適切な指導をするようなことはないが、後輩の試行錯誤に根気強く付き合う。強い求心力で以て人を束ね後輩に憧れを抱かれるタイプではないが、良き先輩であった。
 一癖も二癖もある呪術師の中で、逸架は希少なほどに優しく素直で誠実だった。人の心の機微に聡く、他人の痛みに心を痛め、誰かに寄り添うことが出来る。それは逸架の無二の美点であり、同時に呪術師としては難儀な性質でもあった。呪術師という常軌を逸した職務に従事するにおいて、まっとうな神経など邪魔であるのかもしれない。逸架の他者への真摯な向き合い方はそのまま彼女自身に牙を剥く。冷酷になれとは言わない。だが冷淡にはなるべきであった。救うもの、救うべきもの、救えなかったもの、救うべきでなかったもの、それらを己の在りようとは別勘定できる能力こそ、呪術師には欠かせない。
 逸架はそういうものを、全て抱え込んでしまう。不運なことに彼女にはそれらを抱え込んでしまえる実力だけはあった。呪力がもう少しだけ弱かったら、或いはもう少しだけ無神経であったなら、彼女はずっと生きやすかった。
 誰かに守られるべき柔く繊細な魂には強大無比な術式が刻まれ、ほっそりとした双肩に無類の重責が負わされている。逸架はそういう呪術師であった。七海は逸架を心から尊敬しており、また逸架も七海を特に目をかけ可愛がってくれた。それが四年前の話である。七海は呪術師をやめ、彼女は残った。

 逸架は馬鹿正直で糞真面目、愚直で素朴な石部金吉である。魑魅魍魎が跋扈し百鬼夜行が渦巻く呪術界上層部に敵うわけもなく、また挑む気力もない。腹芸の一つも演じられず、実力を盾に我を通す胆力もない。逸架は――色々と意図も葛藤もあったのかもしれないが結果として――失踪した。
 四年ぶりに高専に舞い戻りそれを聞かされた七海は「何やってるんだあの人は」とも思ったし「然もありなん」とも思った。むしろ今までよくもった方なのかもしれない。驚き呆れはしたが、それで良かったのかもしれないとも思っている。無理を重ねて心身を損ねているよりは余程いい。死んでいるよりはマシだった。
 逸架は実力こそ切って売るほどあるが神経の細い人である。政争や権力闘争や派閥争いに明け暮れるよりも、黙々と仕事だけをこなしているほうが性に合っているだろう。だが一方でその神経の細さゆえに、根無し草の放浪生活が向いているとは思えない。逸架自身もそれを承知で部屋にサボテンの鉢を残しているのだろう。何はなくとも彼女には帰る場所が必要だった。
 七海は呪術師として復帰し、リハビリ的に難易度の低い仕事から順にこなしながら逸架の行方を追っている。呼び出すことができればそれが一番早いのであるが、逸架は基本的に電話には出ず補助監督とのやり取りは最低限のメールだけで行っているらしい。あの人電話が苦手だったなそういえば、と七海は思い出す。そのうえ最近は携帯の調子も悪いようで連絡を取ろうにも取れない。補助監督から一方的に任務の依頼がメールで送信され、逸架からは報告書だけが返信される状況がしばらく続いているようだ。よくそれで上が何も言わないな、と七海は訝しんだ。どうやら上層部は再三逸架に上級の呪術師として責務を果たし模範を示せと召喚と捜索を命じているが、それを五条が全てシャットアウトしている。失踪した、何も知らない、と言う割には、五条は五条なりに逸架を気にかけているようだった。
 逸架の任務を主に管理しているのは、在学時に一学年下に在籍していた伊地知潔高という男であった。補助監督としては三年目で、新人というほどではないがベテランとは言い難い。そうでありながら逸架の監督を任されている。そもそも逸架は時間感覚に纏わる悪癖を除けば几帳面で生真面目で現場歴も長い。任務の遂行はスムーズである。しかしそれを差し引いても大抜擢といってよかった。伊地知は呪術師としては振るわなかったが、事務能力は極めて高かった。あの五条でさえ伊地知の能力を高く買っているというのだからそのポテンシャルのほどが窺える。もっとも五条に重用されることが幸福とは限らないのであるが。何より伊地知は高専関係者としては珍しく、常識があり人当たりが良く忍耐強く穏やかであった。逸架の管理者としてそこを強く見込まれている。

 高専内部の事務室の椅子から慌てて立ち上がり「お久しぶりです」と控えめに笑う伊地知に七海は会釈を返した。
「お久しぶりです、元気そうで何よりです。無理を言って申し訳ありません。忙しいところ、お手数をおかけしました」
 二人で会議スペースで向かい合って座りながら七海が言う。伊地知は激しく首を横に振った。伊地知は常日頃の五条の無茶ぶりと傍若無人な態度を思い出し、七海の対応との落差に泣き出しそうになる。
 七海は逸架の最近の任務の報告書と出張の支出命令書の閲覧を伊地知に依頼していた。伊地知は分厚いファイルを七海に差し出す。七海はそれを受け取り、内容を確認した。日付順に綴られた報告書は、直近が三週間前の山形県天童市の任務のものだ。きっちりと書き込まれた報告書は書き手の性質を窺わせる。
「逸架さんの報告書は修正が少ないので助かっています」
 伊地知の言葉に、七海は「締め切りは?」と短く問う。伊地知は肩をびくつかせ、目を逸らし、申し訳なさそうに俯いた。
「……遅れがちです。でも催促するとすぐに送ってくださるので」
 それを聞いた七海は小さく息をつく。悪癖は直っていないらしい。直るものでもない。
「私も逸架さんについては引き継いだばかりで把握しきれていないことが多くて――必要であれば前任者に問い合わせますが……」
「いえ、それは結構です。伊地知さん、逸架さんに最後に会ったのはいつですか」
「実は……会ったことがありません」
 さすがに七海は瞠目する。「一度も?」と問い返すと伊地知は肩を竦めて「一度も」と呻いた。七海は溜息混じりに「そうですか」と資料を繰っていく。
「逸架さんは気難しい方だと伺っていて……つい顔合わせを先延ばし先延ばしに……すみません」
 伊地知が青い顔で身を竦める。七海はこめかみを指先で押さえた。
 逸架は決して気難しくはないが、あまり器用に人づきあいが出来るタイプではない。他人に気を遣いすぎるので気心の知れない人間と関わっていると疲弊しきってしまう。それが散々手間をかけさせ迷惑をかけている――と、逸架自身が思っている――補助監督相手であれば文字通り合わす顔がないのだろう。伊地知がどうというよりも、逸架自身の問題である。そしてそれを許している職場の環境が悪いといえば悪い。七海は眉根を寄せる。組織に属していながら意思の疎通もままならず、顔すら出さず、担当者と面識もないとはいかがなものか、というこの四年で身に着けた一般常識と、それでも要求以上に仕事をこなしているなら問題ないという呪術師の流儀がせめぎ合った。
 伊地知は居心地悪そうに椅子の上で身動ぎする。伊地知にしてみれば補助監督として逸架の仕事をサポートする必要がありながら、咎められないのをいいことに文書のやり取りだけで逸架との顔合わせすら怠っていたのだから誰に責められても一切の反論が出来ない。そのうえ、相手は七海である。学生時代から一学年上の七海は伊地知にとって冷ややかに見えるほど大人びていた。数年の社会人生活を経た七海は、伊地知には呪術師にはない硬さと鋭さを帯びて見えた。
 伊地知にとっては苛烈な逸話と噂の付きまとう逸架も怖いが、一学年上で優秀な呪術師であった七海にも遠慮を感じてしまう。むしろ本人を目の前にしているという点において直接的な脅威の軍配は七海に上がる。
 すみません、と項垂れる伊地知に七海は「どうせ逸架さんが逃げ回っていたんでしょう」と返した。資料を見る限り逸架は常に複数の任務を抱え、各地に散らばる任務を規則性なくこなしている。隣接した現場があっても中に一カ所別の現場を挟む。出張費は精算払いでその土地を離れてから請求をかける。どうしても高専側にリアルタイムな居場所を知られたくないらしい。見事な徹底ぶりだが、努力のしどころが違うのではないかと七海は思う。
「逸架さん、破天荒で怖い人だと伺っていたので……会わずに済むならそれでいいかなと……つい……」
 伊地知が言うので七海はまだそんな巷説が流布しているのかと懐かしいやら呆れるやらで溜息をつく。その手の噂話で事実に則したものは逸架の異常な遅刻癖に関するものだけだ。
「誰がいったいそんな与太話をアナタに吹き込んだんですか」
「……主に五条さんが」
 言いそうだ。七海は顔をしかめる。もしかすると逸架を高専から引き離す策かもしれず、面白半分の軽口かもしれない。悪意はないが、配慮もない。
「あの人の話は真に受けないほうがいい」
 七海が言うと、伊地知は不思議そうな顔をする。
「七海さんは逸架さんとはお知り合いだったんですね。そういえば、逸架さんの資料を探す理由を伺っていなかったのですが、聞いてもよろしいですか」
 伊地知にしてみれば三学年も離れた逸架と七海に親交があるのは意外であった。七海は卒業後呪術師にならず進学した。二人とも学年を越えて顔が広いタイプには思えない。
「在学中に大変お世話になったので、復帰にあたってご挨拶をしなければならないと思いまして」
「ああ、そうだったんですね。よければ業務連絡のメールで七海さんのことをお伝えしましょうか」
 伊地知の提案に七海は首を横に振る。
「それは、少し待って頂いてもいいですか」
「ええ、構いませんが……でも逸架さんと連絡を取るならこれが一番確実だと思います」
「分かっています。でも、それは怯えた熊に鳴子を鳴らしながら近付くようなもので」
「はい?」
 七海が急に熊の話を始めたので、伊地知は間抜けた声を上げた。
「逃げられるし、何をするか分からない」
「はあ……」
「背後から静かに近寄って捕まえて、余計なことを考えさせる前に現状を理解させるのが一番確実で安全です」
 いや何の話、どういうこと、と伊地知は思ったが、掘り下げるのも憚られた。
「……やっぱり逸架さんって変わった方なんですかね」
「面倒くさい人ではあります」
 七海は資料を遡っていく。今逸架が抱えている任務は五つ、全てが各地に散らばっている。山形県に最も近い現場は長野県の山中であるが、ここに向かっているとは断定しにくい。
 伊地知も倣って資料を眺める。
「東京から山形県に向かう前に盛岡市で二泊しているのは、何か理由があるんでしょうか」
 伊地知は事務処理をしながら気になっていた点を七海に尋ねてみる。七海は伊地知の手元を覗き込み「多分、新幹線を降り損ねたか乗り換えを間違えたかで迷子になったんでしょう」と答えた。迷子、と伊地知は口中で呟く。高専屈指の実力者が乗換駅でうろうろしているところはあまり想像が出来なかった。
 眉根を寄せる伊地知に、七海はぬるい視線を送る。
「逸架さんに電話をかけたのはいつが最後ですか」
「私はやりとりは全てメールでした。五条さんに逸架さんは無類の電話嫌いで電話を掛けてきた相手にかなりキツく当たると聞いていたので……すみません……」
「どうしてあの人はそういうしょうもない嘘を言い触らすんでしょうね」
「嘘だったんですね……」
 逸架が電話を苦手としていてあまり利用しないのは、逸架自身が他者に電話を掛けてもいいタイミングを掴みかねるからだ。電話を受ける分には、携帯電話の充電が切れていなければ問題ない。
 七海はしばらく考える。もっともらしい理由をつけて電話かメールで逸架を誘い出すのが一番確実であろうか。だが逸架は決して鈍くも馬鹿でもないので、気取られずに居場所を知るには骨が折れそうだ。
 伊地知のスーツの上着の中でスマホが鳴動した。伊地知は「失礼します」とスマホを確認し、表示された名前を確認して「ヒ」と小さく悲鳴を上げる。七海が片眉を上げ伊地知の方を見ると、伊地知はおろおろとスマホの液晶を七見に向けた。逸架の名前が表示されている。七海も絶句して液晶を見たまま硬直した。
「ど、ど、どうしましょう七海さん」
「落ち着いて出てください」
「でも――」
「取って食われはしません。電話が苦手な逸架さんが電話をしてくるのだから何かあったんでしょう。補助監督として普通に出てください」
 七海に言われ、伊地知は呼吸を落ち着かせると通話ボタンをタップする。七海はその直前「スピーカーに」と囁いた。
「お世話になっております、逸架です。伊地知さんのお電話で間違いありませんか」
 スマホごしだが、確かに逸架の声であった。四年ぶりに聞いた。馬鹿丁寧な挨拶も変わらない。七海の首筋が一瞬総毛立った。溜息をつきそうになり、マイクに拾われぬようそれを噛み潰す。
「はい、伊地知です。どうされましたか」
「すみません、ご挨拶も後回しにしていたのに不躾に電話をしてしまって。今、お時間大丈夫ですか」
「えっ? あ、いえ、大丈夫です。すみません、こちらこそ……」
 伊地知は電話越しの逸架の印象が想像していたものと全く違っていたために戸惑った。伊地知はよく引き合いに出される五条の電話での態度を思い出し、首を捻る。彼女の高専内での立場を鑑みれば異常なほど腰が低い。
「実は、ノートパソコンが故障してしまって、急遽買い換えたんですけど報告書の様式が見当たらなくて……申し訳ないんですけど、メールで送っていただけませんか」
 ぽかんとそれを聞いていた伊地知は我に返りデスクに向かうとパソコンのスリープを解除する。作成途中の支出命令書を最小化し、メールソフトを立ち上げた。
「今すぐ送れます。以前のアドレスで大丈夫ですか?」
 スマホを片手に様式のファイルを添付しようとする伊地知に、七海が無言で走り書きを差し出す。「居場所を聞いて」という文言を見下ろし、伊地知はやにわに緊張した。電話の向こうの相手はどう見積もっても穏やかでまともに感じられる。手負いの熊のように話の通じない相手には思えない。七海が電話をかわり、理由を詳らかにし、直接連絡を取り付けた方がいいのではないだろうか。
 伊地知は戸惑いながら「逸架さん、失礼ですが今どちらにいらっしゃいますか」と尋ねた。電話の向こうの音がふと途切れる。
「――伊地知さん」
「は、はい」
 またしばらく沈黙がある。伊地知は額に嫌な汗をかきはじめた。
「……すみません、連絡が不十分で」
 逸架は申し訳なさそうに呟き、関東地方の地名を口にする。七海は地名を書き留め、逸架に割り振られている仕事の現場と見比べる。伊地知に助けを求めるような視線を向けられ、七海は先ほどの走り書きの下に「会えるか聞いて」と一行書き足した。伊地知はぎょっとし、目に見えておろおろする。
「様式お送りしました」
「はい、確認しました。お手数おかけいたしました
「あの、逸架さん」
「はい」
「一度ご挨拶をさせていただきたいのですが、お会いする時間を取っていただくことは可能ですか」
 伊地知は横目に七海を伺う。七海は浅く一度だけ頷いた。またしばらく沈黙があり、ええ、と囁くような声が返ってくる。
「気を遣わせてしまって申し訳ありません。近いうちにお伺いします」
 そう言われ、伊地知は目を剥いた。
「よろしいんですか!」
 電話の向こうから怪訝そうな声が返ってきたので、伊地知は慌てて言い募る。
「いえ、逸架さんは高専にあまり寄りたがらないと伺っていたので」
「なるべくならそうだけど……必要であれば顔は出します。何かあれば声をかけてください」
 七海はそれを聞いて盛大に溜息をついた。マイクに拾われそうだが構っていられない。そうだこの人はこういう人だった。妙なこだわりで人を振り回すが、要求されれば拍子抜けなほどあっさりそれを引っ込める。しばらく接していないと忘れるものだ。最初から伊地知に真摯に依頼させればよかった。
 通話を終え、伊地知は何とも言えない視線を七海に向けた。それを受け七海は「面倒くさい人なんです」とだけ答えた。


 *


 高専事務室で七海を見るなり、逸架は茫洋とした目を七海の表面に滑らせた。補助監督に呼ばれて高専に足を運んだにも関わらず、延々と待たされ打ち合わせスペースに引き止められているというのに気分を害した様子もない。逸架は相変わらずそういう人であった。少し伸びた前髪がうるさげに瞼にかかっている。
 七海は逸架の四年前とあまり変わらぬ姿に一瞬息を詰まらせ、何を言うか迷い、結局無難に「お久しぶりです」と短い挨拶をした。
 逸架は七海を見上げる。
「……お久しぶりです、先日は大変お世話になりました」
 青白い顔で淡々とそう言うので、七海は「あ、これ、誰か分かっていないな」と一瞬で悟る。このなまぬるい優しさと自己保身の伺える返答が懐かしくもあり憎らしくもある。忘れるなよ後輩を、と七海は心中で思った。
 七海は多少物寂しい気分にもなるが、自身がサングラスをしたままであったことを思い出す。四年ぶりに再会し目元が隠れていては、すぐに人物に思い至らなくともしかたあるまい。七海は無言でサングラスを外した。逸架は無言で眉根を寄せた。まさかこれでも誰か気が付いてもらえなかったのだろうか、と七海は不安になる。
「……七海です。七海建人」
 七海の言葉に逸架は黒く濡れた瞳をゆらゆらと天井に向けた。ひゅ、と短く息を吸い、長く細く吐き出す。打合せ用テーブルに肘をつき、指先でこめかみを押さえた。
 逸架は七海にも見覚えがある上着を着ていた。だが記憶よりくたびれ、肩のあたりがほつれて穴が開きそうだった。七海はそのほどけた縫い目を眺めながら幾度も考えていた言葉を吐き出していく。
「恥ずかしながら、呪術師として復帰することにしました。やめることを後押ししてくださったにも関わらず、申し訳ありません」
 七海は逸架が戻ってきたことに対して悲しみ責任を感じるか、怒るか、どちらかだと思っていた。なので「これは私の選択で、逸架さんとは関係ありません」と強く付け足す。
 逸架は目を伏せる。薄い瞼に青い血管が透けている。うんざりするほど長い沈黙を、七海は遮らなかった。眠ってしまったのかと心配になるほど長いこと黙り込んだ後、逸架は小さく息を吐いた。
「そっか」
 逸架はぽつりとそれだけこぼす。七海はそれが悲しんでいるのか怒っているのか判断できずに開きかけた口を閉じた。逸架の性質上、歓喜と涙の再会にならないことは承知していた。だが少しは、何がしかの反応を見せてくれるかと期待もした。己は彼女のマクスウェルの悪魔だ。禁じられた可逆の観測。封じられたエネルギーの散逸。増大し続けることを定義づけられたエントロピーを縮小させられるのは己だけだ。己はそれを買い被りすぎていたか、と唇を引き結ぶ。
 逸架は両手で顔を覆い、前髪を掻き上げた。丸くなめらかな額に前髪が束になって落ちてくるのを七海は眺める。彼女の「出来ればもう会うことがないように」という痛いほどの願いを己は踏みにじってしまったのかもしれない。
 逸架は感情を窺わせないままゆっくりと立ち上がり「伊地知さんに挨拶してきます」と言った。逸架はそのために高専に戻ってきたはずであった。まさか決別したはずの後輩が待ち構えているなど思いもしなかった。逸架は七海に温度の低い視線を向ける。
「このあと少しだけ時間はありますか。ここだと迷惑なので場所を変えましょう。仕事の話です。……いいですか」
 そう言われ、七海は反射的に「はい」と答えた。よかった、と逸架は囁く。逸架はパーティションの上から執務スペースを覗き込んだ。
「伊地知さん……伊地知さんってどなたかな……知ってる? 七海」
 ななみ、と口にした途端、逸架の顔色がみるみる白くなっていく。逸架さん? と七海が名を呼ぶ前に、逸架の体はぐらりと傾きパーティションごと激しい音を立てて引っくり返った。七海はぎょっとして椅子を蹴立てて立ち上がる。パーティションが薙ぎ倒される音で執務室の補助監督がざわめいた。
「逸架さん!?」
 七海が慌てて逸架に駆け寄り、パーティションの上から引き起こす。逸架は血の気の失せた指先でよろよろと七海の手を押しのけながら「いえ、だいじょうぶです、ちがうんです、すみません」を繰り返した。



 医務室に運ばれた逸架は家入に盛大に笑われベッドの上で神妙な顔をしていた。家入は普段の気だるげな様子からは想像もできないほど涙をにじませて笑い、ベッドに腰かける逸架の額に湿布薬を貼り付けた。
「復帰早々逸架さんに土をつけるとは、やるな七海」
 これは働きにも期待できる、と笑う家入に七海は眉を顰め応え、逸架はますます恐縮した。逸架の顔色は変わらず青白いが、倒れる直前よりは頬に血の気が戻っている。逸架は疲れたように浅い息をつく。
「こんなことでベッドを使って申し訳ない……」
 それを聞いた家入はまた堪えきれないように肩を揺らした。
「福利厚生の一環ですし、普段高専に寄り付かない逸架さんは存分に使ってください」
「……すみません」
 それから家入は七海に視線を向ける。
「熱帯魚だって急に冷や水かけられれば死ぬぞ」
 七海は返す言葉もなく「ご迷惑をおかけしました」とだけ呻いた。逸架が額の湿布を撫でながら家入に視線を向ける。
「いや、それは……むしろ顔を合わせて知れてよかった……。多分、話だけ先に聞かされていたら、滅入ってたと思う」
「まあ、確かに逸架さんはそうか」
「受け止めきれなかった私に問題があるだけなので」
 はあー、と家入は感嘆とも唖然ともとれる息を吐いた。逸架の目に触れぬよう組んだ腕の下で家入は七海の脇腹を指先で小突いた。こう言っているが、という視線を向けられ、七海は肩を竦める。己を責められても困る。この人はこういう人だ。家入は「少し休んだら戻って平気です」とだけ言い残し、医務室を後にする。七海は椅子を持ち出し、ベッドの傍らに腰かける。
「少しは驚いてもらえるかと思っていましたが、まさか卒倒するほどとは思いませんでした」
 七海の言葉に逸架は目を伏せる。
「驚いたというか……」
 それきり黙り込んでしまった。細い指がシーツを所在なさげに引っ掻く。七海は溜息をついた。
「私も逸架さんに忘れられていて驚きましたが」
「いや、忘れていたわけではないよ。忘れていたわけではないけど」
「非常に無難で他人行儀な挨拶をされてしまいました」
「…………それは、」
「ちょっとショックでした」
「いえ、あの、大人びていて、戸惑っただけで……」
「老け込んだって言いたいんですか」
 多少激務でやつれた自覚はあるが。七海は己の口元を手で覆い、指先で頬を撫でる。逸架は首を横に振る。
「なんというか……私の中で七海の印象が二年生で止まっていたみたいで」
「それは止まりすぎです」
 逸架はおずおずと七海を見上げた。
「スーツ似合いますね」
「……ありがとうございます」
 七海は不愛想に答える。逸架は膝の上に視線を落とした。
「また会えて嬉しい。……でも喜んではいけないような気もしてる」
「それはなぜ」
 七海の問いに逸架は曖昧な表情で首を横に振るだけだった。予想外のことが起きすぎていて、逸架は完全に頭が回っていない。逸架は伊地知から所在地を聞かれ会えるか照会されたときに「伊地知さん、そこに誰かいますか」と聞こうとした。伊地知の問いは唐突すぎ、また声も上擦って不自然であった。逸架があまりに高専に寄り付かぬのを見かねた上層部の誰かが伊地知に命じてそれをさせたのではないかと勘ぐった。結局それを聞かなかったのは、聞いて伊地知に累が及んでは申し訳ないからだった。高専の打ち合わせスペースで上司が出てきて叱られるのかと思えば、呪術師をやめたはずの後輩が現れた。逸架はいまだに白昼夢を見ているような妙な気分である。
 相当の叱責を覚悟していたため、七海の姿を見たときに緊張がほどけるやら驚くやら懐かしいやら困惑するやらでわけが分からなくなって目を回した。結果としてこの体たらくで、穴があったら入りたいとはこのことである。
 七海は落ち着かなくシーツを絡める逸架の指に、見覚えのあるゴールドの指輪がはまているのを見て苦い顔をした。
「それ、まだつけていたんですね」
 それと言われ、逸架は七海の視線を辿る。ああ、と逸架は右手を持ち上げた。
「まさか捨てないよ」
「そうですか、私は売りました」
「……えっ?」
「受け取ってもらえなかった指輪を後生大事に持ち続ける理由がないので」
「その節は……はい」
 そのかわりお返し兼卒業祝いで逸架からもらった腕時計を七海は欠かさずつけている。逸架は指輪をはめたまま左手でくるくると回す。
「つけてるよ。大切にしてる。ありがとうございます」
 逸架は七海の顔をじっと見る。穴が開くほど見つめられるので、七海は顔を顰めた。
「なんですか、本物ですけど」
「いえ……七海が大人になっていてびっくりしていて……そうか、時間が経っている……」
「――そうですね、逸架さんにも私にも同じだけ」
 七海が言うと、逸架はぎゅっと眉根を寄せた。
「七海が年をとっているということは……私もとっている……」
「当たり前でしょう」
「人は年をとる?」
「……大丈夫ですか」
 七海は胡乱な目を逸架に向けた。五条のバグりにバグって手が付けられないという言葉を思い出す。これはもうそれ以前の問題のような気もするが。逸架は衝撃を受けたような青褪めた顔をまっすぐに七海に向けた。
「最近、以前買った服がなんとなく似合わなくなったのは……年をとったから……?」
「知りませんよ」
 七海は着古されよれよれになった上着を見る。どちらかといえばそれは着ているものの経年劣化が理由の気もする。
「ちょっと油ものがキツイなと思うことがあるのは……」
「それは分かってしまうのが悲しいですね。昔ほど量が食べられなくはなりました」
「五条くんといたら五条くんのお母さんだと思われた」
「いやそれはおかしい」
 七海は軽薄な五条と落ち着いた逸架を思い起こすが、どの角度から見ても親子には見えない。そもそもいくら年をとったところで五条との年齢との差は埋まらないはずだ。即座に否定した七海に逸架は真顔で「よかった、結構気にしてた」と呟いた。
 逸架はベッドから立ち上がると、乱された布団を丁寧に直す。七海は「もう少し休んでいかれては」と提案したが、逸架は首を横に振る。
「もう平気です。伊地知さんに顔を出してきます」
「伊地知君は、逸架さんが倒れたときに泡を食ってうろうろしていた眼鏡の男性です」
「ああ、なんか分かった気がする」
 言いながら逸架は恥じ入って顔を手で覆う。初対面がパーティションを薙ぎ倒して卒倒は印象が悪すぎる。
「ご迷惑をおかけしましたってお菓子でも買っていったほうがいいかな」
「いりません、行くならさっさと終わらせましょう」
 二人は連れ立ち事務室に向かう。逸架の姿を見るなり伊地知は逸架に駆け寄り「大丈夫でしたか?」と声をかける。逸架が申し訳なさそうに頭を下げ、伊地知がそれにまた頭を下げ、というのをそういうおもちゃのように延々と繰り返すのを七海はいいだけ眺めた後、キリがないので二人の間に割って入る。
「伊地知君、このとおり逸架さんは気難しくも怖くもないので怯えないでください。逸架さん、いいですか。仕事の話を伺いたいので」
 逸架は伊地知に一礼すると事務室を後にする。高専の敷地を連れ立ち横切りながら、七海は「高専に寄り付かないのは分かりますが、どうしてあんなに居場所を知られたくなかったんですか」と尋ねた。逸架は言い淀み眉根を寄せる。
「行く先々で御三家に繋がりのある誰かが……落とした覚えのないハンカチを拾ってくれたり、道案内した後お茶に誘われたりするのが……ちょっと……」
 七海は一瞬それが何のことか分からず何も言えなかったが、理由に思い至り溜息をつく。彼女の術式を御三家は喉から手が出るほど欲しがっている。珍妙な運命の出会いを演出するほどに。
「まだ諦められていなかったんですか」
「そろそろ諦めていてほしい」
 逸架は溜息混じりに、だが真剣な顔で七海を見た。
「七海、御三家の男の人ってロマンチストが多い」
 七海はそれを聞き口角を下げた。
「……男はみんなそんなもんです」
 それ以外に特にコメントがなかった。

 誰かに声をかけられる前に足早に高専を抜け出し、適当に何駅か電車に乗る。駅のコーヒースタンドで飲み物を買い、ざわめくイートインに並んで座る。逸架は温かい飲み物の入った紙コップを両手で包む。七海は「大丈夫ですか」と声をかけた。怪訝な顔をする逸架に七海は自身の額を示す。逸架は額の湿布薬に触れ「あ」と声を漏らした。
「貼ったままだった……恥ずかしい」
「差し支えなければ貼ったままがいいと思います」
「外で貼りっぱなしはちょっと」
 言いながら逸架は前髪を撫でつけ湿布を隠す。
「倒れるほど驚いていただけて後輩冥利に尽きます」
「もうその話は……やめましょう……」
「いえ、一生言い続けます」
 七海はコーヒーに口を付けた。熱くて苦い液体が香ばしい香りとともに喉を滑り落ちていく。逸架もカップに口を付けながらじっとりと七海を睨む。飲み物の入ったカップ越しの視線が、胸が詰まるほど懐かしかった。
「仕事の話なんですけど……いいですか」
 遠慮がちに逸架が言う。七海は紙のカップをテーブルに置いた。はい、と答えると逸架は復帰からこちらの七海の任務の内容を尋ねてきた。七海は復帰してからはじめのうちは勘を取り戻すために四級、三級相手にする学生向けの簡単な任務をこなした。今は他の術師に同行しながら階級の高い呪霊を相手取る任務にも当たっている。それを聞いた逸架は真面目な顔で七海を見た。
「もし七海がよければなんですけど……私についてくれないでしょうか」
 七海にとっては渡りに船であった。忘れがちであるが逸架は呪術師としては飛びぬけて優秀だ。割り振られる任務の難易度も相応である。為人も承知している。術式の相性も悪くない。指導力が高いとは言い難いが、逸架は七海をよく気にかけてくれる。七海も逸架のことを気にかけることが出来る。答えかけ、七海はふと苦い記憶が蘇った。
 呪術師であることへの未練をうっすらと感じながら、受験勉強に疲れ果て、八つ当たりのように逸架に「やっぱり呪術師を続けると言ったらどうしますか」と尋ねたことがあった。逸架は七海の想定と変わらず「七海がそうしたいなら応援する」と言った。七海はそれを聞いてあまりに予想通り過ぎて理不尽に憤りを感じもしたが、安堵もした。今進んでいる道以外にも道があることが示されるだけでほっとした。逸架は七海に「勘を取り戻すのにも付き合う」とも言った。七海は、逸架がその他愛もない口約束を守ろうとしているのかと訝しんだ。七海自身さえ今の今まで忘れていたような戯言めいた言葉だ。
 まさか、とも思うが、逸架ならばやりかねないという思いもある。七海は真意を確認しようとし、やはりやめた。どちらでも構わなかったからだ。
「こちらからもお願いします。こちらこそ、私でよければ」
 七海が頭を下げると逸架は恐縮し右手の親指で落ち着かなく指輪をずらしたり戻したりする。
「七海がいないと……私は本当にひどいんだよ。迷子に給料が出てる」
「知っています。さっき出張の支出命令書を見ました。あんな旅程と日程、逸架さんでなかったら首に縄を付けられています」
「……面目ない」
 七海はコーヒーに手を伸ばしかけ、その手を下した。逸架さん、と青白い横顔に声をかける。逸架はふっと視線を上げた。
「また、よろしくお願いいたします。今度は守られるだけでなく、同じ職務の後輩として逸架さんを支えたいです」
 七海の言葉に逸架は「ずっと支えられています」とだけ短く返した。細い指先がカップにかけられる。
「逸架さん」
「はい」
「私からも事務連絡をひとついいですか」
「はい」
「高専の職員用宿舎、取り壊しが決定して住人には退去するよう勧告が出ているみたいですけどどうされるんですか」
「……ああ」
 逸架は小さく声を漏らすとカップに指をかけたまま固まった。顔色が悪いので、また卒倒するのではと七海は身構える。職員用の宿舎はもう長いこと逸架以外に住人はいなかった。教員でもなければそれなりの給与を得ている呪術師がわざわざ古くて設備も充実していない宿舎に好んで住む理由もない。逸架は不動産業者とのやりとりが困難であることと、そもそも単独では秩序ある生活を送れないことを理由に卒業以降ずっと宿舎暮らしをしている。もっとも最近は自室にいる時間はほとんど無いが。
 入居率も低い、老朽化も進んでいる、ということで宿舎の取り壊しが決定したのが一年前、退去の期限が設定されたのが半年前であると七海は聞いている。
「そうらしいですね……忘れていたわけじゃないんだけど……つい後回しに……」
「そうだと思いました」
 七海は溜息をつく。逸架は上着のポケットからぼろぼろのガラケーを取り出した。液晶が紫に変色している。逸架が過去のメールを遡っている途中で、携帯は息切れするように液晶を点滅させ電源が落ちた。逸架は呻いてバックパックからノートパソコンを引っ張り出す。
「たしか前任の補助監督の方に色々教えてもらってはいたんだけど……」
「ちなみに期限は二週間後です」
 逸架は手を止め、縋るように七海を見る。七海はぬるくなったコーヒーを口に含み、それを飲み干す。
「だいたい百二十万秒くらいじゃないですか」
「……ごめんなさい、ちょっとぴんと来ません」
「今すぐ不動産屋に飛び込むことをおすすめする程度には期限が差し迫っています」
 逸架は取り出しかけていたノートパソコンをそっとバッグの中に戻した。茫洋とした目は焦っているのか絶望しているのか諦めているのか分からない色をして宙を見ている。
「……まずい?」
「まずいです」
 七海は放心する逸架を後目に物件情報サイトを見ていた。高専までシンプルなルートで辿り着ける路線沿いで駅にほど近い。それほど広くなくてもいいが日当たりは欲しい。二十四時間ゴミ出し可能ならば言うことがない。己の住んでいるマンションから近いと何かと便利だ。何度か検索条件を変えながら物件を絞り込んでいく。
 しばらく何事か考えていた逸架は険しい顔をして姿勢を正した。イートインのカウンターの不安定な椅子の上で背筋を伸ばし、暗い表情で七海に体ごと向き合う。
「再会早々本当に申し訳ないのですが、あの、ひとつお願いしていいでしょうか」
「ええ、なんでしょう」
 まるで多額の借金を申し込むような神妙さであるが、逸架がそれほど常識はずれな要求を他人にしないことを七海は承知している。逸架は遠慮がちに俯きながら、心底申し訳なさそうに呟く。
「いっしょに住む部屋を探していただけませんか」
 七海は手にした紙コップを握りつぶしそうになった。