はじめてくちづけを受けたのが十三の歳の頃であった。相手は五歳の弟で、小鳥が啄むようなつたなく可愛らしいものだった。五歳の弟は十分に乳を与えられた白い仔犬のように愛らしく、大輪の白牡丹を予感させる蕾のように美しかった。目を覆う布をぱっと取られ、眩む視界に戸惑いの声をあげるのと同時に目の端に長い睫毛がきらめく。頬のあたりに柔らかい髪の毛が触れ、半開きの唇に笑みの形の唇が押し当てられた。
 呆気にとられる柊一に、悟はふと笑った。テレビか何かで見たのかもしれない。或いは、人間の出入りの多いこの邸のことであるから、誰かがそういうことをしているのを見たのかもしれない。柊一はそろりと弟の頬を撫でた。白桃よりもやわらかく、なめらかな丸い頬を。悟は大きな青い目を細める。
「悟、こういうことは好きな人にするんだよ」
 柊一がたしなめると、悟は生意気げに唇を尖らせる。
「おれ、おにいさま好きだし」
 柊一は悟を抱き上げ、頬を寄せる。
「私も悟が好きだよ……でも、そういう好きとは違うよ」
 わかんない、と悟はむっとして柊一を押しのける。床に下ろすと、悟は「どういう好き? サト子に聞いてもいい?」と柊一を見上げた。名前を出された家政婦の姿を思い出しながら、柊一は苦笑する。昔気質な女のサト子はそんなことを五歳の悟に聞かれたら卒倒するだろう。
「だめだよ、そのうち分かるから」
「そのうちって、いつ」
 不貞腐れた声音の悟の、己の胸のあたりにある小さな頭を撫でる。
「悟の背が私より高くなったら」
「むりじゃん」
「無理じゃないよ、悟はこれからたくさん大きくなる」
 少女と見紛う華奢な手足を悟はぶらつかせる。柊一は冷たい木の床に膝をつき、悟に視線を合わせた。
「それまで、ずっと悟のおにいちゃんでいてもいい?」
 柊一が言うと、悟はくっと顎を上げ「いいけど」と笑った。
 柊一は小さく、幼く、可愛らしく、生意気な弟を愛していた。ほっそりとした可憐な体躯の行く先に、ひとかけらの苦痛もあってほしくなかった。いずれ当主になるのだからと周囲の大人に言い聞かせられていた柊一は、当主になったら何よりも悟を守ってやりたいと願った。
 六眼を持つ悟に無下限術式が刻まれていると明らかになる前の、淡く朧で滑稽な記憶だ。


 六眼の継承は五条家にとって大きな意味を持つ。傍流も傍流、呪力はなく呪いとは無縁に静かに暮らしていこうと誓い合った両親から産まれた柊一は、その双眸が蒼穹を宿していることが分かったその日に五条家宗家の養子となった。いずれ当主になることを望まれた。
 柊一は己が両親と呼ぶ二人が実の親でないことは知っていた。だがそれすら誉れであった。傍系にも関わらず六眼を嘱望され本家に迎え入れられた神童という扱いが一夜にして瓦解したのが義弟に無下限術式が明らかになったときのことであった。
 幾世代ぶりかに現われた六眼と無下限術式を併せ持つ宗家の血を濃く継ぐ術師を、当主に据えぬ理由はない。わざわざ余所から買い入れられた柊一は、途端にその身を余された。生家に戻すか、或いは分家の当主に据えるか、どこへなり放逐するか、喧々囂々の議論があったことは当人でありながら蚊帳の外にあった柊一の想像にも難くなかった。だがそれも幼い悟の「にいちゃんはおれのにいちゃんでしょ」の一言で静かになった。柊一は悟に刻まれた力の意味を、王としての資質を、人の上に立つ者の器を目の当たりにした。
 それ以来、柊一はは義弟に形容しがたい感情を抱え続けている。五条悟は悪くない。それは承知の上だ。だが彼の術式が別のものであったなら、六眼でさえなかったら、また別の義兄弟関係であれたのかもしれない。或いは彼が年上であったならば、己に六眼などありはしなかったら、己は実の両親の元で人並みに平穏で人並みに波瀾に満ちた人生を送れたのかもしれない。あのとき悟が己を兄だと引き留めさえしなければ、また別の今があっただろうか。そういうどうしようもない感情を、味のなくなったガムのように噛み続けている。


 *


「これお土産ね」
 無造作に差し出されたなんでもない紙袋を柊一は受け取る。宗家の片隅の小さく静かな庵は柊一の自室兼仕事場として使われている。寝起きする部屋の明かり障子を開けると、小作りな庵からはみ出そうな長躯が畳に寝そべっていて、柊一は肝を冷やした。だがそれはいつものことでもあった。義弟の悟は連絡もなしに実家に帰ってきては、声もかけずに柊一の部屋に上がりこむ。
 紙袋の中身は見なくてもわかった。パッケージだけ差し替えられあちこちで売られている土産菓子だ。これまで悟から観光地の名前だけ変えたものを両手の指の数では足りぬほど受け取っている。中身は美味いということもなければ不味いということもないバタークッキーであった。
「いつもありがとう」
 小さく囁き人に茶を持ってこさせる。悟は茶を待たずに柊一が手に提げる紙袋から菓子箱を取る。中身を失った紙袋はふっと軽くなった。悟は菓子箱の包装を引き剥ぐと中身を取り出す。緩衝材だらけの箱の中に何度も見た個包装のクッキーが整然と並んでいる。悟がそれを無造作に取ると味わうわけでもなく口に放り込み、咀嚼、嚥下するのを、柊一は眺めていた。
 薄暗い部屋の照明をつけようとした柊一を悟は「いや、いらないでしょ」と笑って止めた。つい癖で客人があると照明をつけようとしてしまう。そうだね、と肩をすくめると、悟は屑籠に菓子の包装を投げ込む。
「この間の会合も替わってくれてありがとー、助かったよ」
「いいんだ」
 柊一は座布団を悟の向かいに置くと腰を据える。柊一が悟に座布団を勧めると、悟はその上で余りがちな長い脚を組む。柊一は「それくらいしか出来ないから」という当てこすりは飲み込んだ。幼い頃から奔放でじっとしていない悟にかわりあらゆる雑事をこなしてきた。悟の当主就任すら、己が出席する羽目になるところであった。今さら他家との会合などものの数にも入らない。
 かわりに「悟は忙しいから」と加えれば悟は「にいさん超好き」とへらへらと笑って高い位置から抱きついてくる。硬い体に押し潰され、小さく呻いた。身長を追い越されたのは悟が十三の頃であったか。いくつになったんだやめてくれ、という呻き声はぎゅうぎゅうと抱きすくめられ黙殺される。
「ついでにお願いされてほしいな」
 甘えた声音で頬をつつかれ、柊一は溜息混じりに肩を落とす。三十を目前にして化生じみて美しい花貌が鼻先にある。
「両面宿儺の器のこと?」
 悟は上機嫌に唇の端を上げる。
「話が早くて助かる」
 頼りにしてるよぉ、と顔を両手で挟まれる。それを苦笑で受け入れると、悟は菓子箱だけ置いて部屋を後にした。途端に静まりかえった和室で柊一は悟がこぼしていった菓子屑を指先で拾い上げ、屑籠に捨てた。籠の上ではらはらと手を払っていたところに、悟が乱暴に閉めていった障子戸を老いた家政婦が開けて入ってきた。
「あら、悟さんは……」
 悟が入れ違いに帰ってしまったことを告げると、幼い頃から悟の面倒を見てきた家政婦は呆れたように眉を下げ「悟さんはあいかわらずお元気ですねえ」と言った。淹れたての茶がむなしく湯気を上げている。家政婦はそのうちひとつを座卓に置く。
「悟さんはお家にめっきり寄り付かないのに、柊一さんのところにだけは顔を出すのですね。きかん坊の悟さんだけど、昔から柊一さんは慕っていらっしゃるのだから」
「さあねえ、私がさぼらず働いているか見に来ているのかも」
 柊一の言葉に家政婦はくすくすと笑う。
「まさか、悟さんと柊一さんは昔から仲良しでしたでしょう」
 家政婦は自分の言葉に感じ入ったように涙ぐむ。彼女は最近涙もろくていけない。柊一はクッキーの箱から個包装を一つ取り、残りを彼女に手渡す。みんなで食べなさいねと言うと、彼女は嬉しそうにそれを抱えて部屋を出て行く。去り際に「最上を呼んでおいて。時間があれば私の部屋に」と伝えた。板張りの廊下を渡っていく足音が離れていく。
 柊一は座卓の上の茶器に手を伸ばす。指先に陶器越しの熱が触れる。つまんだ菓子は常と変わらぬ味がして、ほろほろと崩れて膝にこぼれた。頭の中で両面宿儺の器を生かすことに反対しそうな人間を数え、重鎮のほとんどの顔が浮かび顔をしかめる。相も変わらず悟の考えていることは分からない。呪術界を混ぜ返そうとしているのは承知であった。そのために御三家五条家宗家の屋台骨は悟にとって必要で、そうでなければ彼は呪術界の前に五条家をとうに破壊していただろう。
 悟の破格の実力は恐怖と畏怖で人を縛る。悟は抑止力のない軍隊のようなもので、ただ周囲はその善性に縋っているにすぎない。悟がふと気に入らない人間を殺めたとして、誰がそれを裁き得るであろうか。五条悟はそういう生き物で、そういう装置で、それはそれとして機能はしている。
 だが恐怖による統制は軋轢を招く。蒼穹を行く大鷹の俯瞰は大局を見据えることは出来ても地を這う地虫のささやかな思惑には思い至らない。そして人の世は、理に適わぬ個々人の好悪で成り立っている。誰もが悟のように無私に遥か未来を見通しているわけではない。
 明かり障子の向こうに人影が立ち、柊一の名を呼ぶ。柊一はゆるりと立ち上がると部屋の照明をつけた。ダークスーツの男が音もたてずに障子を開ける。
 お呼びですか、と最上は硬い口調で言う。もとは高専で補助監督をしていた男で、事務渉外に長けているので柊一が取り立てた。
「最上、急に悪いね。今晩空いている店を二名で予約してくれ」
「はい、どこにしますか」
「どこでもいいよ、この時期だからなあ、美味しいさわらを出す店がいい」
 最上はいくつかの店の名を挙げるので、柊一は「まかせるよ」とだけ答えた。柊一は最上の選択を疑ったことはないし、個人的な好みは特になかった。最上は座卓に視線を向け食べかけの菓子を見やると「五条さんがおいでだったのですか」とわずかに眉をひそめた。彼は高専上がりなので悟を五条さんと呼ぶ癖が抜けない。この邸に住む者の大半が五条であるが、やはり彼にとっては悟が「五条」さんなのだ。柊一はそれを咎めはしなかった。
「そうだよ、君の分のお菓子もとっておけばよかった。今ならサト子に言えばまだ残っているかも」
 柊一が言うと最上はバツが悪そうに広い肩をすくめる。
「そういうわけでは……ただ五条さんが来ると大抵厄介ごとといっしょなので」
 それには答えず苦笑するに留めた。


 *


 悟は愚かだと一度見做した相手を顧みない。五条悟はそれでいい。その横暴と傲慢を周囲は許容せざるを得ない。だが五条家にとっては話が別だ。御三家の精密な均衡による三竦みを崩せば家の存続は危うくなる。
「先生、弟がまた無茶を申したようで、本当に申し訳のほどもございません」
 仲居から受け取った徳利で男の酒器に酒を注ぐ。男は料亭で顔を合わせたときから崩さぬ仏頂面で鼻を鳴らした。
「弟の方が滅茶苦茶を通したと思えば、兄の方は急に飯に呼び付ける。どうなってるんだおまえら兄弟は」
「どうにも、すみません」
 にこにこ笑えば男は毒気を抜かれたように口をへの字にした。
「弟に事の次第を聞いて、これはまた先生にご迷惑をおかけしたと思いまして。私からで申し訳ないのですけれど、お詫びのひとつも申しあげておきませんとと慌てて先生のお好きそうな店をとりました」
 離れの個室には最低限の用事でしか仲居も来ない。硝子障子から見える中庭は淡く明かりが灯されている。人工池の水面がきらきらと明かりを反射した。
「先生はいつも美味しいものを召し上がっていらっしゃるでしょう、お店を選ぶのにも緊張します。先生はお魚が好きだと悟に聞いていたので――」
「言わんだろ、あの小僧は」
「そうでしょうか、では思い違いだったかも知れません。でも今日はお店が先生のために美味しいさわらを入れてくださったようですよ」
 男は塗り箸を取り先付けの椀に箸をつける。柊一は空いた酒器にすかさず酒を足した。男は顔をしかめて見せたが、先付けが気に入ったのか酒の味が良かったのか表情に先刻ほどの険は薄れた。
「男の酌で飲む趣味はありゃせんわ」
「気が利かずにすみません、でもたまには二人でお話しするのもいいでしょう」
「おまえとする話なんぞない」
 ふふ、と柊一は微笑み、肩をすくめて見せる。
 五条家には五条悟が必要で、五条悟にも五条家が必要だ。五条は己の所業の後始末の一切を義兄である柊一に任せている。柊一が勝手に奔走していると言ってもよかった。柊一は合切残らず悟に奪われてはいたが、それでも悟を守るという幼い日の願いだけは抱え続けている。愛情かもしれず、阿諛かもしれず、妄執かもしれない。だがそれだけが五条家で宙に浮いた柊一の立ち位置を確固たるものにしているのは皮肉でもあった。義弟のために五条家を守る柊一を、五条家は必要としている。
 酒と肴が消えていく口からかわりに愚痴と説教が吐き出されていく。柊一は口を挟まず、俯きがちに申し訳なさそうな顔だけして、はい、はい、と大人しくそれを浴びていた。酒量が増えるにつれ大きくなる声量に、柊一はますます項垂れた。
「先生方のようなしっかりとした呪術師が控えていらっしゃるので、我々若輩者は思い切りよく仕事に当たれております。弟にはよく言って聞かせますので」
「聞かないだろ」
「……力不足で」
「まあ、なんだ、おまえも苦労するとは思うがな、だがあいつのあの態度は目に余る」
 はあ、と男は溜息をつく。男の説教が途切れたところですっと襖が開き水菓子が出された。ああもうそんな時分かと男は硝子器を見下ろした。それから柊一のほとんど手を付けられていない膳にも目をやる。
「おまえは相変わらず食わんなあ、そんなだから弟に良いようにされるんだ、覇気が足りん覇気が」
「先生と食事すると緊張してしまうのですよ」
「そこで食らいついてこそ男だろうが」
 男は美しく盛り付けられた水菓子に手をやる。柊一も倣って器に手を伸ばした。きんと冷やされた器が痛いほどだった。

 食事を終え、表に待たせていた車まで男を送る。男はしたたかに酔ってはいたがふらつくような醜態は見せなかった。車に乗り込む前に柊一の肩をばしばし叩くと「飲んだか」と短く問う。十分頂きました、と柊一が微笑むと男は鼻を鳴らした。
「おまえは最近の若いのにしては見どころがあるのに、そのなよなよとしたところがいかん」
「先生のようには、とても」
「五条の小倅ではなくおまえが当主になればいいんだ、そのときは応援してやる」
「もったいないお言葉です」
 いい、というのが適しているというのではなく、男にとって都合がいいというのを柊一は承知している。器足らず、脅威足らず、猫の仔のように他愛無いがゆえに、己は男の歓心を買うことが出来る。自尊心を擦り減らしながら誰かの心を宥め問題の本質から目を背けることが出来る。
 それが唯一、悟に出来ず、己に出来ることだ。
 柊一は男に紙袋を渡す。
「御隠居殿のお加減はいかがでしょう。お好きなものを召し上がればきっとお元気にもなります。これ、少しですがどうぞ。御隠居殿によろしくお伝えください」
 男の父の好物である干菓子を手渡すと、男は鷹揚にそれを受け取り車に乗り込んだ。テールランプが見えなくなるまで見送り、柊一は控えていた最上が運転する車に戻った。車の助手席には仲居が包んだ料理が積まれている。柊一が後部座席に乗り込むと最上が「箭内の禪院から会ってもいいと連絡がありました」と言う。柊一は時計を見て「今の時間に開いているお菓子屋はあるかな」と呻いた。
「梅田屋の餅菓子でよければ用意してあります」
 最上は前を向いたまま紙袋を持ち上げる。
「助かる、やっぱり君を引っ張ってきてよかった」
 柊一が言い終えるなり車が発進する。スマホのランプの小さな点滅に気が付きメッセージを確認する。メッセージアプリを開いた途端に送られてきた画像が目に留まる。呪符と護符で覆われた壁を背景に、悟と見知らぬ短髪の少年が写っている。五条が手を伸ばして撮影したのであろう写真は、少年の困惑気な顔が斜めに見切れていた。「宿儺の器の虎杖悠仁くんでーす」と短いメッセージと絵文字が踊る。柊一はそれを見て、眉根を寄せて一人で笑った。