二
十六の頃、同期の女子学生に恋をした。
奥手な性質であった柊一は彼女に必要以上に触れることも出来ず、ましてや思いを告げることなど思いつきもしなかった。彼女は特別顔かたちが華やかなわけでも、呪術に優れているわけではない。だが明るくよく笑う子だった。一緒にいると、ふわふわと落ち着かなくなった。彼女が笑うと胸の内に花が咲いたような心地になった。彼女と話していると、柊一はこの時間が無限に続けばいいと思った。
柊一が彼女を好ましく思うのと同様に、彼女も柊一を憎からず思っていた。授業も任務も共に受け、空調の効きの悪い図書館でいっしょに課題に取り組んだ。
彼女は非術師家庭の出身で、五条宗家の長子である柊一にも物怖じしなかった。柊一が呪術のことや界隈のことを教える代わりに、彼女は柊一がどれほど浮き世離れしているかを教えてくれた。柊一は彼女がいつもカバンに忍ばせているささやかな菓子が好きだった。
柊一が実家では大抵和服を着て過ごすと言ったとき、彼女は目を丸くして「え! パンツは?」と言った。それからぱっと口を塞いで「ごめん!」と顔を赤くした。柊一は彼女のその顔を思い出すたびにおかしくて胸が締め付けられたようになる。
彼女といるときは、己がひとりの人間である気がした。当主には悟がなることが確定事項であったので、とうに己は用無しであった。高専を卒業したら家を出て彼女と一緒になりたいとさえ思った。
あれは、二年生の秋のことであった。長期休暇にしか帰省しない柊一に、悟が高専まで会いに来た。あの頃は今ほど携帯電話が普及しておらず、学生が個人用の携帯電話を持っていることは稀であった。悟とは手紙のやりとりや寮の公衆電話から通話をしていた。柊一は悟のことを大切に思っていたが、授業も課題もあれば毎日電話をするわけにもいかない。家を離れて寮暮らしをし、家のこととは関係のない友人も、好きな女の子も出来て、柊一の関心は少しずつ義弟や家から薄れつつあったのかもしれない。
だが、悟に会えるのは嬉しかった。前日の任務で出かけた先で小さなおもちゃも買っていた。その日は朝から浮かれて彼女に「今日は弟が来るんだ」と話したりもした。
その日の午後授業を終えたばかりの教室に、周囲の大人が止めるのも聞かずに悟が飛び込んできた。伸びかけた銀色の髪がなんでもない教室で月光のようにきらめく。悟は柊一を見つけるなり澄んだ青い瞳をぱっと輝かせて柊一に体ごとぶつかってきた。
悟はその頃すでに周囲の同じ年頃の少年達より一回りほど身長が高く、柊一の顎のあたりまで背が伸びていた。仔犬のようにじゃれつかれて柊一はよろめいた。そのとき視界に入ってしまった彼女の表情に、柊一は己の恋が終わったことを覚った。
いつもぱっきりとした色を浮かべている彼女の瞳が、何か尊いものを拝むように見開かれていた。彼女にはきっとそんなつもりはなく、まだ八歳の悟をどうこうしてやろうという気持ちはないだろう。だが柊一は、彼女の心が、意識が、いとも容易く悟に奪われてしまったことが分かった。
彼女の瞳に浮かんだものが、惚れたとか腫れたとかそういう火のつくような感情のひらめきであれば柊一はどれだけ救われていただろう。これから彼女は誰といてもふとした瞬間に悟のことを思い出す。月の光を紡いだような髪を、大いなる意思の戯れのように整った面立ちを、空の雫のような瞳を、蠱惑的な笑顔を、伸びやかな肢体を。
十六歳の柊一の初恋は、たった八つの美しい義弟によって蕾もつく前に摘み取られた。
誰が、何が、悪かっただろうか。悟だろうか。容姿に恵まれ、人を魅了してやまない覇気を生まれ持ったことで、柊一は悟を責める気にはなれなかった。彼女か。美しいものを美しいと感じることはいけないのか。
己か。己が凡庸であることが悪いのか。
十六歳の柊一には分からなかった。今も、分からないでいる。だが、これまでも、これからも、ずっとそうなのであろうということだけは、なんとなく分かった。
*
映画に夢中になっていた虎杖はドアがノックされる音ではっと頭を上げた。その途端抱えていたぬいぐるみに顔を殴られ「今のはノーカンだろ!」と呻く。
虎杖はノックされたドアを注意深く見つめる。出るべきか、居留守をすべきか迷った。五条が礼儀正しくノックの返事を待つとは思えず、伊地知や家入がこの部屋に用事があるとも思えない。一応死んでいることになっている己が不用意に来訪者を出迎えていいものだろうか、と虎杖は映画を一時停止し思い悩む。
再びこつこつとノックの音がした。悟、と五条の名を呼ぶ男の声がした。聞き覚えのない声だった。敵意に満ちた声ではない。だが急いでいる様子もない。どうしたものかと虎杖は考えたが、無視にも耐えきれずおずおずとドアを開けた。
ドアの向こうには和装の、両目を隠した男性が立っていた。目元を布で覆っているのは奇異といえば奇異ではあるが、五条悟を見慣れた虎杖には和服の方が物珍しく映った。
男は目隠しの下でついと眉を上げる。それからふと口元で笑んだ。
「こんにちは、はじめまして。虎杖悠仁くん?」
急に名前を呼ばれ、虎杖は慌てて姿勢を正し「はい! 虎杖悠仁です!」と必要以上に大きな声で返事をした。柊一はそれに圧倒され仰け反る。
「元気がいいねえ」
「っす、ありがとうございます」
「私は五条柊一という者で、悟に用事があるのだけれど、今いないのかな」
虎杖が今五条がいないことを伝えると、柊一は着物の袂からスマートフォンを取り出した。虎杖はスマートフォンで悟とのやりとりを見返している柊一を見て「着物の人もスマホ使うんだ」とぼんやりと思った。
柊一は眉尻を下げ「少し待たせてもらってもいい?」と虎杖に尋ねる。断る理由もない虎杖はそれを受け入れた。柊一は虎杖に勧められるままにソファに座る。虎杖は先日ソファにスナック菓子をこぼしたことを思い出し、彼の着物が汚れないか心配になった。お茶か何かを出した方がいいのかとも思うのだがこの部屋にはペットボトルの飲み物しかない。虎杖は「着物の人ってペットボトルの飲み物飲むのか」と思った。見慣れぬ和装姿の男は高級そうに感じられた。
柊一もまた虎杖の姿を見て「この子が宿儺の器か」と考えていた。写真では見ていたし書類上の事項も承知していたが、本人を目の前にするとまた感慨深い。体格に恵まれた健康的な少年で、気遣いの出来るはきはきとした子である。悟が助命したのも頷ける、と思いかけそれを振り払う。悟の意図がそう単純であるとは思いがたく、またそれを類推するだけ無駄である。
「あの、何か飲みます?」
虎杖が問うと柊一は両の手のひらを虎杖に向ける。
「いいんだ、気にしないで。悟が来るまでだから」
柊一はそう言うが、悟はしばらく待っても姿を現さない。虎杖はそわそわと落ち着かないままで、柊一は申し訳なくなって雑談を切り出した。
「驚かないで聞いてほしいんだけどね」
「あ、はい、なんでしょう」
「私、悟の兄なんだよ」
もう二十年来掴みのネタになっているそれを言うと、虎杖は「え! そうだったの!?」と驚いて目を丸くする。吊り気味の大きな目には純粋な驚きが浮かんでいて、そこには嘲弄も値踏みする色もない。それだけで柊一は彼をいい子なのだろうなと思った。
「えー! えー! じゃあ五条先生の小さい頃とか知ってんの!?」
「うん、知ってるよ」
「どんなん? やっぱりデカかった?」
「七、八歳くらいまでは、小さくて本当に可愛かったよ。あっという間に大きくなって今ではああいう感じだけど」
柊一は瞼の裏で幼い弟の姿を思い描く。今となっては砂糖菓子のような記憶だ。
「いいなあ、俺兄弟いないし、お兄ちゃんとかいればよかったな」
「いれば鬱陶しいものかも」
柊一が言うと、虎杖は笑った。ドアが開く音と同時に「ごめんごめん、おくれた!」と笑みを含んだ声が響く。さして反省した様子のない声音を柊一は咎める気にもならなかった。
悟は断りなく床に置いてある柊一の鞄を開けると、中の書類ケースを取る。書類に目を通しながら悟は柊一をぞんざいに指さす。
「悠仁、この人僕の兄。僕のことが超好き」
次いで悟は虎杖を指さす。
「にいさん、この子が虎杖悠仁。宿儺の器で、教え子で、故人」
雑な紹介に二人は思わず顔を見合わせる。五条は書類を長い指で繰っていた。
「死亡届、埋葬許可申請書、住民票抹消届け……あれ、死亡診断書は?」
「このあと家入さんのところに取りに行く」
そのやりとりを聞いていた虎杖は悟にそっと尋ねる。
「誰か亡くなったの?」
悟は噴き出し、声を上げて笑う。
「そうだよ!」
見せられた書類に己の名前が記されているのを見て、虎杖は「俺ェ!? あ、俺死んでたんだ!」と素っ頓狂な声を上げた。柊一は溜息混じりに五条の手から書類を取り上げケースにしまった。
「本人に見せるようなものじゃないだろう」
「いいじゃん。こんなの生きて見られることないよ、めっちゃレア」
言い方、と柊一は肩を竦め、悟は柊一の反応を見てますます面白そうに腹を抱えた。それから悟は長躯で柊一の肩にのしかかる。
「にいさん暇ならご飯行かない?」
「それは嬉しいけど、どこに」
「サイゼ。ティラミスクラシコ食べたい気分なんだよね」
そのやりとりを聞いていた虎杖は「着物の人ってサイゼリヤ行くんだ」と思った。
*
これ暑くないの、と絽の単衣の袖を引っ張られ、柊一は苦笑する。
「何を着ていても暑いときは暑いよ。悟も年中黒っぽい格好ばかりしていて暑くない?」
高専に虎杖の死亡証明書を取りにきた悟と柊一は遺体安置室の隣室で家入を待っていた。悟の軽口への柊一の問いは黙殺された。
「こっちに来るときくらいそんな格好しなくてもいいのにさあ」
小さなパイプ椅子に座り脚を持て余しぶらつかせる悟の姿は、柊一に幼い日のことを思い出させる。柊一が好んで和装を纏うのは、張りと光沢のある正絹が痩せて貧相な体を多少は見られるものにしてくれるからだ。人に威容を印象付け、上層部からは身内と見做される。多くの職人の手の入った錦は、内側が伽藍洞でも気が付かれない。
悟の手が顔に伸びてきたので、柊一はぎょっとして状態を仰け反らせる。長い指先がこめかみのあたりを掠めた。
「それも取らないと入店拒否されるよ、最近厳しいんだって」
「お店に入る前には外すよ」
悟の手を押しのけると、悟は遊びに誘われた仔犬のように顔に喜色を浮かべる。悟の大きな手のひらはあっという間に柊一の手首をからめとり封じ込める。
「えー、たまにはにいさんの顔じっくり見ないと忘れちゃうなあ」
「……お店で見ればいいだろ」
「やー、高専のしょぼい直管LEDでしか楽しめないオニーサマのご尊顔があるんだよなあ」
「こら、離して」
「いやでーす」
「悟、遊んでいるわけじゃないんだけど」
柊一は悟の手を振り払おうとするが、がっちりと固定され動かすことすらできない。基本的に腕力でも他のあらゆる分野でも悟には敵わないので、柊一は諦めて脱力する。悟は楽しそうに笑って柊一の頬に顔を寄せる。目隠しの縁を咥えて引っ張られた。頬を笑声まじりのぬるい息が撫でていく。
「僕さあ、六眼ってにいさんのしか知らないんだよね。自分のは鏡でしか見られないし」
柊一の膝に目隠しが飽きられたように落とされる。
「僕のもそういう色してんの?」
悟はふわふわ笑って首を傾げた。さあ、と柊一は溜息混じりに答える。
「私も悟のものしか見られないから」
「あ、そりゃそうだわ」
あははは、と軽い笑い声が殺風景な事務室内に響く。硬い音とともに部屋のドアが開けられ、家入は現われるのと同時に片眉を上げ「兄にセクハラすんなよ」と鼻を鳴らした。
「硝子、にいさんの顔見たことあったっけ、ほらほら」
「悟……やめなさいって……」
顎を掴まれ家入の方を向かされそうになった柊一は、首を振ってそれを制止した。悟もそれ以上追いすがらず、柊一の手首から手を放す。柊一は膝に落ちた目隠しを拾い、付け直す。え、付けちゃうの、と悟は唇を尖らせた。
「どうも、見苦しいところを見せたね」
柊一が家入に言うと、家入は眉一つ動かさず悟を指さし「あそこに生き様が見苦しい男がいるんで慣れています、お気になさらず」とだけ言った。柊一は苦笑し、家入の差し出す書類を受け取る。柊一はかわりに小さな紙袋を差し出した。
「手間をかけてすまない、これはお礼というわけではないのだけど。お酒を嗜まれると聞いたので、肴にどうぞ」
家入は礼とともに紙袋を受け取ると無遠慮に悟を指さす。
「おまえが見習うべきところはこういうところだぞ」
「えーむり」
悟は堪えた様子もなくあっけらかんと言うとぐいぐいと柊一の着物の袖を引っ張る。
「用事終わったんでしょ? はいサイゼサイゼ」
「あ、それじゃあ、家入さんありがと……」
言い切る前に廊下に引っ張り出され、乱暴にドアを閉められる。人気のない薄暗い廊下で、悟は柊一を見下ろす。
「サイゼついでにもう一個頼まれてよ」
柊一はそれに口元で笑むだけで応える。
「僕の出張中に教え子たちを現場に向かわせたの、誰か探ってほしいな」
悟は手慰みのように柊一の目隠しの結び目を指でなぞる。どうして、と柊一は低く尋ねた。
「にいさんそれ本当に知りたいの?」
へらへらと悟は笑った。柊一は悟の手をそっとどけると、来た道を引き返す。
「知りたいわけじゃないよ、ただ、あまり無茶はしてほしくない」
「はいはい、分かってるって。おにーさまが心配するようなことはしません」
「本当に?」
「ほんとーに」
柊一は歩きながら悟の軽薄な笑顔を盗み見、視線を前に戻す。
「ならいいよ」
「調べてくれる?」
「もう調べてある」
悟は喉の奥で笑うと柊一の腰に腕を回し寄りかかった。柊一の草履履きの足元がよろめく。
「にいさん超好き」
笑声混じりに言われ、柊一は「はいはい」と小さく溜息をついた。