三
十九のときに、高専卒業後のことを考えた。
柊一は義弟の代替品として家に残ることを多少期待されてはいた。だが同時に五条悟の当主就任に際し禍根を残さぬために柊一を放逐したがっている者も多かった。柊一には悟の無下限術式が明らかになったときから当主の座を狙うような気概は毛頭なかったが、周囲にとって柊一の意思はそれほど重要ではなかった。
その頃には柊一は多少頭も回るようになっていて、己の立場の使い方も、人の動かし方も、なんとなく理解するようになっていた。柊一は実の両親のことを調べた。五条家との関係性を、名前を、年齢を、現住所を、家族構成を、仕事を。それほど難しくはなかった。
会いに行くことも、ちらとは考えた。だが両親が遠く離れた土地で呪いとは無縁の仕事に就いていることと、会ったことのない弟妹にも呪力がないことを知り、会うのはやめた。それ以上を調べることも、やめた。
家に戻るよりは、高専の呪術師としてあちこちを飛び回っていたかった。だが己が呪霊の祓除に向いているかとなると、疑問の余地はあった。補助監督もよかった。学生時代に世話になった補助監督が頼りになるいい人だったし、あの手の事務管理は苦にならなかった。だが矜持の高い五条家が、腐っても元当主候補に学生や呪術師の小間使いを許すとは思えなかった。
高専が好きだった。高専の先生は柊一が五条家宗家の人間であろうと他の生徒同様に指導し褒めときには容赦なく叱り飛ばした。友人達にも恵まれた。柊一が高専に通った代はたまたま術師家系出身の生徒が少なかったので、柊一は「何かよく分からないけど呪術界ではお坊ちゃんらしい」という程度の扱いだった。その粗雑さが心地よかった。
柊一が淡い恋めいた感情を抱いた同期は、三年を終えるのと同時に高専をやめた。柊一はそれを寂しくも思ったが、ほっともした。どうか呪いとは無縁に幸福になってほしかった。
同期が卒業後の進路を決めていくなか、柊一はぼんやりとそれを眺めているしかなかった。どうしたいという気持ちは特になかった。ただ、卒業と同時に融けて消えていなくなってしまいたいとだけ思っていた。
そういう柊一を見かねて声をかけたのが高専の教師である楽巌寺であった。翌年に学長への推挙を控えていた楽巌寺は、高専の教師の中では年配で厳格で保守的で生徒には恐れられていたが、一本芯の通った人で柊一はよく慕っていた。
高専の教師を目指さないか、と言われ、柊一は即答ができなかった。決して悪くはない提案である。教職ならば五条家の体面も一応保てる。体よく家からは出しながら、何かあれば呼び戻せる程度の距離感だ。おそらく誰もが強くは反対しない。
だが柊一は高専が好きで、高専の先生もみな尊敬していた。だから己がそのように振る舞えるかが怖かった。尊敬に足る教師になれるかという自問が柊一に二の足踏ませた。
考えます、と小さく呟く柊一の肩を、楽巌寺は無言で強く二度叩いた。その力強さと、物言わぬ優しさを、柊一はいまだに時折思い出す。
星の美しい晩であった。光の淡い水瓶座が南の空に見えるほど空が澄んでいた。柊一は自室の雨戸を開け放ちそれを見上げていた。冷えた風が室内を流れていく。
「にいちゃん」
短く呼ばれ、柊一は視線を室内に戻す。襖が細く開けられ、星の淡い光を受けてさえ冴え冴えと輝く紺碧の瞳が柊一を見ていた。
義弟の悟は十一歳になり、ますます美しく、呪術の才は冴え渡っていた。身長もあっという間に伸びて、もうほとんど柊一と視線の高さが変わらない。
「どうしたの」
「一緒に寝てよ」
悟は持ち込んだ枕を柊一の布団にぽいと投げ出した。不遜な物言いに年相応の甘えた音が滲む。いいよ、と答える前に悟は柊一の布団に潜り込んでいた。
「寒い」
悟は布団を肩まで引っ張り上げながら、雨戸を開けたままの柊一を睨んだ。柊一は雨戸を閉め、布団に戻る。男児の体温で温められた布団が柊一を迎え入れる。冷えた手足の先に悟の体温がしみこんできた。
「にいちゃん、学校楽しい?」
気儘に伸びた悟の足の先が布団を蹴飛ばした。布団の中に冷たい空気が流れ込んでくる。
「楽しいよ」
柊一は悟の美しい銀髪を指先で梳く。いつの頃からか悟はそうすると「やめろよ」と柊一の手を振り払うようになっていたが、二人きりのときは許してくれた。
「へえ、面白い奴いる?」
「うん、たくさん」
「先生とかウザくない?」
「みんないい人だよ」
ふうん、と悟の息が耳元にかかる。
「じゃあ、高専行ってもいい」
柊一は目を細めてそれを聞いていた。
「うん、そうだね。友達がたくさん出来るといいね」
悟はじっと柊一の顔を見つめる。踏み入られぬ雪原のように白い顔が、不機嫌そうに「にいちゃんは、」と口を開く。
「にいちゃんは、おれを置いていかないでしょ」
東の空から日が昇るのと同様に当然の口振りで、悟は言った。柊一の心臓はきゅうと引き絞られ、全身に冷えた血を巡らせる。指先が知らず痺れ震えた。
「……そうだね」
義弟の何気ない一言が、あれほど迷い続けた己の先行き簡単に決めてしまう。柊一は悟の華奢な肩に額を押しつけ「そうだね」と再び小さく囁いた。悟はうるさそうに身じろぎするだけだった。
*
激しく蝉の鳴く高専京都校の敷地を柊一は日陰を選んで歩いていた。空調の効いた本館に辿り着いたはいいものの学長との約束にはまだ時間があった。談話スペースで飲み物を買い、座ってスマホを確認すると悟から野球をする高専生の画像が送られてきていた。それを見ながらひとつ溜息をつく。
「あ、柊一さん」
突然名前を呼ばれ、柊一はスマホの液晶から顔を上げる。制服姿の禪院真依を見留め、ああそういえば彼女ももう高専生であったのだと思い出した。真依がほんの小さな女の子であったことが先日のことのようで、時の流れの早さにぞっとする。冷たい飲み物よりよほど背筋が冷えた。
「久しぶり、元気そうでよかった。先日は大変だったろう、怪我はなかった?」
「うん、平気。柊一さんも特級呪霊の襲撃の件で学長に?」
「まあ、そうだね」
それに加えて義弟の無体への謝罪だ。別に言う必要もないので胸の内に納めておく。真依の隣を歩いていた三輪が「だれ?」という視線を真依に向けていた。
「五条悟のお兄さん」
真依が言うと三輪は飛び上がって悲鳴を上げる。
「え、えっ! おにいさん!? あの五条悟の! うわっ、すご! 本物?」
「……本物?」
血が繋がっているかという意味なら、本物ではない。苦笑する柊一に三輪はぺこぺこと頭を下げた。
柊一は席を立ち、自動販売機に五百円玉を入れる。ランプのついた自動販売機を二人に何かボタンを押すよう勧めると、真依は「柊一さんありがと」と微笑み、三輪は過剰に恐縮しながら飲み物を購入した。柊一はおつりの取り出し口から小銭を回収しながら「まったく京都の暑さにはうんざりだね」と呻く。
「東京が涼しく感じたもの――あ、会えるんなら柊一さんにもお土産買ってくればよかった」
「気持ちだけで十分だよ」
真依は「座っていい?」と柊一の隣に腰を下ろす。長椅子に紺色の生地が広がった。柊一は伏黒に関する諸々で禪院本家には何度も足を運んだ。真依とはその頃からの顔見知りである。家同士の軋轢も幼い少女には関知するところではなく、真依は柊一によく懐いた。真依にとって柊一はたまに遊んでくれる優しいおじさんであり、ままならぬ姉弟を抱えた同志でもあった。
「真希に会った」
ぶっきらぼうに真依が言う。そう、と柊一は浅く頷く。
「元気にしていた?」
「ムカついた」
真依はそうだけ言って黙り込む。柊一はその横顔を盗み見、苦笑する。
「そうか……うん、よかった」
腹も立てられぬ関係よりは余程健全だ。真依は顔をしかめて「よくない」と唸った。
「野球は? 楽しかった?」
「楽しくは……なんで知ってるの?」
柊一は黙ってスマホの液晶を真依に見せた。ユニフォーム姿でバットを構える真依の写真は、悟から送られてきたものの一枚だ。それを見た真依は目を剥く。
「うわ、なんで!? 消して!」
「様になってるよ。真依ちゃんにも送るね」
「いらないわよ!」
適当にスワイプしていた画像の中に三輪の姿も見つけ、柊一は三輪に笑みかける。
「これは君? 真依ちゃんに送っておこうか?」
「え、あ、ありがとうございます……」
「ついでに監督姿の悟の自撮りもあげよう」
「え!!! いいんですか!!! やった!!!」
その場で画像を転送すると、三輪はスマホを掲げてくるくる回った。それから三輪ははっとして、何事かを真依に耳打ちする。真依はそれを聞いて「あんたそれはミーハーにも程があるって」と呆れた顔をした。
首を傾げる柊一に、真依が三輪を指さす。
「この子が柊一さんと写真撮りたいって」
「え、それは……」
おねがいします! と勢いよく頭を下げられ柊一はたじろぐ。五条悟の兄として扱われることには慣れているが、こういうパターンは初めてだった。
「有名人なのは悟だけで、私はただのおじさんだよ……」
遠慮がちに笑う柊一に真依のスマホが向けられる。シャッター音とともに真依は「恵に送ってやろ、……あとまあ真希にも」と言った。柊一は眉尻を下げる。
「恵くんは元気だった?」
「東堂にボコられてた」
「……元気そうでよかった」
柊一は席を立つとペットボトルをゴミ箱に捨て、二人に向かって「それじゃあね、暑さに気をつけて」と言った。
*
学長室に入るなり「どうなっとるんじゃおまえの弟は」と冷ややかに言われ、柊一は「返す言葉もございません」と深く頭を下げた。
「最近の五条悟の振る舞いはいささか目に余る」
「……よく言って聞かせます」
「おまえが言ってどうにかなるならとうにどうにかなっているだろう」
「…………おっしゃるとおりです」
項垂れる柊一に楽巌寺は席を勧めた。座る柊一に庵が茶を出す。庵は茶器を茶托に置く瞬間に柊一に気の毒そうな視線を向け、柊一はそれに目礼を返した。
「呪霊どもが現れて有耶無耶になったから面子が保たれたようなものだ」
「楽巌寺学長、それはいささか……」
楽巌寺は柊一が携えていた紙袋を一瞥すると鼻を鳴らす。
「庵にでも渡してしまえ。儂はおまえからの詫びは受け取らん」
盆を手に下がろうとしていた庵は急に名前を出され表情を強張らせた。柊一は紙袋を庵に差し出す。庵は紙袋の中身が日本酒の瓶であることに気が付き一瞬目を輝かせたが、ばつが悪そうに目を泳がせる。いえ、そんな、と歯切れ悪く遠慮の言葉を重ねる庵を楽巌寺が「さっさと受け取って下がらんか」と一喝した。
庵が閉めて出て行ったドアを一瞥し、楽巌寺は柊一に鋭い目を向けた。
「知っていたのだろう」
宿儺の器のことを言っているのは分かった。柊一は何も言わずに微笑むに留める。楽巌寺は溜息をつく。
「五条悟に染まっているのではないか」
「買いかぶりすぎです……私はもとよりこんなでしたでしょう」
穏やかに笑うだけの柊一に、楽巌寺は唇を固く引き結んだ。
「さっき、真依を見かけました。禪院本家の」
「ああ、知り合いじゃったのう」
「ええ、幼い頃を知っているので、なんというか……年を取るはずだなと」
「儂の前でそれを言うか」
小童が、と切り捨てられ、柊一は苦笑する。
「学長はお元気でしょう。私なんか毎日単調なせいか気から老け込んでしまって」
「弟のせいで気苦労が耐えんからじゃろう」
楽巌寺は柊一にとっての悟のことを義弟とは呼ばない。
柊一は所詮養子と腐された経験がそれほどなかった。この界隈で才能欲しさに本家に迎え入れられる傍流などさして珍しくはない。取り立てて言い募るものでもなかった。父方の血筋が明らかで母方の家柄が悪くなければそれは瑕瑾になり得ない。その道行きの明暗は別だが。
「先日、たまには一人でぶらぶらしたいと思って電車を利用したのですけど、小学生に席を譲られてしまいました」
「……それはちと堪えるな」
「和装がいけないんでしょうか、それともこっちですかね」
柊一は目隠しに指先で触れる。楽巌寺はそれには答えず皺ばんだ指を組み身を乗り出した。
「宿儺の器――虎杖悠仁には会ったか」
「……はい、一度だけ」
「どう思う」
「いい子でした。明るくて元気のいい今風の子で――」
そうではない、と楽巌寺は柊一の言葉を遮る。
「今後、界隈にどういう影響があると思う」
ああ、と柊一は淡く笑う。
「私には、なにも」
溜息混じりにそうだけ答えた。