悟が十三になる頃には、とうに身長を追い越されていた。
 柊一は二十一歳になっていて、高専卒業後二年あまり家業の手伝いをしていた。財産の管理、資産の運用、人員の配置、個別に持ち込まれる案件の采配、他家との折衝、高専との協力関係の維持、やることはいくらでもあった。幸いなことにその手の細々とした仕事が苦ではなかった。
 その頃の悟は荒れていた。普通の子供と同じような思春期で反抗期であったのかもしれない。周囲の大人が無能で無価値に見える時期は誰にでもあり、だが不幸にも悟にとってそれは事実であった。己の周囲に砂粒ほどの価値もないと気が付いたとき、悟はいったい何を思ったのだろうか。柊一には計り知れなかった。
 十三の悟の触れた者を傷付け自身さえ損なう薄氷の如き脆さと鋭さは、柊一をも傷付けた。悟は露骨に柊一を冷たくあしらい軽んじた態度をとって見せた。いい気分にはならない。だが咎める気にもならない。五条悟という存在を前に人間らしくあれ他者と良好な関係を築けと説くのは温情を乞うことに他ならず、それが叶わぬからとて怒り恨むのは筋違いだった。
 柊一は変わらず悟を愛していたが、辛い時期ではあった。家業にに打ち込むことだけで気分を紛らわせていた。その頃の記憶がうっすらと蜃気楼めいているのはそのせいであろうか。

 湿った雪の降り積もる日のことであった。静かな邸内に誰かの悲鳴が響いた。ついで怒号と戸惑いの声が。柊一は誰かが大切な皿でも割ったのか、或いは若い術師が鍛錬の力加減でも誤ったのかと、物見気分で声のもとを辿り、中庭の積雪に血溜りが出来ているのを見て言葉を失った。
 踏み荒らされた血混じりの泥雪の中で男が蹲り喘鳴をこぼしていて、悟がそれを冷ややかに見下ろしている。
 柊一は足袋のまま中庭に下りると男を抱き起こす。大量の鼻血こそ出ていたが命に別状はないことを確認し、男の鼻を手拭いで押さえた。手拭いが、柊一の手が、袖口が赤く染まるのを見て、悟は「うえ、きったね。よく触れんね」と鼻を鳴らした。
 男は義父の客人で、加茂の本家筋であった。柊一は男に止血を施し、人に部屋を用意するよう指示しながらぼんやりと「これは面倒ごとになる」と思っていた。いかに加茂家が激怒し義父が悟を責めたところで、悟が心を入れ替えることはない。この件で加茂家は五条家に何を要求するであろうか。人員か、書物か、呪具か、柊一は冷たくそれらを勘定していた。
 柊一は男を人に預けると、溜息まじりに立ち上がる。回廊に上がる前に汚れた足袋を脱いだ。濡れた裸足が痺れるほど冷たい。足早に自室に戻り、汚れた着物を着替える。そのさなかに悟が断りなしに襖を開けた。冷えた空気が室内を裂き、うなじを撫でていく。
「やっべえ、とーさん死ぬほどキレてんだけど、どうしよ」
「……今回ばかりは庇い立てできないよ、おとなしく叱られておいで」
 悟は唇の端にぬるい笑みを浮かべたまま、後ろ手に襖を閉める。どうしてこんなことを、と独り言のように呻く柊一に悟はへらへらと笑った。
「俺がにいさんを俺の出し殻みたいな中途半端な人って言ったら、あのおっさんそうですねって言うからさあ」
「それで?」
「ムカついた」
「だから殴った?」
 柊一が帯を締めながら悟に視線を向けると、悟は「ねえ、にいさん怒ってんの? 意味わかんねえ」と軽薄に吐き捨てる。
「自分は言ってもいいけど、人は言ってはいけない?」
 柊一は羽織を纏う。悟は鼻を鳴らした。
「あたりまえじゃん、なんで?」
 心底分からないという顔をされ、柊一は瞑目する。
「にいさんは弱ェけど、あのおっさんには腐される筋合いねえもん」
 そう、と柊一は悟の前に立つ。美しい青い瞳を覗き込む。
「馬鹿々々しいと思うかもしれないけど、聞いて。無闇に人を傷付けてはいけない。相手が弱いなら、なおさら」
「は、うざ」
「分からなくても、演じることはできるだろ、悟は……賢いんだ」
 力なくそう言い部屋を出ていこうとする柊一の後襟を悟が掴んだ。柊一は小さく呻いて蹈鞴を踏む。何か言いかけた柊一の口を、悟の唇が強引に塞ぐ。ぬめる舌が口内に侵入し粘膜をなぞる。柊一はそれを拒絶したのかされるがままであったのかよく覚えていない。拒絶したところでその頃すでに悟には力では敵わなかった。敵わないのは力だけではなく、またその頃だけではなかったのかもしれない。
 柊一は悟が仔犬のように愛らしかった頃の、触れるだけのたわむれのようなくちづけのことを思い出していた。いずれその意味が分かると、今思えば無責任なことを言った。それを淡く後悔した。
「あ、なんだ、やっぱ分かんねえじゃん」
 悟はそれだけ言って柊一を放した。柊一は右の親指で唇の端に触れる。
「まあいいや、練習ってことで」
 柊一は震える溜息をつく。滲む思考と裏腹に、心臓だけが冷たく重く跳ねていた。


 *


 交流会の悶着が一段落した頃、最上が一本の電話を柊一に取り次いだ。電話の相手は悟で、最上は端末を片手に「いやちょっと要領を得なくて……なんというか……冷凍庫のアイスが即身仏で腐ってるからどうにかしたいって」と眉根を寄せた。それを聞いた柊一は「悟の住んでいるところの燃えるゴミの日を調べてあげたら」とだけ答えた。
「多分そういうのでは……なんとなく重い話をしているような気もするので、すみません、かわって頂いていいですか」
 最上は柊一に端末を預ける。柊一が「はい」と電話を代わるなり、「あ、にーさん」と能天気な声が耳朶を打つ。柊一は端末を耳から浮かせた。悟は電話口で最上が言ったようなことを一方的に話すとさっさと電話を切った。柊一は通話が終了した端末の液晶をじっと見下ろし、次いで最上に視線をやる。
「冷凍庫でアイスが腐ってるらしい……アイスって腐るの?」
「さあ……」
 柊一と最上は揃って怪訝な顔で首を捻る。どうしますか、と眉を垂れる最上に柊一は苦笑して見せた。
「近く向こうに顔を出す用事もあったから、ついでにどういうことか聞いてみるよ、心配かけてごめん」
 柊一はその場はそれだけで収めた。義弟が大事を起こしたならば義弟本人からの連絡より先に非常時の情報共有と噂で柊一の耳にも届くはずだ。それがないということはそれほど緊急の用件でもないのだろう。
 後日、高専を訪れた柊一は冷凍庫にアイスクリームと共に腐敗した人体が保存されているのを悟に見せられ絶句した。
「だから僕ちゃんと伝えてたじゃん」
「ああ……そうだね……」
 柊一はそれ以上何かを言うのを諦め膝を折り、冷凍庫を覗き込む。真空パックの分厚いフィルム越しに焼け焦げ腐敗した人間の胴体が見える。普通の遺体ではあり得ない異質な呪力を見て眉をひそめた。
「呪物?」
「そう。正確にはなりかけ」
「……それで?」
 柊一が悟を見上げると、悟は面白そうに肩を揺らす。
「僕が保管するから」
「またそんな怒られるようなことを」
 柊一は冷凍庫のドアをそっと閉める。あまりいい気配を帯びたものには見えない。底知れぬ悪意が腐敗した体液とともに染み出しているようだ。密封し冷凍し閉じ込めてさえパッキンの隙間から悪寒を誘う息遣いが聞こえる気がした。
「こういうものを作る奴の心当たりある?」
 悟は言いながら冷凍庫を指さす。柊一はぼんやりと二人の人影を映す冷蔵庫のパネルを、次いで悟の顔を見た。
「二、三」
 そうだけ言うと悟は「さすがおにーさま大好き」と柊一の頭を抱える。柊一はされるがままになりながら悟がそれに飽きるのを待っていた。髪の毛をわしわしとかきまわされた後、柊一はやっと解放される。
 悟、と柊一は溜息混じりに義弟の名を呼んだ。なに、と悟は口元で微笑んだ。
「話すことはまとめてから電話しなさいね」
「いやちゃんと話したって。あ、にいさん、アイス食べる?」
「いらない」


 *


 伊地知潔高は駅近くの喫茶店で手のひらにじっとりと汗をかいていた。
 人を待っている。相手はこれまで会ったことのない人物で、名前は五条柊一という。この業界で五条の姓を持つ者には時折出会うが、彼が五条悟の兄であるという前情報を得た伊地知は「死んだ」と思った。あの五条悟の兄が常軌を逸していないわけがないのである。出会い頭に殺されるか去り際に殺されるかいつの間にか四分の三殺しのいずれかである。それは肉体的にではなく精神的にの意である。そうとて呼び出しを無視するという選択肢もない。そんな手が通用するならば伊地知はこれほど消耗しない。
 せめて傷が浅いうちに帰りたい。伊地知はそわそわと落ち着かなく椅子の上で身動ぎする。お手洗いに行っておくか、しかしその間に相手が来てしまったらどうしよう、と伊地知は椅子から腰を浮かしたり戻したりを繰り返す。
 喫茶店のドアが開いて、和装の男が入ってきた。今時珍しいなと伊地知はその人物に目をやり、その両目が布で覆われているのを見て「絶対あの人だ怖い」と思った。むしろあの風体で五条悟と無関係であったらそれはそれでちょっと怖い。応対している店員が「え、あ、あの、目は……お席までご案内しましょうか」とおろおろしている。
 柊一はそれをにこやかに辞退すると真っ直ぐに伊地知の座っている席に近付いてきた。伊地知は真っ青になり泡を食って席を立つ。どんな人が来るかを考えるばかりで、何を言うかを全く考えていなかった。
「はじめまして、五条柊一と申します」
「ヒエ挨拶をした……!」
「ええ、挨拶が出来るほうの五条」
 遅刻をしないほうの五条でもあるよ、と苦笑され、伊地知は己の失態に顔色を失った。深く頭を下げ「すみません」と呻くと柊一は「慣れているから」と穏やかに返した。
 衣擦れの音をさせながら向かいの席に座る柊一の姿を上目遣いに見ながら、伊地知は「なんだか思っていたのと違う人が来た」と思った。五条悟の兄というので、店のドアを蹴り開け名乗りもせず席に座り「僕の分も頼んでおいてよ気が利かないな」くらい言う人が来ると思っていた。柊一はコーヒーを頼むと、手の付いていないまま冷めた伊地知のカップを見て「そう硬くならなくても」と眉尻を下げる。伊地知はいまだじっとりとした手を膝の上で握りながら「伊地知潔高です」と会釈する。
「今日はわざわざありがとう。忙しいのにすみません」
 丁寧にそう言われ、伊地知は「はァ」と気の抜けた返事をする。
「悟はご迷惑をかけてないかな……まあ多分かけているとは思うけど」
「へ?」
 あ、そうだ、この人五条さんの兄なんだ。え、この人五条さんの兄なの? と伊地知の思考がループに陥る。
「伊地知さんは二十……六だったかな」
「あ、はい、そうです」
「高専を卒業されてからずっと補助監督を?」
「はい……させていただいております……」
 急に何だろうか、と伊地知は思いながら首肯した。
「私も学生時代には補助監督の方にはたくさんお世話になったなあ。大変だよね、運転も長いし、呪術師って……少し変わった人が多いから」
 悟もね、と柊一は口の端に笑みを浮かべる。伊地知はそれに同意していいのか分からず、さりとて否定することは出来ず、曖昧な反応をする。柊一は運ばれてきたコーヒーを受け取るとそれに口を付けた。カップを置き、伊地知に顔を向ける。
「無駄話だったね。実は今日伊地知さんとお話したいと思ったのが、簡単に言うとうちで働きませんかということなんだよ」
 さらりと口にされたそれに伊地知は「はい……え、はい?」と脈絡のない反応を返す。うちってどこ、と思った。五条家であったらおおごとである。
「五条家ではないですよね?」
「五条家だよ」
 五条家だった。伊地知は細く息を吸う。
「五条家というか……私の私設秘書みたいなものかな。現場に行くことはほとんどないから、凄惨なものを見ることはなくなる。そのかわりもっと別の嫌なものを見ることはあるかもしれないけど」
 柊一は言いながら書類ケースから数枚の書類を取り出す。とりあえずこういう感じで考えているんだけど、と渡されたそれが雇用条件と業務分掌の概要で、条件がかなり良かったので伊地知は面食らう。
「すみません、ひとつお伺いしてもよろしいでしょうか」
 伊地知が言うと柊一は「なんでも聞いて」と微笑む。
「どうして私なんでしょうか……お会いするのは初めてですよね」
「伊地知さんの仕事ぶりは聞き及んでいるし、うちが協力させていただいた現場の伊地知さんが書かれた報告書の出来がいつも素晴らしいからかな。最近少し忙しくて、優秀な人員を増やしたいと思っていた。あとは……悟に気に入られているから忍耐力がある」
 ありそうではなくあると断言され、伊地知は思わず「はい」と即答してしまった。柊一はきゅっと眉根を寄せて「本当にご迷惑をおかけしております」と頭を下げる。
「突然こんな話をされて、困惑していると思う。もし少しでも考えてくれるなら、連絡をもらえると嬉しい。何か質問があったら気軽に聞いてね」
 柊一はそれだけ言うと席を立つ。羽織の裾を払う柊一を伊地知は咄嗟に呼び止める。柊一は手を止め、眉を上げた。
「すみません本筋には関係のない質問にはなってしまうんですけど、五条さんの考えていることが分かる方法ってありますか!」
 縋るようにそう問う伊地知に、柊一はふと微笑み「ない」と答えた。