終
二十五歳のとき、義弟が親友を失った。
柊一の顔見知りの青年でもあった。思慮深く誠実な青年で、柊一は悟に対等な友人が出来たことを心の底から嬉しく思っていた。加えて彼は呪術界の未来を担う有望な若手でもあった。惜しい人物と得難い才能を一度に失った。彼が起こした事件には柊一も心を痛めもしたが、ひっそりと理解も示した。五条悟の傍らにあり、誰もが影響を受けずにはいられない。
彼が言い残したとされる呪いのない世界という言葉を、重鎮達は失笑で以て受け流した。だが柊一はそれを聞いたとき、胸のそこでふっと希望めいたものが芽吹いた気がした。呪いのない、呪術師もいない、御三家も、五条家も、「五条悟」もない世界。柊一はそれを渇望しかけ、それ以上を考えるのはやめた。
柊一は事件の処理にあたる高専に全面的な協力を申し出た。それは、五条家の人間の同期が起こした事件だからであり、この件に五条悟は関わっていないというポーズであり、高専に恩義を売るためであり、柊一にとっては青年へのひそやかな餞でもあった。
秋の気配の深まる頃であった。
風呂を終えた柊一が自室に戻ると暗い部屋で悟が胡坐に肘をついていて、柊一はいると思っていなかったものであるから肝を冷やした。悟は東京にいるはずであった。帰るという話は耳に入れていない。
悟は柊一を見るなりにこにこと笑った。
「あ、にいさんただいま。これおみやげ」
差し出された紙袋を受け取る。中身はなんでもない土産菓子であった。それを座卓に置き、柊一は悟の前に膝をつく。前見たときよりも少し瘦せただろうか。だが表情は穏やかで凪いでいる。柊一は悟の頬に手を当て、親指で瞼をなぞる。悟は目を閉じそれを受け入れた。
おかえり、とだけ言うと、悟は肩を揺らした。笑っていた。
「にいさん、僕のこと五歳くらいだと思ってない?」
頬に当てられた柊一の手を撫でながら悟は言う。柊一は喉の奥に氷のかけらを滑り込まされたような心地になる。
「そんなわけないだろ、そんな大きななりをして」
そうであったらどれだけよかったであろうか。
柊一は悟の頬から手を放す。蒼穹の双眸が暗い室内で爛々と輝いていた。
「お願いがあるんだけどさ」
悟の声音に甘えたものが滲む。威圧的で示威的な物言いはやめたらしい。柊一は消えた青年の、一見強面だが礼儀正しく丁重な姿を思い出していた。分からなくても、演じることは出来る。柊一は背筋が寒くなるのを感じたが、湯冷めのせいかもしれなかった。
「禪院家から遁走した男がいるだろ? 知ってる?」
柊一は小さく頷く。
「そいつ死んじゃって、まあ僕が殺しちゃったんだけど、どうやらどこかに子供がいるらしいんだよね。ちょっと色々探したんだけど見つからなくて、にいさんそういう探しもの得意だろ?」
言われ、柊一は久しぶりに声を上げて笑った。己が両親を探していたことを、悟は知っていた。だがなぜ探したか、探してどうしたかったか、どうしたかまで、悟は思い至るのだろうか。重要なのは、そちらだった。
「うん……得意だね、そう、得意だと思うよ」
火が消えるように笑声をおさめ、項垂れるように首肯し、柊一は悟の背中に腕を回す。抱き上げ胸の内に納めた小さくやわらかな体が、今は腕が回りきらぬほど大きい。柊一の耳元に悟の笑い声が落ちてくる。大きな手が、柊一の後頭部からうなじをするりと撫で下ろす。
ぬるい手はそのまま浴衣のあわせの内に入る。息が詰まった。腹の底が冷え、肋骨の内側で心臓が重く跳ねる。強張り仰け反る柊一の体を、悟はゆるく押さえた。柊一にも逃げられる程度の力ではあったが、それだけで柊一の気力は折れた。
幼い頃、水瓶座にまつわる伝承をおかしな話だと思って聞いていた。少年が神々の給仕のために連れ去られ、星にされる。それだけだ。胸躍る冒険譚でもなく、浮きたつ恋の話でもない。訓話にすらならない。いったいこれはなんだろう星に写し取ってまで残すべき話なのか、と思った。
「にいさん、口開けて」
悟の声音は面白そうで、幼い頃に飽きずに遊びに付き合わされていた日々のことを思い出す。抵抗するわけではないが、受け入れたわけではない。そうありたかったわけではない。柊一は普通に弟として悟を愛し、悟がそれをそういうものとして受け入れてくれればそれでよかった。だが、普通とは何だ。それも所詮、強いものが定めるにすぎない。悟がそれを普通だとするなら、柊一は従うほかない。
いやだと思った。だが思ってもしかたのないことでもあった。暴力だろうか。多分、そうだった。だがそれが暴力だというなら、悟は産まれたその瞬間から、柊一に対して暴力的であり続けてきた。
悟が「五条悟」であるのは本人の落ち度ではない。天命が、環境が、周囲の人間が、それを望んだ。
柊一はぼうと天井を眺めながら、そこに細く光が差していることに気が付く。襖が開いている。柊一はのろのろと光の差すほうに目を向ける。襖の隙間から青褪めた家政婦と目が合う。柊一は口の動きだけで「あっちへいけ」と指示する。家政婦はそのまま後ずさり、息をひそめて消えていく。彼女は昔気質の出来た使用人で、主家の暗部を言いふらすような真似はしない。
冷えた手で、悟の髪を梳く。細く柔らかい銀色の。月の光を紡いだような。
どうして、と囁く柊一に、悟は笑って「好きだから」と言った。
「にいさんも僕のこと好きでしょ」
柊一は淡く笑ってそうだねと答えた。
ガニュメデスの寓話から学ぶべきことは多い。大いなる力は脈絡なくささやかな存在の日常を奪うこと。その意図は人の発想の範疇にないこと。天にあげられた少年は、それを神々の深い寵愛のためだと思っただろう。己は特別な存在だと思っただろう。夜の空に永遠に縫い留められたとき、己の過ちに気が付き何を思っただろうか。所詮己は戯れに手折られた路傍の花であったと、受け入れただろうか。
神を愛したからとて神の愛を望んではいけない。少なくとも、己の思うようには。
*
渋谷への呪霊による攻撃は当然に御三家にも大きな影響があった。だが京都に根を張る重鎮にしてみれば、東京の一角の惨事など海の向こうの戦争のようなものであっただろうか。五条悟が封印されたという知らせは真偽も定かでないまま隅々まで行き渡った。驚愕と衝撃が拭い去られたあとは、各々が己の利権と権益のために蠢き出した。
柊一はそれを横目に見ながら己のやるべきことをしていた。五条家を守るために早々に五条悟を切り捨てた。全ては五条悟の独断であり、五条家の関知するところではなく、五条悟の所業は処分に値するものであり、五条悟の呪術界からの追放に五条家は一切の異議がないことを表明した。
五条悟という圧倒的な力の後ろ盾を失った無節操な蝙蝠と笑わば笑えと、柊一はそれを独断専行した。正確には、独断専行したと見せかけた。五条家がなくては柊一は悟を守ってやれず、柊一が悟を庇えば五条家が潰される。五条悟が封印されている間は表向きその態度を貫き通し、封印が解かれることがあればあの表明こそ柊一の独断であり五条家の総意ではないと翻意すればいい。五条悟の義兄の首は、事を収めるのにちょうどいい値頃感だ。
家という装置とは、組織とはそういうもので、柊一はそういうやり方でしか悟を守ってやれない。
柊一はあの日渋谷で撮影された監視カメラの映像を、繰り返し見ている。手のひらほどの小さな匣を見るたびに、腹の奥が冷たくなる。物言わぬ無力な小匣となった悟を、柊一は飽きもせず見続けている。
悟が戻るのならば、あのままでもいい。あの小さな匣ならば、まっとうに愛せる気がした。