疵面




 さくさくと汚れ一つない白銀の野を踏みしめながら、藤緒はしきりに左頬を気にしていた。毛皮の手袋で何度も頬に触れているのを見かね、尾形は足を止め藤緒の顔を覗き込む。

「痛むか」

 問えば、香色の瞳があてどなく尾形を見上げた。
 寒気で赤く染まったふくりとした頬。そこにかかる髪と頭巾を除けてやると、醜く引き攣れた古い傷がある。こめかみから顎まで、肉の色をした大きな傷跡は、寒さのせいかいつもより赤みを帯びて見える。
 あ、と藤緒は小さく呟いた。白い息が声とともに寒空に消える。

「冷えると痛むか」

 尾形の問いとともに白い息が立ち上る。その息が鈍色の空にほどけて消えるのを見送った藤緒の視線が、ゆるゆると尾形に向けられる。
 首を横に振る藤緒の肩から雪が滑り落ちる。早朝の街道に人影はない。夜にかけて降り続けた雪には足跡もなく、夜明け前の青白い光をぼんやりと反射していた。
 そうか、と尾形は囁くように答え、藤緒の傷を撫でる。毛羽立った古手袋の感触に、藤緒は目を細めた。

「悪いな」

 藤緒はくすぐったそうに笑み、また首を横に振る。それから、再び肩を並べて雪道を歩き始める。
 藤緒の良いところは、うるさくないところだ。唯一の美点と言ってもいい。一晩中歩き通しでも泣き言一つ言わない。しばらく風呂に入れなくても文句も言わない。飯が粗末でも愚痴を零さない。――もっとも、必要なことすら話しはしないが――旅の道行きとしてこれ以上の適任はいない。

 藤緒が何か呟いた。どうした、と答えると、藤緒は己の口元をとんとんと指で示し、尾形の顔を見る。
 尾形は己の口元に触れる。縫い跡も真新しい傷が指先に引っかかった。藤緒は一層嬉しげに笑みを深めて見せる。随分と上機嫌のようだ。
 そんなに面白い傷だろうか。ついた経緯を思えば忌々しいものでしかないが。

 傷に手をやったまま何も言わない尾形に、藤緒は紅唇を開け、閉じる。何か言いたげに尾形を見る藤緒に「なんだよ」と先を促すも、物言いたげな唇は再び開き、そのまま固まってしまった。真珠のような前歯の間から息だけが漏れる。
 そのまましばらく歩いていると「そろいだ」と、雪の地に落ちる音より小さな声で藤緒は言った。珍しく意味のある言葉だった。
 尾形が思わず目を丸くすると、藤緒は感情の伺えない瞳を前にだけ向けている。笑っていても、怒っていても、悲しんでいても、その目だけはいつも何も映していない。
 尾形とて目が笑っていないと嫌がられることがあるので人のことは言えぬが、藤緒は油断すると、人間らしいものを全て取り零したかのような表情になる。気味が悪いからやめろ、と、常々言ってあるのだが、こればかりはどうにもならない。
 きょろり、と目だけが尾形を見る。ね、と藤緒はただの音を発する。表情は無いが、機嫌は頗る良さそうだ。
 ああ、と尾形は溜め息のように答える。生々しい傷がぴりりと痛んだ。

「そうだな、揃いだ。だが、俺の傷はおまえほどひどかないぜ」

 裂けた顔を、溢れる血を、くぐもった嗚咽を、尾形は何度も夢に見た。
 くひ、と藤緒の喉が鳴る。笑声だった。おそらくは。