華美粉飾-はでづくり-



 藤緒、藤緒、と母の呼び声を聞いて、幼い尾形はよく眉をひそめたものだ。藤緒のひんやりとした手が尾形の手を握る。尾形はそれを握り返した。

「ああ、藤緒、こんなところにいたのね。おいで、こちらにおいで」

 藤緒の名を、尾形は知らない。藤緒の父は、藤緒を「あれ」とか「そいつ」と呼んでいた。藤緒自身も己の名を口にしなかった。尾形の母が藤緒と呼ぶようになったから、尾形も藤緒を藤緒と呼んだ。

 華やかな芸者である己と、無残に捨てられた己をふうわりと行き来する母は、尾形の連れていた少女を藤緒、藤緒と可愛がった。かつてそういう名の雛妓の面倒を見ていたものか、一から十まで母の夢であるものか、尾形には分からない。
 尾形の祖父母は、村八分にされた家の娘が孫息子と遊んでいることに良い顔をしなかった。だが、藤緒と夢現の芸者ごっこに興じる間、母は父を思い出して悲嘆することがなかった。だから祖父母は藤緒が尾形と一緒にいることを渋々ながらも黙認していた。

 母は藤緒の手をとり、己の部屋へと引っ張っていく。芸者時代の着物や飾り物はほとんど手放してしまったはずなのだが、どこに仕舞い込んでいたものであろうか、ずっしりと厚みのある畳紙を持ち出し、藤緒の裸足の足元に広げた。
 赤地に色とりどりの絹糸で薬玉を刺した大振袖が床に広がる。母はそれを愛おしげに撫でた。

「今夜は花沢様がいらっしゃるから、うんとめかしこまないとね」

 母はそう言うと、次から次へと飾り物を床に並べる。見慣れたものの倍は長い銀の帯、箔押しの帯揚げ、艶やかな糸を捩った丸絎の帯締め、美しい石の帯留。そういったものに囲まれても、藤緒は喜ぶでなし、戸惑うでなし、ぼうと天井の木目を見上げている。
 人形のように立ち尽くす藤緒を、母は人形のように脱がせた。剥き出しになった背を尾形はじっと見つめる。着せ替え人形のように着せられた肌襦袢で、背中が隠された。黄ばんだ木綿の襦袢よりも、静脈の這う白い背中の方が綺麗だったのに、と尾形は思う。

「足袋を履かせてあげましょう」

 母は藤緒の足元に屈むと、裸足の足に白い足袋を履かせる。藤緒の足に口付けるほど顔を寄せた母は、足袋を履いた藤緒の足にそっと指先で触れた。

「ああ、甲の高い、幅の狭い、可愛らしい足をしているのね。お正月の独楽のようね。足袋がよくよく似合う、頼りなげで、押せば転びそうな―――」

 ひゅう、と母は痙攣のように息を吸う。

「かわいそうにね」

 うっとりと、母は言った。尾形は俯いた母の、後れ毛の貼りついた項を見つめる。
 母は藤緒の足元から、ぞろりぞろりと這い上る影のように、脛を、腿を、腹を、胸を、肩を、首を撫で上げながら、藤緒の頬にぴたりと手のひらを当てた。尾形からは母がどういう目をして藤緒の目を覗き込んでいるか見えなかった。

「この足だけで、殿方はあなたにどうにかなってしまうのね」

 尾形は藤緒の足を見下ろす。裾除けから突き出た二本の足の甲が、ぴんとした足袋の上面を押し上げている。

「かわいそうにね」

 母はまた呟いた。
 いつもそうだ。お三味線のお稽古だ、小唄のお稽古だと、宙を眺めたままの藤緒に母はままごとのように話しかける。藤緒は何かを答えることはないのだけれど、時折母の三味線に合わせて撥で弦を弾いたり、調子外れな歌を歌ったりする。母はその度、大袈裟なほどに藤緒を褒め、そしてうっとりと目を細めて「かわいそうにね」と言うのだ。
 母は紅絹の長襦袢をとろりと着せかけ、伊達締めを締めるとほうと息をつく。

「赤が似合うのね。花沢様の好きなお色よ」

 母はそこでふと言葉を切り、尾形の予想通りに「かわいそうにね」とかすれるように続けた。
 母の痩せた腕が、赤い下着を纏った藤緒の背に回される。藤緒の小さな体に、母は蛇のようにまとわりついた。藤緒の華奢な肩越しに、母は尾形をきろりと睨む。

「かわいそうに、かわいそうにね」




******


「藤緒」

 呼ぶと、藤緒は刺繍の最中だというのに珍しく素直に顔を上げた。膝には赤い祝着が広げられ、華やかな薬玉を刺している。
 それが、ふと尾形の記憶を揺さぶる。

「俺の母が、おまえをかわいそうだと言っていたのを覚えているか」

 藤緒は黙ったまま、硝子玉のような瞳で尾形を見つめる。尾形はそれを肯定ととった。

「おまえ、あれ、理由が分かるか」

 藤緒は「ああう」と小さく呻く。それも、多分、肯定だった。
 そうか、と尾形は呟く。

「なあ、おまえはおまえをかわいそうだと思うか」

 尾形が言うが、藤緒はすでに膝の祝着への刺繍を再開していた。黙々と針を運ぶ藤緒に、尾形は溜息をつく。こうなっては一刻は顔を上げないだろう。
 尾形は座敷に横になり、母が褒めていた藤緒の足をぼんやりと眺める。きちんと揃えられ、天井を向いた足の裏は、白く小さな指が行儀よく並んでいて、確かに妙に艶かしく見えた。