座敷牢の家





 可愛がっている仔猫が迷い込んでしまったのは、大人たちが座敷牢の家と呼んでいる小さな木造家屋であった。ヨシが生まれた頃からずっと空き家であった小さな家である。いつの間にか大人たちはそこをそう呼ぶようになった。
 どうして皆そう呼ぶんだ、とヨシが尋ねると、母は少し眉をひそめて「気にしなくていい」と言った。
 友人の中にはしたり顔で、あそこには頭のおかしな女が閉じ込められているんだ、と言う者もいる。内地で人を殺した狂女がいて、足を踏み入れた者を殺しては生肝を喰らうのだ、と。
 そんなわけがなかった。ヨシの家は魚屋で、母は週に一度その家に季節の魚を届けている。母はその家のことを尋ねても何も答えてはくれなかった。

 ヨシは仔猫が駆け込んで行ってしまった裏門の前で、おろおろと行ったり来たりする。放っておいてもいずれ帰ってくるだろうが、訪れた者の生肝を食う女の噂話を思い出して、諦めきれないでいる。ヨシはそろそろと裏門から座敷牢の家に忍び込んだ。腐って外れていたはずの裏門はいつの間にか綺麗に直されていて、ヨシが開けても軋みすらしない。
 いつも閉ざされている門の内側は、拍子抜けするほどに整えられていた。よく手入れされた小さな花が咲き、物干し台に着物が干されている。それが女物の紬の着物であったので、本当に女が住んでいるのかとヨシは唾を飲み込む。
 まさか、勝手に家に上がるわけにもいかない。ヨシはもう諦めようかとふと思う。だが、開け放たれた雨戸の向こうを、見覚えのある斑柄の背中が走り去っていくのが見えた。あ、とヨシは小さく声を上げる。
 どうしよう、家にいる人に声をかけようか、でも、本当に怖い人がいたら――。ヨシは迷いに迷ったが、少し濡れ縁に上がって仔猫を捕まえるくらいならば大丈夫だろうと意を決する。
 履物を脱ぎ懐にしまうと、開け放たれた雨戸からそっと縁側に上る。濡れ縁の向こうの座敷は生活感のないほど整頓されていて、しんとしている。六畳ほどの小さな座敷の真ん中に、裁縫道具がぽつんと置かれていた。
 そのとき、続き間の方から物音がした。ぎくり、とヨシは肩を振るわせる。心臓の鳴る音が五月蝿く聞こえて、ヨシは息をひそめた。
 仔猫が隠れているのだろうか、それとも、誰かいるのだろうか。頭のおかしな女だろうか。噂は本当だったのだろうか。少しならばその姿を覗いてもばれないだろうか。
 ヨシは続き間を仕切る襖に手を伸ばし、その隙間からそっと隣を覗く。

 女がいた。
 襖のこちら側と変わらぬ座敷に、女が立ち尽くしていた。その女は何もない壁を見つめながら、ゆうら、ゆうら、と揺れていた。女の体が揺れるたびに、肩からずり落ちかけた長羽織の裾がざあ、ざあ、と畳と擦れて音を立てている。長羽織の裾には睡蓮が刺繍されていて、畳の上で揺れるたびにまるで水面がさざめいているように見えた。
 ヨシは取り憑かれたように女を見つめる。仄暗い室内でゆらゆらと、風に吹かれる柳の木のように揺らめく女は、この世のものとも思えない。
 あれが狂女なのだろうか。だが、正気か狂気かなどどうでもよくなるほど、女の横顔は美しかった。ただ美しいばかりの横顔は生気を感じさせず、いっそ不気味ですらあった。

 にゃあ、とどこかで仔猫が鳴いた。女がゆるりと首を巡らせる。こちらに向けられた女の顔の目元から口元まで、ざっくりと裂けていた。痛々しい赤い傷が、白い肌の上にのたうつように引き攣っている。夢見るような美貌の中で、そこだけが生々しかった。
 ヨシは思わず悲鳴をあげる。女がはっとこちらを見た。硝子玉めいた色の薄い瞳と目が合う。逃げなきゃと思うのと、廊下から足音とともに襖が押し開けられ男が飛び込んでくるのと、畳の上に転がされるのは、ほとんど同時だった。
 蹴飛ばされたのだと気付いたのは、背の痛みをじわじわと感じた頃だった。男はヨシの胸倉を掴みあげる。冷ややかな暗い目を見て、殺されると思った。ヨシはぎゅうと目を閉じる。

 ひぃーあ、と鳥の鳴き声のような女の悲鳴が静かに溢れる。女は子供のように座敷に蹲り、耳を塞いで呻いた。
 男はそれを見て、ヨシの胸倉から手を離す。

「ガキだなんて思わなかった。雨戸を開けたままにするなと言っているだろう」

 男は言い訳にしては淡々と言うと、ヨシを置いたまま女の方に歩み寄る。縦縞の単衣の後ろ姿が遠ざかっていって、ヨシはほっとして震える手を胸元で握った。
 ヨシの胸倉を掴みあげた手と同じものとは思えぬほどの優しさで、男は女の背に手をやる。女はそれを振り払うように立ち上がると、何も言わずに襖の向こうに消えてしまった。
 座敷に男と取り残され、ヨシは不安に押しつぶされそうになる。「ごめんなさい」と言いたいのだが、乾いた喉が張り付いて上手く声が出なかった。
 男は印象的な双眸でじろりとヨシを睨むと、ふんと鼻を鳴らす。

「みよし屋んとこのガキだな。出来た嬶の店だと贔屓にしていたが、とんだ悪童がいたもんだ」

 あ、とヨシは呟く。その顔に、確かに見覚えがあった。座敷牢の家に魚を届けるように頼みに来た男だ。

「ご、ごめんなさい……猫が……」

 猫が、猫が、と囈言のように繰り返すヨシに、男は眉をひそめた。

「猫がなんだ」

 にゃおう、と仔猫の甲高い鳴き声がした。懐に仔猫を大事そうに抱えた女が、ヨシの傍に歩み寄って膝をつく。
 間近に見た女の顔は、やはり恐ろしいほどに美しかった。顔は胡粉を塗ったように白く、血の気を感じさせない。なのに、頬の傷だけが熱を持ったかのように赤い。

「ねこ」

 女は短くそう言った。ヨシがおずおずと手を伸ばすと、女はヨシに仔猫を差し出した。
 ヨシが仔猫を抱くと、仔猫は大慌てで濡れ縁から庭の方へ駆けていく。ヨシはそれを呆然と見送って、ちらりと女の方を伺う。女も呆気に取られて仔猫が消えた方を見たが、ヨシと目が合うとふっと笑った。
 それから、仔猫を逃がした空の手に、女は何か紙包みを握らせる。手の平ほどの大きさのお焼きであった。表面が香ばしく焼き上げられている。ヨシが上目に女の様子を見ると、女は黙ったままヨシの着物の上から蹴飛ばされた背中に触れる。気遣わしげな手つきから、心配しているのだと分かった。
 言葉が話せないのだろうか、頭も少しおかしいのかもしれない。だが、多分、噂で言われているほど悪い人ではなさそうだった。

「ごめんなさい、猫を追っかけていて……」

 俯くヨシに、女は一瞬頷いたような気がしたが、目を合わせようともせずすっと立ち上がるとまたどこかに消えてしまった。
 男はやれやれと肩をすくめると、ヨシを立たせる。

「これに懲りたら、勝手に人の家に忍び込むような真似はするなよ」

 ヨシは何度も頷くと、掠れ声で「ごめんなさい」と呟き、子猫の後を追うようにその場を後にした。



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「それ、どうしたの?」

 ヨシがぼうとして手に持ったままのお焼きを目ざとく見つけた母がそう問う。ヨシはほんの少し、誤魔化そうかとも考えたが、正直に「座敷牢の家の女の人にもらった」と答えた。
 それを聞いた母は少し眉をひそめたが、そうとだけ言って魚の入った木箱を改める作業に戻ってしまう。
 ヨシは取り繕うように言葉を続ける。

「みんなの言うような、頭のおかしい女じゃなかったよ」

 その言葉に、母はヨシをきっと睨んだ。

「いったい誰がそんなことを言ったんだい」

 ヨシは首を縮こまらせ、目を泳がせる。

「みんなだよ。みんなが言ってた」
「二度と言うんじゃないよ」
「……はい」

 母は溜息をつくと、痛ましげに目を伏せる。

「藤緒さんは決して悪い人ではないよ。でも、あの家に近付くのはおよし」

 どうして、と聞きかけて、ヨシは口をつぐむ。なんとなく、あの男がいるからだと思った。
 お焼きを包んでいた紙を見ると、小さく書き付けがなされていた。

 怖がらせてしまつて、ゴメンナサイね
 また猫を見せてちやうだい

 万年筆の筆致であろうか、青黒のインキが濃くなったり滲んだりしながら染みている。ほっそりとした筆跡は端正で、もしあの人が流暢に話すことができたならば、こういう話し方をするのだろうか、と思わせた。