合意情死-がふいしんぢゆう-



「どうしておまえの母親はおれを殺してくれなかったんだろう」

 家の裏をしばらく歩いた先の川辺に白い花がたくさん咲いていた。そこで花のついた長い茎を集めるのが、私の役目であった。母が孕み女の股座を突くための茎だ。
 その最中、私はよく小川の浅瀬でごつごつとした川底に見を横たえ、ぼうと空を見ていた。堕胎した赤子の亡骸を川に流すのも、私の役目であった。まだ人の形にもならない赤い肉の塊は、冷たい小川の流れに揉まれて消えていった。
 その、人にもなれなかったものたちのように、冷たい水に体を晒す。そうしながら、いつも、どうして母は他の女達にしているように己を堕ろしてくれなかったのだろうかと考えた。
 だから、少年の声が聞こえたとき、胸の内が漏れ出たのかと目を丸くしたのだ。

 少年は、昏い目でじいと私を見下ろした。

「おまえ、鬼婆んとこの子だろう」

 そう言う少年は気狂い売女の子だった。父が彼女をそう苛烈に罵っていた。女と見れば見境のない父のことだから、手酷くふられでもしたのだろう。
 彼女が浅草から連れ帰られたと知った父は狂喜し上機嫌でその姿を見に行ったが、帰ってきたときはひどく不機嫌だった。泣き喚く母を顔が分からなくなるまで殴り、髪を掴んで引きずり回した。私はそれを、土間の割れた竈の中に隠れて覗いていた。
 ごっそりと抜けた髪の上に覆いかぶさるようにして、かひゅう、かひゅう、と血の泡を吹きながら荒い息をする母を見下ろしながら、哀れだと思った。だが、そう思うこと以外に、幼く非力な私に何が出来ただろうか。

 少年はどこか少女めいた大きな目で私を見つめた。ひんやりとした暁闇の双眸は、水面に映る己の目によく似ていたと思う。

「おまえも、そう思うんだろう」

 だから、そんなところに浮いているんだ。少年は口の端だけを持ち上げて笑う。幼さを感じさせない諦念の滲む笑みだった。
 うう、と私は小さく呻く。それは半分正解で、半分不正解だ。なぜ母は私が生まれ落ちる前に息の根を止めてくれなかったのかと思ってはいたが、そう思うから浮いていたわけではない。ただ、冷たい水に晒されていると、澱が流れて綺麗になれる気がした。
 どうしてそう思うのか。綺麗になれるということは、今は汚れているのか。そんなことをぼんやりと考えて、息をつく。少年は草履を脱ぎ捨てると、ざぶざぶと私の顔の横に立った。

「冷たくないのか」

 少年は爪先で水面を蹴飛ばしながら言う。水滴がぱらぱらと顔にかかる。
 冷たい。だが、それが一体何程のものであろうか。手足の指先から体温が溶け出していくと、なんとなく気分が良かった。

「つめたい」

 一言答えると、少年は意外そうに目を丸くした。村の者は、私を唖だと思っている。彼もそうだったのだろうか。

 そうか、と彼は小さく、独り言のように呟く。
 ざあざあと水の流れる音がした。少年が頭のあたりに立っているために水の流れが変わり、水音も皮膚を撫でる水流も変わってしまった。それが少しだけ不快で目を細めた。

「冷たいのなら、なんでそんなところにいるんだよ」

 ほう、と私は細く息を吐く。そんなこと、知らない。
 母だって死んだ方が楽になれるような扱いをされながら、齧り付くようにして生き続けている。私も、産まれてはいけなかったことを理解しながら、のうのうと生きている。人間なんて、そんなものだ。
 彼は違うのだろうか。水が冷たいから、水から上がるのか。時の流れのように、天の運行のように、人の心がそのように精密なものか。町で産まれた人間は、そういう風に出来ているのか。それとも私のあたまがおかしいのだろうか。
 ふ、と私は思いつく。だから、それを口にした。

「おまえはこの村で生まれていない」

 少年は一瞬何を言っているのか分からないという顔をしたが、ややあって眦のあたりに怒気を滲ませた。

「だからなんだよ」

 どうして彼が怒っているのか分からない。そのまま怒りを浮かべた目をじいと見つめていると、何も答えず、怯えるわけでもない私に興が削がれたのか、少年は水面に視線を落とした。
 私は水底から上半身を起こす。薄くすり切れた着物は水を吸っても大して重くもならなかった。
 彼は他の村の子供達にも余所者と呼ばれていた。きっと、それは、彼等にとっては何か重要な罵倒の意味を持つのだろう。だから怒っているのだ。おそらくは。
 私はその誤解を解くために、言葉を重ねた。

「だから、おまえを殺せなかった」

 産声を上げた赤子を殺すのは、たまにしかやらない。この村に来たときはすでに赤子ではなかった少年をどうやって殺すというのだ。
 私が言うと、少年は呆気にとられたような顔をした。それから、ふと笑う。

「まあ、そうだ。そうだな」

 それから少年は私の隣に座った。絣の着物が濡れて色を濃くする。

「おれの名前、知っているか」

 問われ、私は首を横に振る。少年は乾いた石に濡れた指で何かを書き付ける。

「ひゃくのすけ」

 少年は言う。

「字は読めるのか?」

 私はまた首を横に振る。少年――ひゃくのすけは私の手を取り、岩に滲んだ水の染みを触らせた。じゃりじゃりと、砂まじりの湿り気が指先に触れる。

「この、飛んでる鳥みたいなのが「ひ」だ。これが「や」。二つ続くとひゃって音になる。わかるか?」

 私は乾いて消えかかった水の跡に指先を伝わせながら、頷く。

「ひゃくのすけ」

 これ一つで一つの音と対応しているのだろう。残りの五つの音も、推測は難しくない。ひゃくのすけは意外そうな顔をした。

「ふうん、おまえ、白痴のくせに、勝蔵よか賢いな」

 私は水から立ち上がり、水際に置いていた野菊の枝を手にする。

「帰るのか? 帰る場所があるのか?」

 ひゃくのすけが言う。私は頷く。

「帰りたいのか?」

 首を横に振る。ふ、とひゃくのすけは笑った。

「また会えるか?」

 狭い村だ。その気がなくても顔を合わせる羽目になる。私がひゃくのすけの顔をじいと見つめると、ひゃくのすけは恬淡とした様子で私を見返してくる。

「狭い村だからな。どうせ、また、顔を合わせる羽目になるか」

 私は頷く。ひゃくのすけは満足そうに鼻を鳴らすと、水から上がり、川岸に置いていた射殺された鴨を無造作に持ち上げた。

「今度は、字を教えてやるよ」

 ひゃくのすけはそうだけ言って、駆けていってしまう。私は爪先を水に浸したまま、それを見送った。