一片の
「藤緒ちゃん」
何の気なしに白石が呼ぶと、藤緒より早く尾形が顔を上げた。
「馴れ馴れしい。あっちへ行け」
この言い草である。剣呑な尾形を歯牙にもかけず、藤緒は牛山をして「小奇麗すぎてその気も失せる」と言わしめた花貌を白石の方へゆるりと向けた。
裾をからげた旅装の上に道行き、さらにその上から第七師団の軍人から奪った外套を纏い、アイヌから融通してもらった毛皮を被った蓑虫のような姿の切れ間から、淡い色の双眸が白石を見つめる。
「尾形ちゃんは呼んでないってぇ」
白石はそうぼやきながら藤緒に小刀を差し出す。血脂で曇った刀身は、今しがた栗鼠を叩き刻んでいたものだ。
アイヌの習慣か、アシリパのこだわりか、チタタプへは全員強制参加である。付き合いの悪い尾形も、ほとんど口のきけない藤緒も例外ではない。
尾形はちらと藤緒を見やり、手を切るなよと言うだけだ。白石は、可愛らしい小動物を細切れにするなど、藤緒は嫌気をさしているのではないかと思っていたのだが、尾形が止めないということはそうでもないのかもしれない。
何しろ、一行で尾形が一番藤緒を気にかけているし、藤緒の思うところが分かるのも尾形だけだ。
興味関心も嫌悪も浮かばぬ顔で、藤緒は促されるままに俎の前に座る。アシリパの紺青の瞳が藤緒を見つめる。
「藤緒、上手く出来るか?」
藤緒は口元に笑みを滲ませながら、首肯する。胡粉で塗り固めたような藤緒の表情も、アシリパの前では和らいだ。
とん、とん、と俎を小刀が叩く音が規則的に響くのに、アシリパは満足気に頷く。
「いいぞ藤緒、チタタプ、チタタプ」
言葉を口にしない藤緒に代わってアシリパがまじないを唱える。
しばらくすると、藤緒の手がはたと止まった。アシリパは気遣わしげに藤緒の肩に手を添える。
「どうした藤緒。疲れたのか? 杉元と代わるか?」
藤緒はアシリパの顔をしげしげと見つめると、手の内の小刀を軽く持ち上げ、俎の上に落とした。
「―――チタタプ」
ぽつりと囁かれた言葉は、アシリパの蛇を見たかのような悲鳴でかき消された。ぎゃー! という尋常でない声に、杉元はすわ何事かと身構える。
「アシリパさん!?」
「大変だぞ杉元!! 藤緒がチタタプって言った!」
「えっ、本当に?」
アシリパは藤緒の肩をばしばしと叩く。
「藤緒、ほら、もう一回! 杉元にも聞かせてやれ!」
「藤緒さん、チタタプチタタプ」
二人に取り囲まれた藤緒はぷいと顔を背けてしまう。唖と思われるのは慣れているが、話しただけでここまで喜ばれるのは気恥ずかしい。
まあまあ、と白石が割って入る。
「二人とも、そんなに詰め寄っちゃ藤緒ちゃんが可哀想――あいたっ!?」
背後から尾形に尻を蹴飛ばされた白石は地面に崩れ落ちる。助け船を出したのになぜだ。納得がいかない。
アシリパは目を輝かせて尾形に駆け寄る。
「尾形! 藤緒がチタタプって言ったぞ!」
対して尾形はつまらなそうに鼻を鳴らす。
「藤緒は話せないわけじゃない。話さないだけだ。話したければ変なまじないだってする」
「変なまじないじゃない!」
むっと頬を膨らませるアシリパに、藤緒は目元を和ませる。 アシリパは丸い大きな瞳で藤緒を見上げた。
「藤緒は話したくないのか?」
藤緒は首を傾げる。硝子玉のような目が宙をうつろった。
藤緒は曇った小刀をほっそりとした手で弄ぶ。尾形が眉をひそめ、それを取り上げた。
「昔はもう少し話したような気もするが――」
尾形はそこで口を噤む。幼い時分の藤緒 は、拙くとももう少し饒舌だった。藤緒が話さないのは、滔々とした思考に耽溺する藤緒の頭の中身を伝えるのに言葉というものがあまりに貧弱だからだ。幼い頃よりも話さなくなったのは―――尾形が藤緒の意を汲んでしまうからだ。
ふ、と尾形は小さく笑む。
「まあ、別に、話す必要も無いだろ」
「えー、俺は藤緒ちゃんと話したいけど」
「別に話す必要も無いだろ」
「駄目押しかよ」
肩を落とした白石に藤緒は寄り添い顔を見上げる。
「わ、藤緒ちゃん慰めてくれんの? やさしー」
「離れろ藤緒、伝染するぞ」
「何が!? 尾形ちゃん、ねえ、何が!?」
尾形は呼び寄せた藤緒の袖に跳ねた血を拭ってやる。
「話す必要も無いだろ、なあ」
寒さに赤くなった耳に囁くと、藤緒は何も答えることなく目を細めた。