暁闇双児-のろいのこ-



 土間の隅に藤緒が蹲っていた。襤褸切れのような着物は見かねた祖母によって脱がされ、母のお古を着せられている。丈が余って幅広くとられたお端折りが、藤緒の痩せた胴回りを少しだけふっくらと子供らしく見せていた。

「藤緒、何してんだ」

 尾形が尋ねると、聞こえていなかったのだろうかと思えるほどの沈黙のあと、藤緒はのろのろと顔を上げた。手にはぐにゃりとした野鼠の死骸を携えている。
 尾形は顔をしかめた。

「鼠の死骸なんて触るなよ。病気になるぜ」

 藤緒は手の内のそれをじいと見つめる。尾形はそれを取り上げ、木戸の向こうに放り投げる。物言いたげな藤緒に首を横に振った。

「猫イラズで死んだ鼠は食えない。毒が残っているから」

 そう言うと、藤緒は納得したのかしないのか分からないまま空っぽになった手を見下ろしていた。尾形はその手を濡らした手拭いで拭いてやる。ふたつかみっつしか齢は変わらないはずなのに、藤緒はまるで赤子のようだ。
 ぼんやりとしていて、言葉もほとんど発さない。かと思えば妙に聡いところもある。文字などはさわりを教えただけで難なく読み通せるようになった。

「おまえの母親も食えないのか」

 ぽつん、と藤緒は零す。尾形はぎょっとして藤緒の顔を見つめる。藤緒は淡々とした無表情のままで、まだ空いた手のひらを見下ろしている。

「来いよ、藤緒」

 言うと、藤緒は黙って尾形の後を付いてきた。土間と一続きの台所には、調理途中の鮟鱇がぶつ切りで鍋に放られている。その下に二人で膝を抱えた。
 息を潜めると、小さく啜り泣く声が聞こえる。時折痙攣発作のような喘鳴も鼓膜を震わせた。

「可哀想だろ」

 尾形が言う。藤緒は首を傾げた。

「毎日、毎日、来もしない父さんを待って泣いてるんだ」
「次は黄泉路で泣いて待つんだろう」

 藤緒は淡い色の瞳を壁に向けてそう言った。藤緒は尾形の母親のことをどう思っているのだろうか。夢見心地のままごと遊びに付き合わされて、辟易としているのだろうか。それとも、それなりに懐いているのだろうか。
 尾形は藤緒の手に、透明の瓶を握らせる。硝子の小瓶には石見銀山鼠捕りと紙のラベルが貼られている。藤緒は驚くわけでも咎めるわけでもなく、黙って尾形を見つめた。

「可哀想だろ」

 尾形がもう一度言うと、藤緒は手の内の硝子瓶を傾けた。美しい白い結晶が硝子の内でさりさりと繊細な音を立てる。
 ほ、と藤緒は息を吐き、首を横に振った。 尾形はむっとする。

「止めるのかよ」

 刺々しい尾形の物言いに、藤緒はまた首を横に振る。尾形は藤緒の手から小瓶を取り、代わりに木の杓子を握らせた。

「あとはおまえが作れ。最後は俺がやるから」

 母は尾形を台所に立たせなかったが、藤緒には料理を教えていた。鮟鱇鍋ばかりであったが、多分、藤緒の記憶力ならば作り方を忘れることはないだろう。
 藤緒は嫌そうな顔をした。料理は嫌いなのだ。特に母が言うような「お酒を一回し、お醤油を良い色になるまで」といった杓子定規でないやり方を好まない。むくれる藤緒に「やれよ」ともう一度促すと、藤緒は渋々鍋の前に立った。
 藤緒は辿々しい手付きで台所から鍋の具材を集め、切り分けていく。とてもではないが、病み窶れた女と子供二人で食べきるような量ではない。だが、それが母のいつも作る量だった。そんなところまで模倣しなくても良いのに、と尾形は思う。
 母の作る鍋は料亭風の上品な醤油味が自慢だった。尾形も味噌仕立ての物より、肝の脂できらきらと黄金色にきらめく透明なつゆの方が好きだ。
 煮立つ鍋の前で困惑気に立ち尽くす藤緒の手から、醤油の瓶を取る。

「いいよ。おれがやる」

 味を見ながら鍋に醤油を足す。藤緒に次々と渡される瓶から、適当に調味料を足していく。
 何か言いたげな藤緒に、尾形は笑った。

「適当だよ。おまえがやらないんだからしょうがないだろ」

 藤緒は酒の瓶をしまいながら、恨めしげに尾形を見た。
 それから、様子を見て、鮟鱇のアラで出汁を取り、具材を鍋に放り込んでいく。鍋がくつくつという頃には、母が作る物と変わらぬような鮟鱇鍋が出来上がっていた。

「ふうん、上手く出来たな」

 尾形は二人分を椀によそう。差し出したそれを藤緒は素直に受け取り、口をつけた。ぱ、と藤緒は笑む。満足のいく出来であったらしい。
 続いて尾形もつゆをすする。なんとなく物足りないような気がするが、旨かった。

「旨い」

 尾形が独りごちると、藤緒はこくりと頷き、夢中で椀の中身を口に運ぶ。

「なあ、おい」

 永久に片割れが使われることのない夫婦茶碗に鮟鱇鍋をよそう。それを見た藤緒は無表情を陰鬱に陰らせた。
 尾形は椀に、さりさりと白い結晶を溶かし込んでいく。

「おまえが持って行けよ。そうしたら、母さんは絶対に食べる」

 藤緒を己の雛妓だと思い込んでいる母ならば、藤緒の持つ鮟鱇鍋を見て、きっと夢見心地に全ての辻褄を合わせるだろう。だが、藤緒は首を横に振った。

「やれよ。夢を見たままの方がいい」

 藤緒は突き出された椀を、ぐいと押し戻す。

「おまえの現実だ」

 そう言う藤緒の目はひどく無感情に見えた。
 尾形は思わずけらけらと笑った。藤緒が見た目通りの阿呆でないことを、尾形はたまに忘れる。藤緒は、全部分かっている。己がこれっぱかしも母を憐れんでいないことも。

「ああ、ああ、そうだな。俺がやるよ」

 そう言う尾形を、藤緒はじいと見つめていた。尾形が泣く母をなだめ、昼食を勧め、それを口にした母が血を吐いてのたうち回るのを、藤緒は玻璃の双眸でただただ見つめていた。
 母がようやく動かなくなり、床に散らばる鮟鱇の白い身や、煮すぎてくたくたになった菜っ葉を眺めていた尾形がふと顔を上げると、藤緒が立ち尽くしていた場所にはもう誰もいなくなっていた。
 それから、藤緒は尾形の家に来なくなった。


******



「もう、あの子と遊んじゃいけないよ」

 母の葬儀が終わると、祖母は尾形にそう言い聞かせた。母の精神安定剤であった藤緒は、ただそれだけの理由で尾形家の敷居を跨ぐことを許されていた。
 母がいなければ、村八分の白痴娘など忌々しいものでしかない。それを、藤緒は分かっていたのだろう。だからあれを渋ったのかも知れない。だが、幼い尾形には分からなかった。母が死んでも、藤緒がいればいいとさえ思っていた。
 尾形は、母と己の部屋だった、今は一人きりの部屋で布団にくるまり寝返りを打つ。雨戸の外からコノハズクの鳴き声がした。

 表向きには母の死は農薬の誤飲が原因だと説明されたが、娯楽に飢えた田舎者がそんな話を信じるわけがなかった。玄関先に立ち、弔問客を一人一人検分する尾形を、大人達は好機の視線で窺い見た。
 恋に破れて狂い死にした元芸者の死に様を一目見ようと村中から弔問客が押しかけたが、そこに尾形の目当ての人間はいなかった。
 葬儀が終わり、もしかして今日こそ父親が線香を上げに来てくれるかも知れない。今日こそ、今日こそ、と思う内に二月以上が経とうとしていた。
 家の中から香の匂いは薄れていき、かわりに火の消えた静けさだけが澱のように残った。

 暗い天井に、尾形は息を吐く。父親は来なかった。いよいよ己は望まれぬ子だったのだろうか。いや、もしかしたら、母の訃報は父まで届かなかったのかも知れない。届いていても、多忙で来られなかったのかも知れない。
 それでも、父親は母親の訃報に触れたとき、ほんのちらとでも己を思ったであろうか。農村出身の芸者に産ませた賤しい子を、顧みただろうか。

 そのとき、雨戸に何かがぶつかる音がした。かつん、かつん、とかすかな固い音がする。
 尾形は訝しんで布団を抜け出し雨戸を細く開けた。腫れ上がった目が尾形を見返した。ひゅう、と尾形は息を詰める。

「藤緒」

 暗い庭に、藤緒がぼんやりと立ち尽くしていた。細い月の光を浴びてほとんど半裸のような襤褸布を纏った藤緒は、幽鬼のようにさえ見える。

「入れよ」

 人形のように整った白い顔が、青黒く腫れている。酒に酔っては――酔わなくとも――暴れ、人を殴る藤緒の父親の矛先はもっぱら藤緒の母親であった。勘の良い藤緒は、父親のいそうなときは家に寄りつかない。居合わせても、壁の染みのように振る舞う。
 藤緒にしては珍しいことに、父親に殴られたのだろう。祖母に着せられた母の着物も、剥ぎ取られて酒代か博打代になっていることだろう。
 藤緒は物音もさせずに、濡れ縁から座敷にあがる。白く細い手首が鼻血を拭う。顔の半分に血が広がった。

「汚えな。拭いてやるから待ってろ」

 足音をひそめて、土間の水瓶で手拭いを湿らせる。なんとなく、己が浮き足立っているのが分かった。多分、それは、己よりも藤緒がずっと惨めだからだ。
 部屋に戻ると、藤緒は空の布団の枕元で膝を揃えて座っていた。母に仕込まれた姿勢はきちんとしている。尾形は藤緒の傍らに座り、銀色の月光を頼りに湿した手拭いで顔の血を拭ってやった。
 青黒く腫れた頬に触れても、藤緒は痛そうな素振りすら見せない。きっとそういうところが、父親の興をそそらないのだろう。母親のように泣いて喚いてのたうち回り、許しを請うたり恨めしげな顔をしたりしないから、藤緒はあまり殴られない。

「ずいぶんと派手にやられたんだな」

 尾形が言うも、藤緒は反応しなかった。藤緒なりに、殴られたことには怯えているのだ。
 この細工物のような美しい顔を、力いっぱい殴れる父親の気が知れない。気が触れているのだろうか。

「なんで来たんだよ」

 今更、と尾形が言うと、藤緒は困ったように眉をひそめた。酷なことを聞いたものだ。藤緒にはここ以外に逃げ込める場所なんてない。歓迎されないことを知ってさえ。

「もう、母さんの葬式も終わったぞ」

 あう、と藤緒が小さく呻く。腫れた頬に手拭いを当ててやると、気持ちよさそうに目を細めた。

「おまえ、共犯者だぜ」

 尾形は笑う。藤緒ははたはたと数度瞬きした。

「俺の秘密を知ってしまったな」

 手の内の小さな藤緒の顔が、壊れた雛人形のようだ。

「おまえの秘密は?」

 問うと、藤緒は丸い目を尾形に向ける。

「俺の秘密ばっかり知られちゃあ不公平だ。なあ」

 藤緒はしばらく宙を見ていたが、尾形の耳元に唇を寄せた。耳朶に湿った熱い息がかかる。血のにおいのする息だった。
 ほしょほしょ、と耳元で囁かれるそれを聞いて、尾形は顔を歪める。華奢な肩を押して藤緒を布団に転がすと、藤緒は白い布団の上に長い髪を広げながら悪戯が成功したように笑った。

「ひでえ話だ」

 ひひ、ひひひ、と笑う藤緒につられて尾形も笑い、藤緒の横に寝転ぶ。開けられたままの雨戸から、夜風が吹き込んできた。
 尾形は藤緒の背に腕を回し、藤緒の髪を指で梳く。己が父親にそうされたかったように、藤緒にそうした。

「藤緒、俺の子になればいい」

 己ならば、藤緒を愛してやることが出来る。己以上に祝福されない、呪われた子でも、己は父親のように捨てたりはしない。

「なあ、そうしろよ。それがいい」

 尾形が囁くも、藤緒は引き攣るように笑い声をあげるだけだった。