爪も牙も



 完成された人間が存在し得るのならば、その一つの形を今見ていた。
 血の凍るような美貌に嫋嫋たる姿態。両の瞳は感情も知性の火も宿らない。白痴よ物狂いよと憐れまれ、蔑まれ、一端の人間扱いされることもないが、瑣事に煩わされることもない。弱々しい印象とぼんやりとした様とは裏腹に聡くしたたかな面もある。油断を誘う脆弱な心身は、彼女の処世には必要なのかもしれない。牙も爪も持たないひ弱いばかりの兎が幾星霜もの生存競争に打ち勝ってきたように。

 家永は、硝子障子の向こうにゆらゆらと揺れる藤緒の後ろ姿を眺めた。縁側に腰掛け、脚を投げ出して中庭に視線をやっている。土方あたりが見れば「行儀の悪い」と窘めるであろう姿だ。だが、今、ここに土方はいない。各々が所用で出払っており、屋敷には病み上がりの家永と出不精の藤緒しかいなかった。
 家永は淹れた茶を手に、藤緒の傍らに膝を折った。やや斜め後ろからほっそりとした首筋を眺める。白い首筋に垂れるほつれた髪の毛の一本さえ、寒気がするほど美しいのだ。藤緒の体にあって完璧でないものは、左のこめかみから口元にかけての大きな切創くらいのものだ。
 この傷のない、完全に完璧な藤緒を見てみたかった、と家永は思う。牛山などは「これくらいの瑕瑾があった方が可愛げがある」などと言うが、奇異な意見であるだろう。
 藤緒は家永に気付いているのかいないのか、中庭にあてどない視線を投げたままだ。

「藤緒さん、どうぞ」

 茶を勧めても、藤緒は瞬き一つしなかった。家永はその横顔を観察する。
 知恵遅れと眉を顰められがちな奇妙な振る舞いも多いが、知的な遅滞は見られない。神経病理的に何らかの問題を抱えていることは確かであったが、外科医である家永には確かな診断は下せなかった。
 家永が座った位置からは、頬の傷は見えない。そうしているとただただ絵のように美しい女でしかない。この璧玉の如き美貌も幾年月とともに衰えると思うと、家永はやりきれない気持ちになる。骨灰磁器のような肌はくすみ皺ばんでいく。重たげな黒い髪にはぱさぱさと白いものが混じる。
 その前に、己の体に取り込んでしまいたい。

「ねえ、藤緒さん、永遠に美しくありたいとは思わない?」

 そう囁くが、藤緒は家永がいないかのように振る舞う。永遠の若さに、美しさに、執着のない者がいるだろうか。これほどまでに価値ある美貌の持ち主が、その財産が掌からぼろぼろと零れ落ちていく様に、耐え得るものであろうか。
 己はそれに、我慢がならなかった。

「そうすれば、尾形さんの心もずっと繋ぎ留めておけるのよ」

 それでも藤緒はぼんやりと庭を眺めている。何がそんなに面白いものか、とつられて庭に視線をやるが、そこに見るべきものなど見当たらない。ふと視線を戻すと、藤緒がこちらを見ていた。決して焦点の合わない香色の瞳が虚ろにこちらを向いている。
 思いがけないことであったから、家永は思わずたじろいだ。すぐに気を取り直して、藤緒に膝でにじり寄る。

「考えてご覧なさいな。老いて醜い女に、あの人は今ほど良くしてくれるかしら?」

 家永は藤緒の頬に手を添える。傷のある方の頬だ。傷だけがてらてらと突っ張った感触で、他は吸い付くように柔らかく滑らかだ。
 手のひらの下で藤緒の頬が動く。笑っていた。ひゅう、ひゅう、と笑声に似た声が赤い唇から漏れる。

「その手を離しな、家永」

 低い男の声とともに肩甲骨の内側にひんやりと硬い筒先を当てられた。家永は渋々藤緒の頬から手を放した。まるで面を剥いだように、藤緒の顔からは表情が消えている。

「藤緒、あっち行ってろ」

 背後から尾形の声がそう告げるが、藤緒はやはり庭に視線をやるだけだ。尾形は一つ溜息をつき、家永の背後に膝をついた。

「俺に引鉄をひかせるなよ」

 耳の後ろで囁く声がする。家永の首筋に冷たい汗が伝う。どういう顔をしているのか、家永からは見えなかった。

「あら、尾形さん。私、何かしました?」

 うふふと家永は笑う。何もしていない。今は、まだ。
 尾形は鼻を鳴らし立ち上がると、藤緒の手を引いた。藤緒は案外おとなしくそれに従う。尾形に連れられていく藤緒はふうと家永を振り返り、己の傷を指先で撫でながらにぃと笑った。