もの言わぬ花



 遠目にちらと見ただけのその姿が、心を掴んで離さない。橙に染まる夕暮れがゆうるりと紺青の夜闇に溶けていく黄昏時に、静かに蕾を綻ばせる夕顔のような女であった。その横顔のあまりの美しさに目が離せなくなったのだ。
 ひ弱いまでにはかなげな姿が、薄暗がりにぼうと佇んでいる。流行遅れな柄の銘仙は擦り切れていて、女の暮らしぶりがさして豊かでないことを窺わせる。
 あれほどの美貌であれば、人気の芸者か、はたまた金満家の御手掛か、そうでなくとも花容によく似合う装いをぜひに贈りたいという男がいくらでもいるだろう。だがその質素な生活を思わせる成りが、鯉登にはむしろ好ましかった。
 女は連れの男の方を見上げる。男をよく観察すれば鶴見中尉の聯隊に所属している者であった。名を尾形百之助という。かつての第七師団長で父親の知己でもあった花沢中将の妾腹であるというのは公然の秘密である。平生であれば軍人ともあろう者が戸外で女とみだりに連れ歩くなど風紀を乱すと訓戒の一つも垂れるところだ。だが、鯉登はその姿をただ見送った。
 雑踏の中風呂敷包みを手に歩く尾形は、普段よりも歩調を緩めて女に並んで歩いていた。表情こそ常と変わらず恬淡としたものだが、視線は気遣わしげに女に向けられている。鯉登にとって、男が女と並んで歩くなど恥ずべき振る舞いであった。しかし鯉登はその様子を見て、わずかな羨望を胸に抱いたのだ。

 後ろ姿すら見えなくなった路上で立ち尽くす。果たしてあの女は何者であろうか。尾形が妻帯しているという話は聞いたことがない。姉妹がいるという話も聞かない。

「あんおなごはだいぞ」

 そればかりを考えていた鯉登は、後日駐屯舎で尾形を見かけ、ついそう言葉にしてしまった。鶴見中尉にさえ油断ならぬと評される男は、怪訝そうに周囲を見回し、どうやら己が声を掛けられたということに気がついて敬礼をした。

「失礼しました、鯉登少尉。いったいなんのお話ですか」
「あ、いや―――」

 口ごもる鯉登に、尾形はいっそう怪訝な顔をする。

「その、先日貴様が女と出歩いているのを見かけたのだが……」

 それを聞いて、いったいどうしようというのか、と鯉登は内心自問する。尾形は「ああ」と得心のいった顔をした。

「ものすごい美人でしょう」

 鯉登はぎょっとして言葉に詰まる。「洋装の男」「黒い毛の犬」と称するのと変わらぬ気軽さで尾形は彼女をそう呼んだ。この男にとっては、あの魔性を帯びた美しさは幾許かの価値も無いとでもいうのだろうか。

「いや、顔は見えなかった」

 とっさに嘘をつく。尾形はふと唇に笑みめいたものを浮かべた。

「そうでしたか」

 言葉少なに尾形は答える。鯉登は唇を湿しながら、慎重に問いを決めた。階級はこちらがずっと上だとはいえど、向こうは年上で、日露戦争帰りの兵である。舐められてはいけない。侮られるわけにはいかない。と、そういうことばかりが頭をよぎる。

「あれは一体――」

 何者かと鯉登が問う前に、尾形は答えた。

「同郷の女で、早くに父母を亡くしたのでうちで面倒をみていました。病に臥せった私の母の世話をよくしてくれたので、長いこと家族同然に暮らしていたのです。祖父母亡き実家に一人置いておくのも忍びなく、こちらに連れてきました」

 つらつらとまるで練習したかのような口上に鯉登は違和感を覚えた。
 そうか、と鯉登は小さく呟く。尾形の妻というわけではなく、婚約者の類でもない。それは鯉登にとって、心躍る報せであった。鯉登はあたりに目をやり、誰もいないことを確認すると声をひそめた。

「そのおなごと会うことは出来ないだろうか」

 鯉登の言葉に、尾形は「参りましたな」と首の後ろを掻いた。それは独り言でも、ましてや心の内が思わず漏れたのでもない。鯉登に聞かせてやりたいという悪意に似た何かを感じて、首筋が総毛立った。

「鯉登少尉、実を言うと、あれは知恵の足らぬ女でして」
「――なに?」

 尾形の目が何かを探るように鯉登を見上げる。

「まともに口はきけませんし、些細なことで癇癪を起こし泣いて手が付けられなくなる。何かに気を取られると一刻でも二刻でも、一晩でも雨曝しで立ち続けることもある」

 そういうようには見えなかった。だが、あの美しさならば、天によって他の何かが奪われていのも宜なるかなと鯉登は思う。
 尾形の目は昏く鯉登の顔を見つめた。

「もしもあの姿に夢を見ているならば、夢のままにしておいた方がいい。死地に向かう前に果報なことだと心に留めておくにして頂きたい」
「いや、しかし……」
「鯉登少尉、気紛れに美しさを愛でることは、鯉登少尉にとってちょっとした気晴らしになるかもしれない。だが、あいつに無為な夢を見せてどうなるのです」
「そんな不埒な心積もりでは……」
「顔ばかりは美しい白痴の面倒を、鯉登少尉は最期までみられるのですか。家のことなどろくに出来ぬ女を女房にいたしますか。父母をとうに亡くした田舎娘など、鯉登の家が許しますまい。お家を出奔いたしますか。いずれ枯れる容貌のためにそこまで出来ますか」

 鯉登は言葉を失い立ち尽くす。尾形は溜息に似た吐息とともに続けた。

「ささやかな遊びを楽しみたいのならば、己の容貌や愛嬌を金銭に換算出来る割り切った女をお探しになった方がいい。女のためにも、――鯉登少尉自身のためにも」

 そこで、尾形は口の端を歪ませる。言いようのない寒気が鯉登の項をひりつかせた。

「幼い頃から家族同然に育ったあいつは、私にとって妹のようなものです。娼妓でも芸者でもない。そういう器用な真似が出来る奴じゃない。気の毒なほど世慣れぬ女です。戯れに手折っていずれ手放すことが分かっている相手に託すことが出来ましょうか」

 鯉登は頭に血が上りかけたが、それを理性で押しとどめた。不遜な物言いを除けば、尾形の言い分に理がある。
 ちらと見かけただけの女にのぼせ上がり、己の立場も弁えずに無様な真似をしてしまった。羞恥と己への不甲斐なさに鯉登は奥歯を強く噛む。

「鯉登少尉、これでよろしいでしょうか」

 修練を終えたのかがやがやと廊下の向こうで兵卒達がこちらへ向かってくる気配がする。鯉登ははっとして頷いた。

「ああ、行っていいぞ」
「失礼いたします」

 尾形は敬礼して踵を返す。鯉登はその後ろ姿を見送る。軍装の背中に、あの擦り切れた銘仙の後ろ姿が、幽鬼のように寄り添って見えた気がした。