螺鈿の檻



 日に焼けた畳の上に洗い髪の藤緒が仰向けに寝ていた。糸が切れた傀儡人形のようにくしゃりと床に落っこちているものだから、死んでいるのかと肝を冷やしたが、時折瞬きをしているので生きてはいるようだ。

「こんなところで寝ているなよ。踏むぞ」

 脇腹を爪先でつつくと、藤緒はくすぐったそうに身を捩った。くすくすと藤緒が笑うたびに、頬の傷が痛々しく引き攣る。
 尾形は藤緒の傍らに屈みこみ、白い顔を覗き込んだ。色の薄い虹彩が琥珀のような光を帯びている。
 尾形は溜息をつく。

「おまえは本当に綺麗だな」

 内容にそぐわぬうんざりとした口振りで尾形は呟く。藤緒も照れるでも誇るでもなく天井を見上げていた。
 これが人の目をひかぬ容貌であったならば、藤緒の人生はもう少し単純であっただろうに。尾形は憐憫とやりようのない怒りを抱える。
 幼い頃から藤緒は人形のように端正であった。もちろん村の男たちの目を引いた。襤褸を纏い裸足で朝な夕なに一人でふらつく藤緒が男達に悪さをされなかったのは、幸か不幸か藤緒の父親が頭の螺子の焼き切れた男だったからだ。藤緒に指一本触れようものなら、顔の骨が砕けるまで殴られ、家族を犯され、金も家財も毟り取られただろう。
 一度、藤緒の母親に夜這いをかけた男がそういう目にあった。子潰し婆の家と村八分にされていた藤緒の一家は、いっそう腫物のように扱われた。
 今は尾形の庇護下にある藤緒は、幼い頃ほど遠巻きにされることはない。周囲は藤緒の出自など知らぬ者ばかりであるし、茨城の農村と違ってこの辺りは人の数も、出入りも多い。
 外出を好まない藤緒ではあるが、家に一人でいる期間が長い以上籠りっぱなしというわけにもいかない。行商や宅配人など家を訪ねてくる人間もいる。
 藤緒の尋常ならざる美貌は容易に人を舞い上がらせた。そういう輩は勝手にのぼせ上がり、家に押しかけ、藤緒が自分の思うようでないことを知り、落胆して帰っていく。中には己の期待にそぐわぬ藤緒を面白おかしく悪し様に吹聴する者もいた。
 意思の疎通がとれぬことに戸惑う者、呆けた様を不気味に思う者、ただその容貌のみにしか興味のない者。反応は様々だが、藤緒が人形のような無表情の下でその全てに傷付いていることを尾形は知っていた。
 かわいそうなひと、と後ろ指を指されることには、気付かぬふりもできる。だが、目の前にある期待に上気した顔がみるみる蒼褪めていく様子は、きりきりと藤緒の心に爪を立てていた。

「この傷、もう少し大きく付ければよかったな」

 藤緒の頬の大きな傷を指でなぞりながら、尾形が言う。傷をつけた当初こそ顔はどす黒く腫れ上がり、藤緒の容貌を激変させた。荒く縫われた血の滲む傷から人々は目を背けた。
 今は傷痕こそ醜く生々しく残っているが、その目鼻立ちの美しいことは変わらない。それ故に藤緒の心は傷付けられる。
 藤緒はあのときの痛みを思い出したのか、眉をひそめて尾形の手を振り払った。

「冗談、冗談」

 尾形は振り払われた手で、藤緒の額をぺちんと叩く。むぐう、と藤緒は呻いた。

 あの頃の尾形はまだ幼く、藤緒を守るためにはこれくらいしか手段が思いつかなかった。
 今の己ならばどうするだろうか、とぼんやり考える。

「――薩摩の男は女を大事にしないからな」

 尾形は先日のことを思い出してぽつりと呟く。藤緒は不思議そうに目だけを尾形に向けた。
 藤緒の隣に、尾形はごろりと横になる。藤緒の手が畳の上を這うように蠢き、尾形の手を握る。ひんやりとした柔らかな手だ。この手を握り合い、軋むような心の虚に耐えてきた。
 琥珀の瞳が尾形の目を覗き込む。尾形は畳に広がる長い黒髪を一房とり、明かり障子越しの白い陽光に翳しながら矯めつ眇めつする。

「鹿児島出身の若い将校で、歳は――おまえより少し下かな。いいとこの坊で、顔もまあ良い方なんだろう。興奮すると早口のお国言葉が出て何を言っているか分からんし、声がでかい」

 どうだ、と問うと、藤緒は一度だけ瞬きをした。尾形は低く笑う。

「こうやって畳に転がるような真似をしないで、ただ黙って日がな刺繍なりをしていれば、黒塀の家とお手伝いさんくらいは用意してくれるぜ」

 暮らしぶりはずっと楽になるだろう。母が遺した古びた着物を着る必要もない。尾形の帰りを待ち一人でいる必要もない。気の利いた使用人の一人でもいれば外出の必要もなくなる。
 藤緒に理解のある旦那がいるという大前提はあればこそ、美しく調えられた家で贈り物に囲まれ、一歩も外に出ることなく、限られた人間としか接しない生活は、藤緒の性質を思えばそれはそれで幸福なのかもしれない。
 たとえそれが一時の夢だとしても。

 なあ、と口を開きかけた尾形は、藤緒がすっくと立ち上がったので言葉を飲み込んだ。藤緒はそのまま尾形を一瞥することなく縁側へ去って行ってしまった。
 しばらくするときしきしと床板の軋む音が近付いてきて、先程飛び出していった障子戸から藤緒が戻ってくる。何か持ってきたのかと思ったが、手は体の脇に放られたままだ。
 藤緒は畳に仰向けに寝そべる尾形に変わらぬ歩調で近寄ると、そのまま尾形の脇腹を蹴飛ばした。

「いてえな、何すんだ」

 脇腹を抱えながら体を起こす尾形の頬を、藤緒は羽織の両袖で何度も打つ。ひらひらとして痛いわけがないが、樟脳くさいし実に鬱陶しい。
 尾形はむっとして藤緒を見上げる。藤緒はつんと顎を上げた。そのまま倒れこむように尾形の膝の上に落ちてくる。鎖骨のあたりに藤緒の肘が当たって、痛みに顔をしかめた。
 藤緒は尾形の膝に頬を寄せ、畳の上に手足を伸ばした。これ見よがしに尾形をじろりと横目で睨む。
 色褪せた銘仙の裾がばらりと広がった。そのあわいから手慰みに施された藤花の刺繍の裾除けが覗く。
 尾形は喉の奥で笑った。

「まあ、畳に転がりたくなるときはあるな」

 尾形が言うと、藤緒は小さく「うん」と答えた。


******


「尾形上等兵」

 名を呼ばれ、尾形は足を止める。その相手が鯉登少尉であったので、内心舌打ちしながら敬礼した。

「これを」

 鯉登は押し付けるようにして尾形に小さな布包みを渡す。

「あのおなごに、詫びの――いや、詫びというのもおかしいのだが! 俺が渡したいだけで……!!」

 早口のお国言葉で何か言い訳じみた事を叫ぶ鯉登を後目に、尾形は布包みを右手から左手に持ち変える。軽く、厚みは殆どない。

「しかし、なんと言って渡せばよろしいので」

 尾形の言葉に鯉登はいっそう慌てふためき何かを喚くと、ばしばしと尾形の肩を叩いて走り去っていった。
 いったいなんなんだ、と尾形は眉をひそめる。布包みの中身を改めると、白い柘植の櫛が転がり出た。
 藤緒の外面にのぼせ上がる男は大抵碌でもない。だが、簪ではなく櫛、それも漆塗りや鼈甲ではなく柘植の櫛というのはなかなかどうして心得ている。
 尾形は手の内でしばらくそれを弄び、そっと上着にしまいこんだ。