爪を切る夜



 祖母が亡くなったという報せを受けて、尾形は急ぎ帰省した。

 孫息子として喪主をつとめ、おきのどくにと口々に言う参列客をあしらう。いまだ焼香のにおいが満ちた家の中には、しかしもはや誰もいない。己と、祖母の遺骨だけが取り残された。
 帰郷してから、藤緒は一度も姿を見せていない。祖母の体調が悪いことを知らせる手紙が送られたきり、藤緒からは何の連絡も無かった。
 尾形は懐に忍ばせ持ってきた、藤緒からの葉書の角を指先でいじる。ほとんど言葉を発しない藤緒だが、何故か文章表現だけは巧みだ。言葉に出来ない憤りを晴らすように、祖母の体調が芳しくないこと、祖母が己に会いたがっていること、面倒を見てくれた祖母への哀惜、遺されることへの不安が叙情も鮮やかに記される。
 思わずもらい泣きでもしそうな練達の筆致であるが、帰ってみれば通夜にも葬儀にも、火葬にさえ姿を見せない。どちらが本当に藤緒の思うところであるのか、正直なところ尾形にも判別がつかずにいる。

 形見分けも遺品整理も終えた家の中は閑散としている。もう夜も更けた。家の外からカジカガエルの美しい鳴き声が聞こえた。
 茶でも淹れるか、いや、茶葉も土瓶も急須も誰かにやってしまったのだったか、とぼんやりと考えながら尾形は台所の方へと向かう。
 仏間を出ると、闇の凝る廊下の突き当たりをふうと白い人影が横切った。藤緒だった。あまりに何気ない風に歩いているものだから、尾形は「なんだ、藤緒か」と見送り、それから慌ててその後を追った。

「藤緒」

 硝子玉のような瞳が尾形の表面を滑るように見る。

「どこにいた」

 尾形が尋ねるも、藤緒は赤い唇に笑みに似たものを刷いたままじいと尾形の顔を見つめた。
 尾形は封筒を取り出し、中身を藤緒に見せた。鉄道と船の切符だ。

「北海道に行く。忌引きが明けるまでに準備をしておけよ」

 藤緒は西施も裸足で逃げ出すような顰み顔で、小さな紙切れを見つめた。手を叩いて喜ぶとは思っていなかったが、もう少し色よい返事を期待していた。

「喜んでいる顔には見えねえな」

 尾形は藤緒の顔を覗き込んだ。雪白の肌に赤い傷が蛇のようにのたうっている。傷はとうに塞がっているのに、触れれば血が滲みそうなほど痛々しい。
 尾形は息を吐く。

「ここにいて何になる。みんな死んで、家は空だ」

 藤緒がこの土地に執着する理由はないはずだ。

「おまえがやらないなら、俺が勝手に荷造りする」

 藤緒の持ち物など、もとよりさして多くはない。母が藤緒にお下がりにして喜んでいた派手なお引きずりや簪などは、すでに母の葬儀費用のために売り払っている。あとは普段使いの銘仙や紬が数枚残されているだけだ。少しでも値の張りそうなものは、母が亡くなったときに形見分けと称して禿鷹のような親類や近隣の者達に残らずかっ攫われた。

「おまえを置いていけない」

 親身になってくれる者のいない藤緒への思いやりであり、日ごと妖しさを増す破滅的な美貌への危惧である。だがそれ以上に、尾形は傍に置く以外の愛情の示し方が分からない。
 ほ、と藤緒は細く吐息を漏らす。

「おまえを呼んでいた。会いたがっていた」

 祖母のことだろう。葉書に鮮やかに綴られた文章よりもずっと辿々しく藤緒は呟く。

「おやふこうものめ」

 藤緒は淡々とそう言った。尾形は思わず鼻で笑う。

「親不孝? 今更俺にそれを言うのか?」

 藤緒は月光を透かす香色の瞳で尾形を睨んだ。尾形は、藤緒が母の死についてどう思っているのかを知らない。知りたいとも思わなかった。藤緒は尾形を責めもせず、かといって慰めもしなかった。母を殺した尾形に、藤緒は一度たりとも親不孝だなど言ったことはない。
 尾形は藤緒の手首を掴む。男の手で簡単に折れてしまいそうな華奢な手首だ。こんな弱々しい手では鍬も振るえまい。

「おまえは親の死に目には合わせてやらねえよ」

 一緒に地獄に落ちるぞ、と囁くと、藤緒はうふふと笑った。