夜闇で魔物が見ているよ





 藤緒を見た男は、大抵三度ぎょっとする。一度目は、その薄氷の如き美貌に。二度目は、美貌を損なう顔面の傷痕に。三度目は、花弁のような唇から零れる意味不明の喃語に。
 杉元とて、その例外ではなかった。

 土方一行にふらふらと付いていた藤緒のことを、誰も何も言わなかった。ただ尾形が一言「藤緒だ」と名前だけを言って仕舞いだった。
 それが本名なのか、偽名なのか、或いは芸名のようなものなのか。誰かの血縁か、女房か、情婦か。虫も殺せぬような嫋嫋とした風で、一体どうして血に飢えた獣のような一行に付いているのか。
 何か聞いてはいけないような気がして、杉元もアシリパも、白石でさえ聞けないままでいた。
 ただ、見ているとどうやら尾形の連れのようで、杉元の彼の男への不信感はより増した。この血腥い道行きに、癲狂か精神薄弱かは知れないが、頭の少々おかしな女を連れているなど、正気の沙汰とも思えない。

 杉元は火にあたる尾形をちらと盗み見た。その傍らで丸くなり眠る藤緒も。藤緒の左頬の傷が、火の光を受けててらてらとぬめるようだ。
 尾形は常に纏っている外套を脱ぐと、眠る藤緒にかけた。意外なほど優し気な手付きに、杉元は内心目を見張る。

「なんだ」

 尾形は杉元の方を見もしないで低く唸った。盗み見の疚しさか、コウモリのように得体の知れない男の人間らしい様を見たせいか、杉元は言葉に詰まる。
 いいや、違う。それは、大の男が雛人形で遊んでいるような、見てはいけないものを見たときの感覚だった。

「……いや、その、藤緒さんは」

 咄嗟に口に出してから後悔する。藤緒が、なんだというのだ。その先は考えていない。
 その名を出すと、尾形は何とも言えないあの目付きで杉元を見た。

「藤緒がどうした」
「……妹か?」

 杉元の苦し紛れの問いに、尾形は「は?」とひどく胡乱気な顔をする。武骨な指で、藤緒の白い頬を指で摘んで伸ばした。

「俺とこいつが似て見えるのか?」
「いや、似てねぇけど……」
「じゃあ、ふざけたこと聞くなよ」

 その物言いにかちんと来た。腰がやや浮いたが、怒りを収めて座り直す。くう、と藤緒が寝息をたてた。

「随分と大切そうだったから」

 杉元の言葉に、尾形は無言で杉元の顔を見つめる。瞬きすらしないその視線が居心地悪い。
 先に目をそらしたのは尾形だった。

「さあな」

 返答になっていない。杉元は半ば自棄になって問い質す。

「恋人か?」
「違う」
「娼妓か何かか?」
「そんなわけあるか」

 はあ、と尾形は深く溜息をついた。

「女中みたいなもんだ」

 尾形はそう言うが、到底納得は出来なかった。藤緒は日常生活が送れないほど薄弱ではなさそうだが、むしろ尾形が藤緒を何くれと気にかけている印象さえある。訝しげな杉元を、尾形は鼻で笑った。

「これで少しは役に立つ」

 藤緒の頭を尾形が撫でる。口調の酷薄さと裏腹に、薄気味悪いほど穏やかな仕草だった。

「なあ、次の街で藤緒さん、置いていけないのか」

 杉元の提案に、藤緒の髪を梳いていた尾形の手が止まる。

「大切な人なんだろう。見てりゃ分かる。せめて巻き込んでやるなよ」

 尾形は傍らの木の枝をとり、焚き火を掻き回した。火の粉が蛍のように飛び交う。

「藤緒さんみたいな――」
「おい」

 よわい人を、と言いかけた杉元を、尾形の声が遮る。

「言葉に気を付けろ。藤緒はこんなだが、言葉が理解できないわけじゃない」
「……寝てるだろ」
「狸寝入りじゃないとは、俺も保証できないぜ」

 杉元ははっとして藤緒に目を向ける。規則的に上下する肩、穏やかな寝息、力の抜けた肢体、どれをとっても眠っているようにしか見えない。何より、藤緒という存在自体が、人を謀るようなものに見えなかった。
 視線を戻すと、尾形がにやにやと口元を歪めていた。人を謀るのはこっちの方だ。

「おい、俺は本気で言ってるんだぞ」

 語気を強める杉元をものともせず、尾形は飄々と木の枝で焚き火越しに杉元の胸を突く。杉元の上着に黒い煤がてんと残った。

「お前は、大切だからとはらわたを家に置いて歩くのか?」

 尾形はそれだけ言うと立ち上がる。

「どこ行くんだよ」
「小便だ。ついて来るか?」
「誰が行くか!」

 夜闇に溶けていく後ろ姿を見送り、杉元は焚き火で手を炙る。眠っていたはずの藤緒の色の薄い双眸が、炎の色を反射して爛々と杉元を見つめていた。