くらいまどべ(現パロ)



※「呪いの子」で現パロ?転生物?です
※来世にも救いはない


 3LDKのマンションは独り暮らしをするには広すぎる。凝った壁紙、雰囲気のある間接照明、おまけにダイニングには小さなバーカウンターまであった。もっとも、今は酒瓶とグラスの代わりに藤緒の仕事の資料が陳列されている。だが家賃は尾形が眉をひそめるほど破格であった。
 その理由は、以前ここをセカンドハウスとして使っていた小金持ちがこの部屋で急死したかららしい。家族は彼が愛人のところに入り浸っていると思い込み、愛人は彼が家族のもとに帰ったものだと思い込んでいた。季節は奇しくも初夏で、エアコンのいらぬ気温からどんどん暑くなる時期だ。小洒落た部屋の中で、孤独な金持ちはゆっくりと腐りとろけていった。

 ――という話を部屋の主である藤緒から聞いたとき、尾形はさすがに顔をしかめた。

「うそだろ」

 冷蔵庫の前で風呂上がりの濡れた髪をタオルで拭きながら藤緒は首を横に振る。

「そんな部屋借りるなよ」

 藤緒は冷蔵庫を開け、その中に視線を向けたまま答えた。

「人が一人腐り果てるまで誰も気が付かなかった。部屋の気密性が優れているのか。住人が隣人に無関心か。些事に文句を言わない住人か」

 いずれにせよ、藤緒にとっては理想の物件であったという話だろうか。尾形は ”昔よりずっと喋るようになった” 藤緒をぼんやりと眺める。
 医療の進歩は素晴らしい。以前は白痴よ物狂いよと憐れまれ蔑まれていた藤緒は、幼い頃からの療育と訓練、日にニ度の服薬の成果で、他者と最低限の意思の疎通を図り社会生活を営めるまでに矯正された。
 尾形は「別にそんなことをする必要なんてなかったのに」と思う。藤緒がいつどこにいようと、必ず見つけ出して添うつもりだったのだから。だが、いまだ苦手ながらも他者と交わる藤緒は、昔よりもずっと楽しそうに見えた。それがまた面白くないと言えばその通りであるが。

「そのオッサン、どこで死んでたんだよ」
「おまえの寝室」
「最悪だ」

 勝手に転がり込んだ手前、抗議もできない。
 藤緒は冷蔵庫に貼られた「開けたら閉める」のマグネットを眺め、次いで夕食後の行動を時系列にまとめたボードを確認する。
 そういうものが部屋のあちこちに貼られていた。今は特に必要のないものであるらしいが、なんとなく子供の頃からの習慣で使っているという。尾形としては、死ぬほどダサいから今すぐやめてほしい。この洒落た部屋を設計した人間も、この洒落た部屋を愛した前住者も、今の部屋の有様を見たら憤死しかねない。前住者はすでに死んでいるが。

 藤緒は水の入ったグラスを手に尾形の隣に座った。いかにも高そうなカウチが柔らかく軋む。尾形はふと不安に駆られた。

「ここの家具は備え付けか?」

 首肯が帰ってくる。

「前の住人が使っていたものか?」

 また、首肯がひとつ。尾形は溜息をつく。藤緒が揃えたにしては、センスの良い家具だと思っていたのだ。
 尾形は藤緒の肩にかけられたバスタオルを取り、頭から被せる。柔らかい髪が絡まぬように、根元から水気をとっていった。
 藤緒は何も言わずにテレビのスイッチを入れた。尾形がたじろぐ程の音量でバラエティ番組のけたたましい音声が流れる。間接照明の薄暗いリビングルームが、テレビの画面を光源にチカチカと瞬く。藤緒は目こそ画面に向けているが、完全に上の空で身動ぎすらしない。

「観ねえなら消せよ」
「音に慣れる」
「俺がずっと喋っててやる」

 頼むから消してくれ、と尾形が言うと、藤緒は渋々とテレビのスイッチを切った。
 尾形はほっそりとした項を見下ろす。テレビやネットで世界各国の美男美女を見られる昨今では美人の価値も大暴落している。世間から見放された昔の藤緒はその美貌にもっと凄みがあった。顔に傷のない藤緒はただの小奇麗な女でしかない。だが、そのなよやかな首筋だけは、今も怖気立つほど美しい。
 尾形は藤緒の髪にドライヤーをかけてやる。うるさいから嫌いだとドライヤーを持ってすらいなかった藤緒の髪は、会ったばかりの頃は少年のようなショートヘアであった。今は尾形の指導と献身によって、肩の下あたりまで伸ばされている。
 ドライヤーから吹き出す温かい風に、甘いシャンプーの香りが乗った。それが部屋に満ちていく。温かく甘い香りの空気は、うとうとと尾形の眠気を誘った。
 尾形は藤緒の後頭部を撫でる。手に馴染む触り心地だ。そのカーブさえ手が覚えている。
 尾形はドライヤーのスイッチを切り、髪の流れを整えた。そのつやつやとした髪に向かって小さく問いかける。

「なあ、俺のこと、覚えているか?」

 藤緒からはしばらく反応がなかった。のろのろと振り返った藤緒の淡い色の瞳が、不愉快そうに細められている。

「他人と同じように出来ないことは多いけど、そこまでバカじゃない」

 そうじゃねえ、と尾形は藤緒の髪を梳く。いつかと同じように。藤緒はそれを嫌がりはしなかった。

「なんで俺を家に入れた? 何普通に髪まで乾かさせてんだ? 仕事で一度会ったきりの男と一緒に住むなんておかしいってのはおまえでもわかるだろ?」

 尾形は藤緒にそう詰め寄る。藤緒は見慣れた無表情でどうしてだろうと呟いたきり黙ってしまった。防音性能も優れているらしいこの部屋では、隣人の気配すら感じられない。己の呼吸の音がうるさいような沈黙が長いこと続いた後、藤緒はむうと呻いた。

「そういうものだと思った」

 それだけ言うと、藤緒はカウチから立ち上がり、自分の寝室に向かってしまう。デジタル時計が22:30を指している。藤緒のタイムスケジュールに拠れば、就寝時間ということらしい。
 尾形は藤緒の真意を探れないまま、小さく溜息をついて口を付けないまま放って置かれた水のグラスを片付けた。