身不知



 尾形百之助上等兵は美しい芸妓を囲っているのだという噂話を聞いたとき、谷垣はまさかと一笑に付した。尾形上等兵とは特別親しいわけではないが、彼の男はそういう風には見えない。真面目というには語弊があるが、ストイックで情を窺わせぬ男である。女に入れあげるようなところは、ちょっと想像できなかった。
 彼が花沢幸次郎中将の妾腹であるというのは公然の秘密であり、彼もまたそれに恥じぬ兵士であろうとしている節がある。
 それに、いくら尾形が一目置かれる優秀な兵であろうと、上等兵の懐事情では芸妓を囲うなど夢のまた夢だ。

「谷垣一等卒」

 呼ばれ、立ち止まる。抑揚のない声は尾形のものであった。彼が自分に声をかけるのは珍しい。仕事の話だろうか、と谷垣は姿勢を正す。

「お前、口は固いか?」

 短く問われ、谷垣は「はい」と答える。一等卒の自分には、いいえと答える選択肢がない。

「明日、休みだったな?」
「はい」
「町へ行くな?」
「はい」
「お前の人柄を見込んで頼みがある」
「……はい?」

 尾形は一抱えもない包みを谷垣に手渡す。油紙に包まれたそれは、そう重くはない。これは、と問いかけた谷垣を遮るように、尾形は油紙に走り書きされた住所をとんとんと指で示した。

「ここに届けてほしい。おそらくは声をかけても誰も出ないから、奥の方に一声かけて上がり框に置いてくるだけでいい。よろしく頼む」

 言いながら、尾形は谷垣をじっと見つめる。品定めするような目付きであった。




 そういう経緯で、谷垣は地図を片手に住所の家を探していた。あたりはハイカラな西洋住宅ではなく、いまだ小さな木造住宅が連なっている。秋田の山の方出身の谷垣にとっては、落ち着く光景であった。
 住所はこのあたりを示しているが、細々とした家屋が多く、どれが目当ての家であるか余所者の谷垣には分からない。ぐるりと首を巡らすと、玄関の先を掃き掃除する老婦人がいたので声をかけた。
 顔を上げた老婦人は、大柄で軍装の谷垣を見て驚いたのか目を丸くする。なるべく威圧的にならないように、帽子を取り、挨拶をした。

「こんにちは、家を探しているのですが……」

 谷垣が荷に書かれた住所を読み上げようとすると、老婦人はそれを聞く前に「藤緒ちゃんのところかい?」と言う。誰を訪ねるのかまでは聞かなかった。人は出ないから、荷だけ置いて来いと言われていた。
 急に出てきた女性の名前に、ふと件の噂話を思い出す。

「よく、兵隊さんが来ているから。あなたとおんなじ上っぱりをきた、なんだか少し怖い目をした人」

 尾形だろう。谷垣がその家を尋ねると、老婦人は三軒先の一際古びた家を指で示した。

「あの子も、可哀想にね。いい子なんだけれどもね」

 同意を求められるように目配せされ、谷垣は曖昧に頷くしか出来ない。老婦人に丁寧に礼をして、その場を後にした。
 指された家に足を向け、白茶けた玄関の戸を叩き「すみません」と声をかける。尾形が言ったように返事はなかった。
 藤緒という名の女性のことは気にかかるが、詮索することは出来ない。言われたとおりに玄関の中に荷を置いて帰ろう、と谷垣は戸板に手をかける。
 戸は建付けが悪く軋むが、施錠はされていない。やっと人一人分戸を開けた谷垣は、中を覗いてぎょっとした。

 女が立っている。古びた薄暗い廊下に、柱の影からこちらを窺うように佇んでいる。
 谷垣は木戸に手をかけたまま、呆然と女を見つめた。あまりに美しい人だった。薄暗がりにぼんやりと立つ様は、人間とも思えないほどだ。

「あ、あの――」

 魂消るような美女を前に動転した谷垣は、咳払いして仕切り直す。

「尾形上等兵から、荷物を預って参りました」

 言うと、女は暗がりから滑るように玄関先まで歩いてきた。開いた玄関から差す光が女の顔を照らし、谷垣は再びぎょっとする。
 染みも面皰もない玉の肌に、赤い蛇がのたうったような大きな傷があった。目元から顎まで、ざっくりと切られたのであろうそれは、古いもののようだが今にも血が滲みそうなほど痛々しい。
 黙って差し出された両の手に、谷垣はおずおずと荷物を手渡す。ああ、と女は声を漏らした。溜め息とも相槌とも違う、赤子のような細い声だ。
 谷垣は固まり、女の顔をまじまじと見つめる。表情に乏しい顔が何か言いたげに少し動いた。女は人形の方が余程人間らしい無表情で谷垣の方を見るが、決して目が合わない。瞳はぎやまんのようにぴかぴかとしているが、あてどない目付きは正常のものとは思えなかった。

 ――白痴か、物狂いか

 老婦人の「可哀想にね」という言葉が頭を巡る。確かにそのとおりだ。美しいばかりに一層悲惨な気さえした。

 女はがさがさと包みを開ける。中から真っ赤に熟した柿が覗いた。だから早く届けたかったのか、と谷垣は納得する。次の休みまで待っていては柿が萎れてしまう。この地では柿は手に入りにくい。尾形は、この女に柿を食べさせてやりたかったのだろう。
 女は柿を見て、にこにこと笑った。谷垣はそれを見て少し肩の力が抜ける。今初めて、この女が生きた人間に見えた。笑うと頬の傷が大きく引き攣り無惨この上ないが、それでもその方が余程人間らしくて安心する。
 女は包みを下駄箱の上に置くと、踵を返して奥へ引っ込んでいった。みしみしと廊下が軋む音が聞こえなくなって、やっと谷垣は大きく息をつく。
 深く息をしようとすると、廊下の曲がり角から女が現れた。谷垣は慌てて姿勢を正す。
 見ると、女は手に封筒と手折ったばかりの花を手にしていた。それをにこにこと笑いながら、無言で谷垣に差し出してくる。封筒はきちんとした筆跡で「尾形百之助様へ」と表書きがしてあった。まさかこの女が書いたものであろうか。
 谷垣はそれを受け取り「お預かり致します」と答える。「確かにお渡しいたしますので」と言い添えて、小さな花束も受け取る。

「――それでは、失礼致します」

 名残惜しいような、早く去りたいような、どっちつかずの気持ちで木戸に手をかけ外に出る。薄暗い室内から一転した秋晴れが目に痛い。
 戸を閉めるために振り返ると、すでに女の姿はない。なんだか狐につままれたような気分であった。


*****


「尾形上等兵」

 空いた時間は大抵銃を触っている男であるから、射撃の練兵場へ向かうと容易にその姿を見つける事が出来た。尾形は銃を手にしてはおらず、積まれた土嚢に腰を掛けてぼうとしていたようである。

「ああ、谷垣か。よくここだと分かったな」
「尾形上等兵はいつもここにいらっしゃるので」
「訓練以外で練兵場に来たがる酔狂な奴はいないだろ。静かでいい」

 相部屋じゃマスもかけねぇと嘯く尾形の言葉は黙殺する。

「荷物を渡して参りました。それで、これを」

 封筒と花束を差し出すと、尾形は意外そうに片眉を上げた。

「なんだ、藤緒が出てきたのか」

 尾形の口からその名が発され、谷垣はたじろぐ。

「……はい」
「ふうん、珍しいこともあるもんだな」

 尾形は谷垣の顔を無遠慮に覗きこみ、封筒を受け取る。意外なほど形のいい唇がニッと歪められる。

「強烈だろ?」

 玩具を自慢する悪童のような顔でそう言うと、谷垣の反応を待ちわびるように暗い目を細めた。
 それが、あの破滅的な美貌のことを言っているのか、引き攣れた傷のことを言っているのか、それとも呆けた様のことを言っているのか分からない。言葉にならない呻き声を漏らす谷垣に、尾形は短く声をあげて笑った。

「気にするな。藤緒を見た奴は大抵そういう反応をする」
「……申し訳ありません」

 尾形は封筒の中を確認しながら、口角を上げる。

「まあ、三日もあれば慣れる。試してみるか?」

 答えあぐねる谷垣に、尾形はつまらなそうに肩をすくめた。

「冗談だ」

 からかわれた谷垣はむっつりと尾形に花束を差し出す。手の熱で少し萎れてしまった。水に挿せばよかったのだろうが、そこまで気が利かなかった。

「これも、」

 尾形はその花をちらと見ると、すぐに封筒の方に興味を移す。

「いや、それはお前にだ」

 そう言われ、しばし呆気にとられて己の厚い手に握られた可憐な花を見つめる。あまりに似合わなくて驚くほどだ。

「しかし、なぜ?」
「礼だろう。それに、……そうだな、気に入られたんじゃないのか」

 尾形は常の無表情でそう言った。
 その顔からは何を考えているか伺えない。結局、藤緒が何者であるのか分からず仕舞いであった。

 後日、口さがない同期から「尾形上等兵は美しい芸妓を囲っているらしい」と聞いて、谷垣は「まさか」と笑った。まさか、そんなわけがない。あそこにいたのは芸妓などではない。もっと不気味で不可解な、よく分からないものであったのだ。