ヤヌスの鏡





 尾形上等兵が顎の骨を折る重傷を負ったこと、傷はまだ癒えていないこと、癒えたとしても後遺症の残る可能性があること、月島がそれらをなるべく淡々と伝えるのだが、女は聞いているのか聞いていないのか分からない有様で、まるで壁に話しかけているような気分であった。
 陸軍病院のひんやりとした木の廊下を、足音もなくついてくる女の姿を横目に盗み見る。ぼんやりとした目付きで、唯一の身内だという尾形の安否を気にするでもなく、院内を興味深そうにきょろきょろしていた。
 尾形は表向き肉親は全て失っているということになっているが、ただ一人身内と呼んでいいのがこの女――藤緒であるらしい。
 血縁ではない。姻戚でも、許婚でもない。全くの他人ではあるのだが、家族同然であるという。鶴見中尉は他にも何か知っているようであったが、それを月島に教えてはくれなかった。
 ただ「尾形上等兵には身内同然のご婦人がいるから、是非お見舞いをさせてやりなさい」とだけ言った。言い換えれば「尾形におまえの秘蔵の所在は知っているし、どうにでも出来るということを見せてやれ」ということだ。
 そんなことを、この女は知ることもないのだろう。藤緒の視線がふと月島の視線と絡みあった気がしたが、瞬きをすると藤緒は波打つ硝子窓を通して見える水面のような光に気を取られていた。

「ここが尾形上等兵の病室です」

 ささくれだった木製の戸の前で言う。真鍮のノブに手をかけ「ひどい怪我ですので……お気を確かに持たれますよう」と念を押す。藤緒はそれを無視して白く細い蛇のような腕を伸ばし、月島の手ごとドアノブを握る。なめらかで柔らかい手にはっとして手を離すと、藤緒は悠々とドアノブを回し、迷い無く真っ直ぐに寝台へ歩いて行った。
 藤緒は尾形の枕元に背を丸め、顔を覗き込むような姿でしばし固まった。包帯だらけの尾形の姿は、やはり動揺を誘ったのだろう。しばらくそっとしておいた方がいいであろうか、と月島は冷たい真鍮製のドアノブを後ろ手に閉めながら逡巡する。尾形は叛逆者であるが、藤緒はただ身内の怪我を嘆く女でしかない。藤緒は尾形の包帯で覆われた耳に、何事か囁くような素振りを見せる。なんだか悲しい光景だった。
 
 ああ、と呻くような、掠れた声がする。それが尾形のものであると気付き、月島は寝台に歩み寄った。意識は戻ったものの、消耗しきっていた尾形が口を利くのは初めてだった。藤緒の来訪が尾形に活力を与えたものか、それとも尾形が回復する時機さえ鶴見中尉が見込んでいたのか、そこまでは分からない。
 尾形は腫れ上がった目蓋の双眸で月島を見上げる。もっと恨みがましい目をするかと思っていた。よくも藤緒を巻き込んでくれたな、と、憎悪を向けられるものとばかり思っていた。
 だが、尾形は穏やかに、むしろひび割れ血の滲む目尻に笑みさえ浮かべて見えるような顔で、月島を見たのだ。

「つきしま、ぐんそう」

 がさがさとした声が己を呼ぶ。なんだ、と問うと、尾形は包帯の下で笑声に似た声を上げた。

「藤緒の案内は骨が折れたでしょう」

 そう言われ思わず苦笑を漏らしそうになるが、藤緒の手前、唇を引き結んで堪えた。藤緒は何しろおとなしく後ろをついてくることがない。気の向くままふらふらと窓の板硝子を眺めたり、洋風の階段で遊んでいたりと油断するとすぐにはぐれてしまう。
 しかし目立つ風体であるから「顔に大きな傷のある若い女」と尋ねればすぐに目撃情報を寄せられるのだけは助かった。

「藤緒、月島軍曹によくお礼を申し上げておけよ」

 尾形はそれだけ言うと、目を閉じた。静かな息だけが聞こえる。藤緒は月島の方に向き直ると「どうも、お世話になりました」と言って深々と一礼した。
 月島は呆気にとられて下げられた頭の旋毛を見つめる。丁寧に礼を述べる藤緒は、至極真っ当に正気に見えた。
 すう、と藤緒は頭を上げる。藤緒の青白い顔は殊の外近くにあった。一瞬だけ目が合う。藤緒は口元に無感情な笑みを刷いた。
 月島はぞっとして仰け反りそうになる。硝子玉の玩具のような目に、確かに深い知性の色を見た気がしたのだ。目元から顎までの大きな傷に細い指をきりきりと差し込んで、顔の皮を剥ぎ、何か全く別の生き物が顔を出しそうにさえ思えた。

「……尾形上等兵の快癒を祈っていてください」

 ぽつりと呟いたのは、ひどく紋切り型の文句だけであった。



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 尾形上等兵と二階堂一等卒が病室から脱走したと聞いたとき、月島はやはりかと思うのと同時に早すぎるとも思った。当然、病院に見張りは立てていた。やっと恢復したばかりである尾形が監視の目を潜るには、情報も時間も足りない。外部からの手引きがあったと考えるのが妥当だ。
 しかし、一体誰が。造反の疑惑のある者は病院には近付かせなかった。北鎮部隊と畏怖される第7師団を敵に回してもいいという愚か者がそういるとも思えない。手練の監視を掻い潜ることは簡単ではない。
 ふ、とおかしな考えが頭をよぎる。どこにでも行けて、誰もその存在を重要視しない者がいる。
 月島は己の失態に青褪める見張り役に問うた。

「顔に大きな傷のある若い女を見なかったか」

 見張りはせわしなく目を動かし「顔に傷のある、頭のおかしな女はよく彷徨いていました」と答える。可哀想なほどに怯えていた。