井中の声





 人の膝を勝手に枕にして眠る尾形の顔を見下ろす。昏い穴のような瞳が閉じられていれば、彼の母親によく似た面差しは繊細で優しげにさえ見える。昔見た尾形の母親は美しく洗練されていて、栃木の農村から出た事も無かった藤緒には天女のように見えた。
 もっとも、その頃には彼女はすでにおかしくなっていたし、殺鼠剤を飲んだ姿は青膨れて見られたものではなかったのだが。彼女も己もおかしかったが、違いがあるとすれば己がおかしいと自覚しているか否かだ。
 己が「おかしい」と気付くのと、物心がついたのが、どちらが先かは思い出せない。自我らしい自我を得た頃には、白痴の穀潰しと蹴り飛ばされていた。己を白痴だとは思わない。他の人間よりは、余程物を考えられる。だが、それを人に伝えようとすると、上手く口が動かない。見えないものは、無いのと一緒だ。だから、己は白痴と指差され、嘲笑われる。

 藤緒は尾形の額に手をやる。じとりと汗ばんでいた。いやな夢をみているのだろうか。眉がうっすらと寄せられている。
 魘されているときは起こせ、と尾形はよく藤緒に言った。それでも、藤緒は尾形が魘されていると、ついつい見入ってしまう。別に、魘されているのを見ているのが好きなわけではない。他者と異なるものを好み、厭う癖のある藤緒であるが、そこまで悪趣味なわけではない。
 ただ、ひどく悲しくなる。そして分からなくなる。安穏としているはずの眠りの底でさえ、こうして苦痛に歪められた顔をしている。そうまでして追い縋るものが、決して手に入れられるものでないことを、この男は分かっているのだろうか。
 分かっていないのならば愚かであるし、分かっているのならば――それでもやはり愚かである。

 全て忘れてしまえばいい。過去に蓋をし、痛みを感じないふりをし、諦めてしまえばいい。藤緒はそうした。女だと足蹴にされ、知恵遅れと殴られ、父親のことも、母親のことも無かったことにして、歪んだ愛情を向けてくる男に付いて生きることを選んだ。生きるためには何かを諦め続けなければならない。
 尾形にはそれが出来なかった。尾形は男で、父が無くとも家は決して貧しくはなかった。比類なき銃の名手で少年時代から村の者には一目置かれていたし、頭も恐ろしくきれた。心身も頑健で軍隊においても立派な働きをした。口数は多くないが、揶揄に言い返すだけの弁はたった。どれか一つでも欠けていたら、今の尾形はない。だが、藤緒は、欠けていた方が幸せであったろうにと思うのだ。
 追うだけ辛いものを追い続けることの出来る尾形を、藤緒は哀れだと思うのと同時に羨ましくなる。藤緒は全てを諦めてきた。もう何を諦めたのかも思い出せない。

 藤緒は尾形の肩を揺らす。尾形の昏い目が開く直前に、目尻から頬にすうと涙が一筋零れた。
 尾形はゆっくりと二、三度まばたきをして、まだ眠たげな目を宙に彷徨わせた。

「泣いていたのか」

 問いなのだろうか。独り言なのだろうか。藤緒にはよく分からない。泣いていたわけではないだろう。ただ起きる直前に涙が少し流れただけだ。なんと答えたものか分からず、色々考えてしまい、結局藤緒の口からは「うう」と小さな呻き声が漏れただけだった。
 尾形は藤緒の頬に触れ、それからその手で己の額に手をやる。

「なあ、藤緒」

 尾形は低く呟いた。藤緒は尾形の目を覗く。

「最後まで、一緒にいてくれよ」

 溜息のように尾形は言う。さいごまで、と藤緒は口中で繰り返した。この男の望む最後など、来ることはない。だから、藤緒は首を横に振る。尾形は目を細めた。

「なんだよ。こういうときは、嘘でも首を縦に振るもんだぜ」

 そういうものだろうか。そういうものなのだろう。
 藤緒は肩をすくめ、尾形の顔を見つめる。

「そのまえに、おまえは死ぬよ」

 それはなめらかに口を出た。それだけは、いつでも用意してある。考える必要もない。
 尾形はそれに「ああ」と答えた。そして「ならば、俺が死ぬまででいい」と付け足す。藤緒はまた首を横に振る羽目になった。

「私はおまえより先に死ぬ」

 予言ではない。願望でもない。藤緒にとっては少し考えれば分かる事実だ。尾形は藤緒の言葉に、何を思ったのか窺わせぬ表情のまま、小さく笑っただけだった。