かささぎ死滅回游短編2



 男は東京第一結界の泳者である。十月三十一日の夜、そういうことになった。魂には歪な力が刻まれ、それを行使し他者を傷付け殺すことを総則の下に強要されている。幼い頃はそういうものを夢見ていたかもしれない。退屈な朝礼に悪の組織が乗り込んできて、それを一人華麗に撃退する空想をしたことがある。異世界に迷い込み、その世界の住民に助けを求められる空想をしたことがある。空想の中の男は秘められた特別な力があり、仲間は男を頼り、可憐な少女が男に思いを寄せた。誰でも一度は夢想する幼稚で他愛ない空想だった。
 男はその幼稚で他愛ない空想を、強烈な悪意を以て現実の物とされた。

 男の足元にひしゃげた人体が転がっている。刻一刻と生物から物体へと変わっていくそれを見下ろしている。傍らを常にぶんぶんと飛び回る蟲が「五点獲得」と快哉を上げた。男はこみ上げる胃液を何度も嚥下しながらよろよろとコンビニの荒らされた煙草の棚に近付いた。血の付いた天板の下に隠れた女に手を伸ばす。
「――晶ちゃん、無事?」
 体を折り曲げカウンターの下に押し込むように隠れていた女が、男を見上げふっと目元を和らげる。小さな白い手が縋るように男の手を握る。ひんやりとした手が触れたとき、男の罪悪感も嫌悪感も少しだけ楽になった。己が誰かを傷付けるのは、生き延びたいという利己的な欲望のためではなく、この非力な女性を守り逃がすためだ。
「はい、無事です、ありがとうございます……ごめんなさい」
 晶は眉をひそめ、男の頬にそっと触れる。出来たばかりの火傷に指が這い、男はひりひりとした痛みに体を強張らせる。
「応急処置はしておかないと……」
「いいよこれくらい、掠り傷だから」
 男は虚勢まじりにそう言い、頬の傷を指先で擦る。しくしくとした痛みを押し隠し笑って見せる。彼女を不安がらせるわけにはいかなかった。コンビニの白く冷たい床で商品のように臓腑を開陳する死体の前で、軽い火傷を傷とも思えなかった。
 晶はコンビニの陳列棚から消毒液と大判の絆創膏を手にする。
「ここ、お医者さんいないから――いるのかな? 分からないけど……だから、傷が化膿しないようにしたほうがいいですよ」
「そっか……うん、そうだね」
 晶は男をカウンターの隅にしまわれていた折り畳み椅子に座らせる。細い指先が探るように頬に触れる掻痒感に男は肩をすくめた。火傷を消毒し、慎重に絆創膏を貼られる。晶の手が男の肩から前腕まで触れ、指先の一本一本まで検分していく。拳に出来た傷まで消毒されガーゼを当てられた。
「大袈裟じゃない?」
 男が言うと、晶は微笑む。
「あなたに死なれると、私は困っちゃうんです」
 茶化すような口調で軽やかに放たれた言葉が、彼女にとってどれほど切実かを男は知っている。
 音無晶は大学生であった。ただの大学生だ。泳者ではない。地元から東京に遊びに来ているときに、死滅回游に巻き込まれた。特別な力は持たず、男と出会うまでは蔓延る呪霊と永者の間を逃げ隠れしながら生き延びてきたと言う。総則によれば巻き込まれた人間は一度だけ結界外に逃げられる。男がそれを提案すると、晶は青褪めた顔で首を横に振った。
 人を探しているんです、と晶は言った。誰、と男が尋ねると「ひぐるまひろみ」と晶は小さく呟く。それでも早く逃げたほうがいい、死んだな何にもならない、その人ももう逃げているかも、と捲し立てる男に、晶は「その人も泳者なんです」と苦々し気に呻いた。なおも結界外への脱出を勧める男に、晶は「そうですね、そうします。お世話になりました、ありがとう」と微笑み一人で出立しようとした。男は彼女が一人で「ひろみさん」を探そうとしていることは分かった。目の前で自殺しようとする人間を放っておけなかった。みすみす死なせるくらいならば己の得点にしてしまえるほど、男は戦略的にはなれなかった。「ひろみさん」と会い言葉を交わした後は結界から脱出することを条件に、男は彼女の人探しを手伝っている。殺戮のみを強要される結界内でそれ以外の目的を得たことは、男の心にほんのわずかの安寧を与えた。
 晶はコンビニの棚を物色する。問答無用で命を奪いに来た泳者たちはコンビニを拠点にしていた。グループの構成員はリーダーが倒されたことに慌てふためき逃げ散じたが、そのうち態勢を整え拠点を奪還しに来るだろう。その前に必要なものを頂戴して姿を眩ませる必要がある。晶はバックパックを下ろしジッパーを開けると中に消毒液と絆創膏の残りを放り込んだ。陳列棚に残った滅菌ガーゼをあるだけと、衛生用品と雑貨を詰められるだけバックパックに詰め込んでいく。
 男は蓋の開いたバックパックの中に大振りのナイフが無造作に詰められていることに、見て見ぬふりをした。どこかのホームセンターで調達したのか、あたりに転がる死体から拝借したのかは定かではない。だが彼女がそれを携え続けている意味と覚悟は理解していて、男は彼女にそれを使わせないことを自分自身に誓っていた。
 男は棚から食料をバッグに移していく。なるべく日持ちがし、軽く、栄養価が高いものを選び取る。飲料は優先しない。水道を含めた最低限のライフラインは今のところ生きているからだ。男は酒と煙草とグラビア誌をバッグの隙間に押し込んでいく。こういうもののために情報や仲間を売る泳者はいくらでもいる。これらは晶の提案だった。
 晶は他者を傷付ける力こそ持たないが、魑魅魍魎の中で生き延びてきただけあって目端が利く。慣れない東京の地図を睨み、生物のように変容する勢力図を解し、計画的に物資を管理し、拠点を設置する。ひょっとすると相方なしで生き延びられなかったのは、男もそうであるかもしれない。
「俺らっていいコンビだよな」
 男が言うと、晶は虚を突かれたように目を丸くした。それから淡く微笑む。
「そうですね」
 ぱんぱんになったバックパックを背負った晶が床に転がる死体に視線を向けた。男は晶の視線を遮るように立つ。
「気にするなよ……行こう」
「はい」
 血で汚れたスニーカーを履いた晶の足が、そろりと死体を跨いだ。



 今日の塒と決めた雑居ビルの一室に侵入する。元は何かのオフィスであったらしい室内には整然とデスクとパソコンが並んでいた。それ以外は何もない。何者かが侵入した形跡もない。十月三十一日のまま、鍵は開け放たれ、照明が灯り続け、暖房が低く唸りながら誰もいない室内を温め続けていた。目ぼしい物資があるはずもなく、一夜の宿を求める雑魚以外が近寄る理由もない。晶はオフィスに入るなりガラス戸の鍵を閉めた。気休めですけどね、と晶は笑ったので、男はそれに苦笑を返した。
 共用廊下からも窓からも見えない位置に身を屈めながら、二人は塒の安全を確保する。休憩室には簡単な寝具があった。男は小さな冷蔵庫を見つけ、ドアを開ける。中には少し飲み物と菓子が残っていた。カフェオレのペットボトルを取る。マジックで本田と書かれたボトルを躊躇せず開けた。一口飲むと懐かしささえ感じる甘さが喉を滑り落ちていく。深い溜息をついていると、遠慮がちに休憩室のドアが開けられる。男は慌てて溜息を飲み込んだ。
 晶が男を見つけるなり、使いかけの軟膏を男に見せた。男も実家で何度か見たことのあるメジャーな殺菌軟膏だ。
「これ、火傷にも効くみたいです」
 晶は男をソファに座らせると顔の絆創膏をそっと剥がした。熱を持った傷の上を冷たい軟膏が伸ばされる。真剣な顔で傷を見つめる晶の顔が、男の目の前にあった。小作りな顔にくっきりとした大きな目が目立つ。いつか夢想した金髪碧眼で自分だけを恋い慕ってくれる誰もが羨む美少女ではないが、男にとって晶は戦う理由として十分だった。
 貼り直された絆創膏を男は手のひらで撫でる。目の前の晶が、じいと男を見つめていた。潤む黒瞳の表面に、己の顔が映り込んでいる。ほんの数日で痩せた顔は自身でも見たことのない険しい表情を浮かべるようになっていた。目と目が合ったのは、晶とかも知れず、晶の瞳の中の己自身であったのかもしれない。目をそらさない晶に男の頭はぼうとした。頼りなげな線の晶の頬におずおずと手をやる。それでも晶は嫌がることもなく男を見つめた。男は意を決して身を乗り出す。背を押されれば唇の触れ合うような距離に晶の顔があった。唇のあたりを晶の吐息が撫でていく。晶はそれでも身を躱すことはなく、だが男がそれ以上晶に近付けなかったのは、見開いた晶の双眸が決して反らされることがなかったからだ。
「……あ、なんか……ごめん」
 気まずさに耐えきれなくなった男がそう言うと、晶は吹き出して笑った。晶は軟膏のついた手を拭うと休憩室の小さな給湯設備で湯を沸かし始めた。男はその後姿を為す術なく眺めているしかなかった。
「――ひろみさんって、どんな人」
 沈黙に耐えかね、意味のない問いかけをした。一番最初にそれを晶に尋ねたことがあった。晶は口籠り、一言だけ「私の美しい人」と言った。選んだ単語のただならなさに、強張った晶の表情に、男はそれ以上を追究することが出来なかった。その問いを愚直に繰り返す。それを耳に入れた晶はお湯を保温ボトルに移していた手を止め、タイルの壁を眺めた。
「私にとっては――親代わりみたいな人。全てを受け入れてくれたし、全てを教えてくれた。私の全部です。大切な人でした」
 それを言う晶は何もない壁を見つめたままで、男がいくらその背中に目を凝らそうとどういう表情でそれを発したのかが分からなかった。
「泳者になっちゃったんだ……なんで?」
「さあ、そんなの私が知りたい」
 冷ややかな声音に男が何かを言い繕う前に、晶は「でも」と先を続けた。
「あまり器用な人ではなくて――前だけ見ていた人だったから。頬を張り飛ばされて横を見てしまって、魅入られてしまったのかも」
 男はそれに曖昧な返事をした。晶はボトルをしまいながら男の方にちらと目をやる。
「あなたは正気を失わなかったんですね」
 うん、と男は小さく頷いた。泳者の中には明らかに常軌を逸していいる者がいた。己を守るため否応なく暴力に身を任せるのではなく、血を求め暴力に酔い自ら殺戮と混沌を望む者たちだ。晶がそれのことを言っているのは分かった。そして「ひろみさん」の正気を願っていることも。
 晶はボトルに入りきらなかった湯を水で冷まし、顔と手を洗っていた。嗅ぎ覚えのある液体せっけんの香りが合皮のソファに座る男の方にまで漂ってくる。晶は濡れて頬に貼り付く後れ毛を耳にかけた。
「面倒くさい人だったかも。でも人に恨まれるべき人じゃなかった。それなのに恨まれてた。そんなのって、すごく理不尽。世の中って理不尽ですよ。そんなの私だって知っていて、あの人だって承知で――」
 ふ、と晶は言葉を途切れさせる。晶の尖った顎からシンクへぴとぴとと水滴が落ちる音ばかりが響いた。それを遮るように、低い溜息の音がする。
「結局、分かっているふりをしていただけなのかも。私は賢しらぶって飲み込んだふりをしただけ、あの人は受け止め飼い慣らすふりをしただけ。どっちも、どうしようもなくなっちゃった」
 晶は男の傍らに座る。晶は男に一瞥もくれなかった。煙草のやにで汚れた壁の、そのさらに向こうを眺めていた。狭いソファに二人座っているのに、男には晶がどこか遠くにいるように感じる。
「いくら後悔しても、私には救えなかった。あの人は望んでこうなってしまったから。賞賛も忠告も慰めも憧憬も雑音だった。あの人があの人である限り、誰もあの人を救えない。私はそういう在り方がずっと好きで、変わってほしくなかったけど、でも少しだけ変わって楽になっても欲しかった」
 男には、それが何の話をしているのか分からなかった。晶の強張る横顔を眺めて曖昧な相槌を打ち続ける。非力な一人ぼっちの女性が、命の危険を押して結界内に残る理由なのだとしたら、男はそれを知っておきたいと思った。晶はソファの上で膝を抱える。
「少し変われば楽になれるのにって思ってました。楽になればいいのにって、どうしてそうしないんだろうって」
 ね、と突然声をかけられ、男は「うん」とも「え?」とも付かない声を上げる。
「私は不快から目を逸らし理不尽に目を瞑ればいいと思っていたけど、今は――不快と理不尽を根絶やしにしてしまえばいいと思ってる」
 晶はジッパーが壊れそうなバックパックを抱き抱える。男はその中に彼女の細腕に見合わぬ凶器が携えられていることを思い出していた。晶はのろのろと男の方に視線を向けると痛々しく微笑んだ。
「ごめんなさい、こんな話。聞いてくれてありがとう」
 男は何と答えたらいいか分からず、短く「いいよ」と答えた。聞き出してしまったという負い目もあった。
 突然鋭い音がして、男はソファから跳ね起きた。ガラスの割れる音だった。男の脳裏には先ほど晶が鍵を閉めたガラス戸が破られる光景が浮かぶ。晶はソファで膝を抱えたまま休憩室のドアを見つめていた。「ここにいて」と唇の動きだけで合図をし、男は休憩室をそっと出る。ひらけたオフィスに赤毛の男が一人侵入するところであった。
 赤毛は男を見るなり唇の端を吊り上げて笑った。何か言いかけ開いた口が音を発する前に、男は赤毛の顔面を硬化した拳で殴りぬく。噴き出した鼻血が白っぽいオフィスの壁に赤い弧を描いた。結界内に入ったばかりの弱い人間ならば一撃で首から上を失う攻撃に赤毛は耐えた。結界に入ってから時間が経っているか、或いは尋常ならざる泳者か。後者であれば動きが鈍っている間に晶を連れてとにかく逃げなければならない。男が振りかざした拳を何もない空間から現われた黒い矢が射貫く。男は痛みに短く声を上げた。穴が空き血を流す拳を握り直す男に、赤毛は「人を探してるんだろ!」と悲鳴のように叫んだ。男は手を止める。赤毛は腫れた顔を押さえながら男にへらへらと笑って見せた。
「日車だろ、知ってるよ。どこにいるかも」
 男は赤毛の軽薄な表情を眺める。信用できるだろうか。
「教えてやる、食料と交換だ」
 赤毛はやつれた顔を男に向ける。物資の豊富な場所はどこも押さえられている。新参者はどこかに尻尾を振ってお零れに預かるか、鼠のように食べ残しを漁るしかない。男は赤毛から目を離さずに睨みつける。
「疑うならこのまま殺せよ」
 赤毛は自暴自棄にそう吐き捨てた。迷う男の背後でドアの開く音がする。男ははっとして振り向いた。
「駄目だ晶ちゃん――」
 男の言葉に目もくれず、晶は赤毛にパンと飲みかけのカフェオレを差し出す。赤毛は獣のようにパンの袋を毟り取るとその場で口に押し込んだ。口の中のものをカフェオレで流し込んだ男は、測るような目付きで晶を見た。
「これだけかよ」
 晶はパンとシリアルバーを赤毛に手渡した。赤毛はそれらを上着のポケットにしまい込む。晶は男の前に立った。
「日車さんの居場所を知っているんですか」
「……ああ、そうかもな」
 拳を握る男を晶が制止した。
「人を探してんの、あんたか」
「そうです」
 赤毛の瞳に喜色と嗜虐の色が浮かぶ。赤毛は遠慮なく晶に近寄ると頭の先から爪先までを舐めまわすように眺めた。
「人に物を尋ねるならお願いしますだろ」
「ええ、お願いします」
「どうしよっかな」
 赤毛は男を横目に見ながら晶の肩に手をやる。親指が上着の下の感触を確かめるように強く肉を押した。
「あんたが優しくしてくれたら思い出すかも」
「ああ……そう」
 男は晶と赤毛の間に割って入る。赤毛が晶に要求していることも、晶が簡単にそれを飲もうとしていることも、どちらも見過ごせなかった。
「こんなやつ俺がボコって吐かせるから!」
「いや俺って女の子には優しいからさ、全然イヤならいいんだって、な」
 男は今すぐ赤毛を殺してやりたいと思った。いつも誰かを傷つけた後は後悔と嫌悪感が纏わりつくというのに、今だけは激情を押さえきれなくなりそうだった。男は殺しへの敷居が瞬く間に低くなった己をどこか客観的に薄気味悪くも感じた。
 晶は男と赤毛に順に視線をやり、赤毛の方に目を留める。
「女の子には優しんですね」
「そうだよ、優しいよ」
「ほんとうに?」
「すげー優しいって」
 晶は唇の端に強張る笑みを浮かべた。細い指先が休憩室の方を指差す。
「ソファの方で話しましょう」
 赤毛は「いいね」とへらへらと笑った。男は晶の赤毛に抱かれた肩を掴む。
「やめろよ!」
 晶は肩に置かれた男の手にそっと触れる。
「平気ですか、痛みは?」
「痛くねえよ、どうでもいいだろそんなこと、やめろよこんな……!」
「痛くないならよかった。消毒したほうがいいですよ」
 男の手に消毒液と包帯が押し付けられる。男はそれを見下ろし、何かを言おうとしたが、何を言うべきか定まらなかった。今ここで好きなだけ暴れて赤毛を殺して、それでは何一つ晶のためにならない。男は唇が切れそうなほど噛みしめながら消毒液のボトルを握りしめる。晶は微笑みを浮かべながら男を見上げる。
「女の子には優しいんでしょう?」
「俺は女の子には優しいよ」
 笑う男が休憩室のドアを閉める。ドアが閉まる一瞬、赤毛は男を嘲るように笑った。男は閉まるドアを見つめていることしか出来なかった。しばらくは赤毛の躁じみた笑い声が漏れ聞こえてきた。それに応じる晶の凪いだ声も。やがて何も聞こえなくなり、暖房機がぶうんと唸る音だけが耳に障った。
 男はどれほどの時間そこで呆けていたか分からない。立ったまま眠っていたのかもしれない。だが突然ドアがけたたましく開け放たれ、男はぎょっとして意識を取り戻した。ドアを蹴破るように開けたのは晶だった。普段と変わらぬ様子で、髪も衣服も乱れた様子はない。晶は「池袋、東京芸術劇場」と低く唸るとデスクに駆け寄り地図を広げる。東京に土地勘のない晶に替わり、男は晶の探す劇場を指し示す。晶はその場所から現在地の距離を測りバックパックを取り上げた。
「移動しますね」
「今から? というか……あいつは……」
 男は休憩室の方に視線を巡らせる。赤毛は合皮のソファにくたりと座っていた。晶は赤毛の上着のポケットにいくつか菓子の包みを詰め込む。
「本人の言うように女の子には優しい人でよかった」
 それだけ言うとこの話は仕舞いとばかりに休憩室のドアを閉める。ドアを閉める一瞬、見えた赤毛の表情はぞっとするほど穏やかだった。足早に塒を後にしようとする晶を男は慌てて追った。
「晶ちゃん、少し休んだほうが――」
「いえ、平気です」
 男は晶が探し人を無事見つけることを願っていたが、同時にそれを恐れてもいた。晶と別れなければいけないことも、晶が異様なまでに執着する「ひろみさん」に会うことも、どちらにも不安を抱いていた。今すぐ出立したがっていた晶は、男の手からたつたつと血が滴っているのを見て眉根を寄せた。
「手当て、しなかったんですか」
 男は血だらけの手を見下ろし、それをズボンのポケットに隠す。
「大したことないから。急ぐんだろ? 行こう」
 男の言葉に晶は首を横に振った。荷物を下ろし、男の手をそっと取る。手のひらを貫通した傷を裏返し表返ししながら眉をひそめた。
「痛みませんか」
 男は無言で首肯する。嘘でも虚勢でもなかった。不思議なほどに痛みはなかった。赤毛の能力かも知れず、極度の怒りと興奮のためかもしれない。晶は傷を消毒しガーゼを当て包帯を巻いた。男は晶の俯いた顔をじっと眺めていた。
「よかったのに」
 男が言うと、晶は包帯を巻く手を留めずに淡く笑う。
「あの人が女の子に優しいように、私はあなたに優しいんです」
 晶の言葉に男の胸が締め付けられる。離れ離れになる前に、君が好きだと伝えたかった。だがそれは意味のない行動で、彼女の負担になるだけだ。男は吐き出しかけた言葉を飲み込み、ただ「ありがとう」と呻いた。



 東京芸術劇場に着く頃にはただでさえ短い日はとうに暮れていた。指が震えるのは寒さのせいかも知れず、不安のせいかもしれない。男は真新しい包帯を巻いた手をぎゅうと握った。訪れる人間を歓迎するように開く自動ドアが不気味だった。晶は無人の館内を見渡す。広大なホールと高い天井を見て、晶は苛立たし気に「東京って狭いくせにこういう施設は広いんですね」とこぼす。
「あんな奴の言うこと、信用してよかったのか」
「無為無策で当たるよりはいいかなって」
 晶はフロアマップにライトの光を翳す。地下二階、九階建ての建物を人一人探して歩くのは骨が折れそうだった。今日は休んで明日、と言いかけた男の言葉を細い音が遮る。晶は「何の音?」と眉根を寄せた。
「――多分、パイプオルガン」
 男が答えると、晶は再びフロアマップに噛り付いた。
「パイプオルガン……コンサートホール」
 晶は言うなりエレベーターに駆け寄ると上階行きのボタンを押す。明るいオレンジ色のランプがぽっと灯り、間の抜けたチャイムとともにエレベーターのドアが開く。男は晶の色の白い横顔だけを見ていた。その顔に浮かぶ表情を見逃したくなかった。エレベーターに乗る前、晶は男に「ここでさよならにしますか?」と言った。男は笑って「ここまで来たし、ひろみさんに挨拶くらいさせてよ。最後まで付き合うよ。最後まで晶ちゃんを守るから」と答えた。晶は微笑み七階のボタンを押した。
 エレベーターのドアが開くのと同時に、パイプオルガンの滑らかな音が大きくなる。局ではなかった。戯れに鍵盤を押すような単純で雑多な音階だった。開け放たれたままのコンサートホールのドアの向こうから聞こえてきた。
「緊張してる?」
 男は晶の横顔に向かって声をかける。晶は黙って頷き、男の顔を見上げた。大丈夫だよ、と男は晶の背中に手を置いた。
「ひろみさん、会えるといいね」
 二人はコンサートホールの中に入る。遠いステージの正面、ライトで照らされたパイプオルガンの前に黒い人影が座っていた。それを見た途端、晶は痙攣のように息を吐く。晶は階段を駆け下りると、ステージに上がる。男は戸惑いがちにそれを追った。
「日車さん、パイプオルガン弾けたんですか」
「弾けるわけないだろう、モーターのスイッチを探すだけで半日かかった。ピアノでも習っておけばよかったな」
 日車寛見は骨張った指を退屈そうに鍵盤の上に乗せた。適当に扱われたパイプオルガンは、それでも律儀に荘厳な音色を奏でる。日車寛見は三十半ばほどの男であった。男が晶の言う「美しい人」「親代わりの」「ひぐるまひろみ」という言葉から受けていた勝手な印象とは全く異なる人物が現われ、男は狼狽えた。
「日車さん、心配してくださいましたか?」
「それほどは。おまえは狡猾だろ」
「狡猾! 生きているうちにそんな褒められ方をするなんて思いませんでした。そういうとき普通は賢明とか聡明とか言いませんか」
「そうか?」
 日車は鍵盤の上に肘をつき、晶と男の方に顔を向けた。ちぐはぐな和音がホールに反響する。その目付きが尋常のものとも思えず、男は咄嗟に晶の手首を掴んだ。
「駄目だ晶ちゃん」
 晶は男の顔を見つめる。男は震える唇で「だめだ」と繰り返す。男の心中で晶を行かせてはならないという気持ちと、もう一つ正体の分からない感情がせめぎ合う。その感情の輪郭が掴めないまま、男は冷や汗をとめどなく浮かべながら晶の手首を強く掴む。日車は晶と青褪め震える男を順に見ると、鼻を鳴らして椅子から立ち上がった。ぬるりと蠢く影のような黒い姿が明るい壇上に奇妙に映えた。
「来い、晶」
 日車は晶に向かって両手を広げて見せる。
「とりあえずは、再会の抱擁だ」
 晶は男の手を軽やかにすり抜け、子供のように日車の腕の中に体を預けた。日車は身を曲げ晶の肩に顎を置き、男に視線を向ける。
「あいつは?」
「私が日車さんを探すのを手伝ってくれた方です」
「ふうん」
 日車は晶の後頭部に手を回す。慈しむようで、その実晶の動きを制限する動作だった。男は絞り出すように晶に声をかける。
「駄目だ、晶ちゃん、戻って」
「ああ言ってるぞ」
「ちょっと誤解があるんです」
 昏い三白眼が男を無感情に眺めた。男は引き攣る声を張り上げる。
「晶ちゃん! そいつもう正気じゃない!」
 ホールに男の悲鳴の残響がいつまでも染みつく。男は日車に、道中で出会った血と暴力と混沌に首まで浸かった泳者と同じ気配を感じていた。日車は晶の肩口で低く笑う。
「極めて無礼だな。晶、俺は正気じゃないか?」
「日車さんは正気じゃないですけど、それはずっと昔からそうでしたよ」
「おまえも大概無礼だ」
 日車は男をじいと見つめ、それから唇の両端を吊り上げた。
「あいつはおまえが好きみたいだな。俺を殴り殺しそうな顔で見てる。樋田まおのことがあるのによくやる。懲りない一族だな」
 突然日車にそう言われ、男は息を呑んだ。晶がどういう顔をしているか、男には見えない。男にはただ日車の腕の中で俯く晶の白いうなじだけが見えていた。
「あの人は、私を守らなければいけないと思い込んでいるだけ」
「そうではないように俺には見える」
「勝手に好かれちゃったんですよ。若い男女だもの、しかたないです」
 男は二人のやりとりの真意が掴めず呆然と立ち尽くした。守らなければならないと思い込んでいる。誰がだ。何がだ。痺れ不鮮明になる思考は何を考えようとしても虫の羽音のような雑音に阻まれる。俺は、と男は呻く。日車は男を指差し、こっちに来いと指で合図をする。
「日車さん、やめてください、お願い」
「両思いか? よかったな、応援する」
「それスベッてますよ。やめて。苦労したんです」
「どこまで弄ってあるんだ」
「……恐怖と、痛覚と、暴力への嫌悪感」
「もう人間じゃないな」
 日車の上擦った笑い声が羽音のようなノイズを裂く。男に向けられていた手に、いつの間にか木槌が握られていた。




 音無晶五点獲得、と今までずっと隠していた蟲がひび割れた声を上げた。晶は背中にかかった温い液体が急激に冷えていくのを感じながら日車に寄りかかる。
「これって、私の得点になるんですか」
「そうらしいな」
「理不尽」
「俺だっていい気分はしない。まるでおまえに良いように使われているみたいじゃないか」
 日車は腕の中の晶を解放した。晶はニ、三歩よろめき、うなじに手をやった。顔の前に戻した手のひらにべっとりと血がついているのを見て、晶は顔をしかめる。
「着替えないのに……さいあく」
「楽屋に何かあるだろ」
 日車は血で汚れたスーツのままオルガンの椅子に座る。晶は溜息混じりに日車の背に頬を押し当てる。毛羽立ったスーツの感触。血と汗と鉄と脂のにおい。幼い頃からこの背を追ってきた。こうでありたいと切望した。この人の特別でありたいと祈った。それらは今のところ全て叶ってしまった。喜ぶべきであるのかもしれない。晶は力なく笑う。
「あの人は死んじゃうし……」
 頬を押し当てた日車の背中が細かく震えた。笑っているようだった。晶は日車の背中から離れ、顔を覗き込む。やはり笑っていた。
「なんだ、本当に両思いだったんなら悪いことをしたな」
「私は私の大事な兵隊には優しいんです。使い捨てなんてしません」
 エシカルでサステナブルでしょう、と肩をすくめる晶に、日車は爪の間に入った血を削り落しながら眉を上げる。
「おまえに俺以外の大事な人間がいるのか」
「日車さん「もう人間じゃない」っておっしゃってたじゃないですか」
「口が減らないな」
 それって案外やきもち焼きの可愛い三十代とどっちがマシですか、と言いかけ、晶は口を噤む。別に自覚をさせる必要はない。日車は少しだけ変わったしまったが、悪い変化ばかりではなかった。晶には日車が必要だ。今も、昔も、これからも。日車はいつも正しく、日車は晶の正しさだった。日車が変わってしまったからとそれを変えられるほど、晶はまともではあれなかった。
 晶は舞台に染みついた血と肉を横目に見る。無意識にそれを視界に入れないようにしていた晶の肩に日車は両手を置いた。血肉の山に晶の顔を向ける。晶はそれを淡々と眺めた。視界に入れたくなかったが、入れたからといってどうというものでもなかった。そういうものだった。
「俺はいつも正しいんだろう」
 耳元で低く囁かれる。晶はそのこそばゆさに身をくねらせて笑った。
「日車さんは、いつも正しい」
 ふふふ、と笑声がホールに幾重にも反響する。深く響く音は己の声でないように聞こえた。