クセ強若者に慕われる日車(ちゅーばーくん)



 男は誰からも指摘されるがごとく楽天的で太平楽なタチである。そんな男にも恐れるものが二つある。それは確定申告と炎上であった。
 確定申告はまだいい。領収書さえ捨てなければ税理士がぶちぶち言いながら割となんとかしてくれる。男がこの世で最も、本当に、心の底から恐れているのは、炎上である。
 そして男は現在絶賛大炎上中であった。

 話は五日ほど前にさかのぼる。男は動画配信サイトにいつものようにオモシロ動画を投稿した。そしてそれが炎上した。男にしてみれば青天の霹靂もいいところである。特に今回の動画は個人的に会心の出来だと思っていたのに、この炎上騒ぎである。焦ったし、落胆した。
 男は慌てて動画を削除した。そうするとさらに叩かれた。謝罪動画をアップした。さらに叩かれた。SNSに謝罪文も投稿した。さらに叩かれた。
 騒ぎは動画投稿サイトの外にも延焼した。アフィリエイトブログが悪意のある記事をまとめた。ニュースサイトは今ネットで一番ホットな話題として炎上騒ぎを取り上げた。もう収拾が付かない。
 男は気分転換に町をぶらついていた。真昼間の川沿いには散歩をする老夫婦と小さな子を遊ばせる親くらいしかいない。ぼんやりと空を眺めながら歩いていた男はビルにかけられた看板の中に「法律事務所」の文字列を見かけ足を止める。
 男はコメント欄にいくつも書き込まれた「法律違反だろ」「犯罪者」の言葉を思い出す。そうは言われても男は法律には詳しくない。だが、男は分からないことがあれば詳しい人に聞けばいいことは知っていた。税金に詳しくないので税理士に頼るのと同じである。
 本屋には本に詳しい人がいるし、魚屋には魚に詳しい人がいる。ならば「法律事務所」にも、法律に詳しい人がいるはずだ。男は気になった服屋に入るのと変わらぬ足取りで事務所のガラス戸を押し開けた。
「こんにちはー」
 明るく気持ちよく挨拶をしたつもりが、いっせいに怪訝な目を向けられ男はたじろぐ。見れば事務所の中の人間はみなスーツかそれに準じるかちっとした格好をしている。ドレスコード違反? と男は自身のパーカーを見下ろした。事務員の女の子がおずおずと声をかけてくる。
「こんにちは、どういったご用件でしょうか」
「え、ご用件、というか、ちょっと困ったことがあったからなんか詳しい人いないかなって……」
「ご相談ですか? お約束はされていますでしょうか?」
 おやくそく、と男は口中で唱える。なんだかよく分からないが、己が場違いだということは分かった。
「いや……お約束ないっすね……あ、なんか、邪魔しちゃってすんません……」
 しおしおと踵を返そうとする男を、事務所の一番奥に座る男が呼び止めた。人好きのしない三白眼をじろりと向けられ、男は「え、なに、叱られんの」と身を固くする。三白眼の男は生気のない無表情のままぬうと立ち上がった。「マジで怒られるやつじゃん」と男は慌てて「あっ、大丈夫っす、すぐ帰ります!」と回れ右した。
「話だけ聞く」
 男はノートパソコンを閉じると、パーティションで区切られた打ち合わせスペースを指で示す。事務員の女の子に促されるまま、男は椅子に座った。座るなり男は無言でテーブルの上に名刺を滑らせた。その紙面の「弁護士」「日車寛見」の文字列を拾い読む。
「おにーさん、弁護士? 法律詳しい?」
「日車だ」
「日車先生」
「先生はよせ」
「日車ちゃん」
「帰らせるぞ」
「日車さん」
「……人よりは詳しい」
 へー、と男は感嘆の声を上げ名刺を矯めつ眇めつする。弁護士などテレビでしか見たことがない。
「それで、なんだ、困ってるのは」
 日車は黒いバインダーに綴じたメモにペンを立てた。
「俺の投稿した動画が炎上して、どうしようかなーって」
 ああ、と日車はペンの尻でこめかみを掻いた。
「今どきだな」
「それで、すげー法律違反とか言われたから、詳しい人に聞けばいいのかと思った」
 日車はメモに何かを書き付ける。
「どんな動画だ」
「えーっとね、吊り橋からおしっこした」
 ペンを握る骨張った手がぴたりと止まった。
「――なに?」
「吊り橋からおしっこ……あ、川に」
 日車はペンを置いた。いまいち何を考えているか分かりにくい顔が天井を向き、そのまま動かなくなった。しばらくすると戻ってきたがペンを握り直すことはなかった。
「それを動画にして投稿したのか」
「そう」
「そうか……」
 そうか……、と日車はもう一度呟いた。男は身を乗り出して弁明する。
「いやでもみんないっぺんはやってみたくない!?」
「俺は同意しかねる」
「え! なんで!? 頭いいから!?」
 それは関係ないだろう、と言いかけた日車は男の顔をまじまじと見つめ前言を翻す。
「——いや、どうだろう、そうかもしれない」
「マジで!?」
 少なからぬショックを受けた男は悲鳴じみた声を上げた。
「でもおしっこが20メートル落ちるとこ見たくねえ!?」
「見たくない」
「うっそ!?」
 なんで! と男が言うと、日車はこの世には何一つ面白いことがなさそうな顔を男に向けた。
「興味がない」
「ええ……」
 そんな人間がいるとは考えてみたこともなかった。気になるだろう、普通は。気になったらやってみるだろう。男は「あ」と声を上げる。
「つまり俺が炎上したのは……犯罪的にエグスベりしたってこと!?」
「いや、法律にはしっかり反している。シンプルに犯罪だ」
「え、何が? 画面は暗転させて汚ねえもんは見えなくしたよ」
「立小便は軽犯罪法違反になる」
「マジ!? どうしてもなとき結構やっちゃわない? 日車さんは絶対しないの?」
「絶対しないかはともかくそれを動画投稿はしない」
「はぇー、頭いい」
 日車はとうとう深いため息をついた。
「それでまだ炎上してるのか」
「うん、どーしよ日車さん」
 日車が「出した謝罪文読めるか」と言うのでSNSのページを表示したスマホを手渡す。文面を見るなり日車は眉根をわずかに寄せた。
「小学生時代の国語の成績は2か?」
「うん、あ、でもたまに3」
「……だろうな」
 日車はメモに何かを書きつけるとそれを男に渡す。男の書いた謝罪文を手直ししたものだった。男は目を丸くする。
「めっちゃ読みやすくなってる」
「それを投稿し直して誠心誠意謝れ。自分の言葉で謝ったら、あとはほとぼりが冷めるのを待つしかないだろ」
「わかった! 日車せんせーありがとう! 弁護士ってすげー!」
 喜ぶ男に日車は「先生はやめろ」と疲れきった視線を向ける。男はもらった紙片を折ると大切にポケットに収めた。
「日車センセ、また来てもいい? 困ったときとか」
「いいわけないだろ。相談料をとるぞ」
「え? 金払えば来ていいの? じゃあまた色々教えてもらいに来る」
 何しろ男はそれなりに有名な動画配信者である。再生数と金はある。あと多分経費になる。それは税理士に聞く。日車は思いきり嫌そうな顔をした。いや、どうだろうか。今日はずっとこの顔の気もする。
「専門外だ」
「え、弁護士って専門とかあるんだ。でも俺、日車さんがいいな。だって日車さん「そんな馬鹿な動画撮ってどうするんだ」って言わないし」
 男がニコニコ笑ってそう言うと、日車は「言わないだけだ。思ってる」と答えた。
「え、思ってんの?」
「思わないやつがいるのか」
 男は椅子から立ちながら「まあいいや」と唇を尖らせた。