クセ強若者に慕われる日車(半グレくん)
善意の人というものは案外どこにでもいるものだ。刑事事件の弁護をすると多かれ少なかれ「おまえは間違っている」「金の亡者」と謗る者がいる。大抵は匿名のインターネットで好き放題書かれ、そのうち一部がメールか電話で直接それをぶつけてくる。事務所まで来て面と向かって抗議をしてくる気合の入った人間はそれほど多くないが、いることにはいる。
日車は事務所の前の共用廊下でスマホで日車を撮影しながら口角泡を飛ばす中年男を見下ろし「はあ、はあ」と曖昧な生返事を返す。二十五回目の「しかしそれも被疑者の権利ですので」を言うと中年男は目を剥いて反駁しようとする。そのとき鍋を二階から落としたような激しい金属音がして、中年男は口から出かけた言葉と唾を飲み込んだ。
音は、廊下に立つ若い男が金属の傘立てを蹴飛ばした音だった。それなりに大きく重いだろう傘立てが床を跳ねて中年男の足元に転がってくる。大きな音にすくみ上がった中年男は困惑げに男を見た。
見上げるような長駆の体格のいい男である。一見して堅気には見えぬ厳つい顔で、男は中年男を睨んだ。
「おっさん、俺そこの先生に用があんだけどよ、順番待ちか?」
「な、なんだおまえは――」
「おまえとおんなじだろ、ちょっと用事があんの、それだけ」
すっかり気勢を削がれ、そうとて後に退けずあわあわ言うばかりの中年男の肩に男は腕を回す。虎も絞め殺せそうな太い腕の重さに、中年男は顔を青くした。
「おっちゃんよぉ、急ぎじゃねえなら俺と順番替わってくれねえかな? 俺急いでんだよね、分かる?」
男は中年男を軽く揺さぶる。中年男の弛んだ体はいいように振り回された。ヤクザと見紛う風体の男が日車を指して「用がある」と言う。中年男は我が意を得たりとばかりに日車を睨む。
「阿漕な商売ばっかりしているからこういう奴等にも目を付けられるんだ」
日車は肩をすくめ「ご忠告痛み入ります」と応じた。
ぶつぶつと捨て台詞を唸りながら中年男がビルの外に消えると、男は日車の胸倉を掴み上げた。決して小柄ではない日車さえ振り回される。
「日車さん大丈夫だった!? 怪我とかねえ!?」
「ない、ないから離せ……力が強い……」
よかったァ、と男はニコニコ笑う。笑うとそういう顔の大型犬のようだ。
日車は男の母親の離婚相談に応じたことがあった。まだ法テラスに顔を出していた頃であるから五年以上前であろうか。当時から彼は二、三歳は年齢を間違えられるほど大柄な子供であったが、そのまますくすく成長した。しすぎたきらいもある。
男は日車の胸倉から手を離す。日車はため息まじりに皺だらけにされたワイシャツの胸元を指先で伸ばした。
「あんな頭おかしいおっさんまともに相手しちゃ駄目だって」
「分かってる。もう警察は呼んである」
男は不満そうな顔をしながらスマホを操作した。男のスマホではない。先程中年男が日車に向けていたスマホだ。男は慣れた手付きで動画を削除するとそれを日車に渡した。日車はじろりと男を睨む。
「窃盗」
「違いますって。落とし物拾っただけ。善行っすよ。警察に渡しといてもらっていいですか」
日車は黙ってそれを受け取った。
彼の母親は彼が中学二年生の頃に離婚した。父親の背丈を超えた男が、父親を素手で袋叩きにしたからである。日車の手を散々焼かせ、絶対に離婚はしないと言い張っていた父親はそれだけであっという間に逃げ出した。日車は法治と制度の限界と暴力の有効性を嫌というほど思い知ったのであるが、別にそんなことはどうでもいい。
「日車さん、ヤバい仕事ばっかり受けるからさあ」
男はため息まじりに傘立てを直した。余計なお世話だ、と日車は低く答える。
「まあ、なんか困ったことあったら言ってください。俺は日車さんには恩があるんで」
男はけらけらと笑って眉を上げる。
「俺、日車さんのためなら人も殺しますよ」
日車は人一人簡単に殴り殺せそうな太い腕を見て「おまえが言うとシャレにならない」と呻いた。