一、南部せんべい



 好きに食べてくれ、と日車は打ち合わせテーブルに置かれた菓子箱を指さした。なって日の浅い上司からの差し入れに、清水はどういう態度をとるべきか量りかねた。無難に「ありがとうございます」と返事をする。言ってから「わあうれしい」くらいは言えばよかったのかと思ったが、この世に面白いことなど何もなさそうな男の無表情は、そういうあからさまな媚びを喜ぶようには見えなかった。
 包装紙にはほっこり感を狙ったであろうつたない筆文字で「巖手屋 南部せんべい」と記してある。
「前の事務所の先輩が遊びに来て置いていった」
 日車は言い訳のようにそう言った。清水は「はあ」と相槌を打つ。
「はじめて食べます」
 清水が何気なくそう言うと、それまで資料から顔も上げなかった日車がすっと顔を上げた。何かまずいことを言ってしまったであろうか、と清水は竦む。この上司の表情はバリエーションに乏しく、どうにも得られる情報が少ない。日車は黙って席を立つと、清水の横に立ち菓子箱の包装紙を剥いでいく。
「出身はこっちじゃないんだったな」
「え? あ、はい」
 日車は剥がした包装紙を折り畳んでからゴミ箱に捨てた。どうせ捨てるならそんなにきれいに畳まなくてもいいのではないかと清水は思ったが、指摘するほどのことではなかった。
「地元でもないのによくこんな何もない土地に来ようと思ったな」
 採用したのはそっちじゃないか、と清水は思う。清水が縁もゆかりもないこの地に職場を決めたのは、恩師からの打診があったからだ。
 「僕が大変お世話になった方の教え子くんが独立を考えていて、アソシエイトを探しているみたいなんだけどどう?」という電話を受けたのが半年ほど前のことであった。社交辞令のようにいいですねえと生返事を返していたところ、知らぬ間に面接の日程が決まっていた。
 恩師の顔を潰さぬようにと面談に赴き、どうせ受からぬだろうと思っていたところを、忘れた頃に日車から採用の連絡があった。薄給激務で大所帯事務所の下働きをするのにもうんざりしているところであった。幸運といえば幸運であったかもしれない。
 いや、どうかな。と清水は暗い表情でせんべいの個包装を差し出してくる日車の顔を見返しながら思う。手狭な事務所で何を考えているか分からない寡黙な上司と二人というのも、なかなか負担は大きい。
「……いただきます」
 清水は差し出されたせんべいを受け取る。透明のパッケージごしに胡麻のまぶされたせんべいが見える。
「美味しそうですね」
「いや、特別美味いものでもないな」
「ええ……」
 普通そういうことを言うか。思わず声を漏らす清水に「食ってみれば分かる」と日車は短く言った。清水は「それって今食べろってこと?」と考える。黙ったまま、だが席に戻ることもない日車が何を要求しているのかいまいち掴めぬまま、清水は包装の中でせんべいを割り、ビニールを裂く。袋の中からせんべいのかけらをつまみ上げると、表面が妙に粉っぽかった。遠慮がちに口にしたせんべいは、朴訥とした歯触りとともに小麦粉と胡麻と塩の味がした。というよりも、その味しかしなかった。
「……そ、素朴な味ですね」
「言っただろ、特別美味くはない」
 素っ気ない味に感じるのは、そういう食べ物なのか、上司に監視されているからか、判然としない。
「まあ俺は割と好きなんだが」
 日車はそう言いながら包装の中でせんべいを割る。それを聞いた清水は「本当にそれほど美味しくないですね!」などと言わなくてよかったと胸をなで下ろした。
「こっちでは結構メジャーなお菓子なんですか」
「実家では親がこわれせんの大袋を常備してた」
 日車がせんべいを口にする。ばりばりとやはり朴訥な音がした。思えば日車と業務以外の話をするのは初めてであった。
「普通のやつは美味くもなんともないが、このへんは結構美味い」
 日車はそう言いながら、ナッツをまぶしたせんべいを清水に手渡す。清水はそれの封を切り口にした。ほろほろとしたクッキー生地は和洋菓子の趣があり、胡麻せんべいより食べ甲斐のある味をしていた。
「あ、本当だ。美味しいです」
 清水が言うと、日車は大きな菓子箱からクッキー生地のせんべいを選び取りひょいひょいと清水の手の上に乗せていく。
「持って帰ってくれ、場所を取る」
「え、いやいや、日車さんの分がなくなりますよ。クッキー生地美味しいのに」
「美味しいが邪道だ」
「は、はあ……」
 そういうものなのだろうか、と清水は思う。結局日車はクッキー生地のせんべい全てと、他の味を一種類ずつ清水の手の上に積み上げた。清水は滑って崩れそうなせんべいの個包装を両手で支え、自分のバッグにざらざらと注ぐ。
 清水は給湯室に残りのせんべいを置く日車を横目に見ながら「たまには仕事以外の話題を振ってみようか」とふと思った。