二、かりんとう
清水のボス――とはいえそう年齢が離れているわけでもない――は付き合いやすさを母親の腹の中に忘れてきたような男である。
日車は愛想もなければ愛嬌もなく、口の端に世辞や作り笑いを上らせることもない。業務に支障が出るほど無口というのではないが、楽しい無駄口に興じることもない。誠実といえばその通りで、とっつきにくいといえばその通りだった。優秀すぎて人に気を遣う必要がなかったのかしら、などと清水は思いもしたのだが、それはさすがにやっかみである。
だが、今日の清水には日車との無駄話のきっかけがある。先ほどから日車に声をかけるタイミングを狙っていた清水は、日車がモニターから視線を上げマグカップに手を伸ばした瞬間に「そういえば」とさりげなく話題を切り出した。
「日車さん、以前こわれせんの大袋の話をしていたじゃないですか」
突然そう投げかけられた日車は人好きのしない三白眼をぐるりと宙に向け、何か思い出すような素振りをした。
「ああ、そうだったか?」
「それって、これのことですか?」
清水は足元に置いていた白いポリ袋からがさがさと菓子袋を取り出す。スナック菓子の袋と同じくらいの透明の袋に、ひしゃげたせんべいが詰められていた。日車の視線が袋の上を滑る。清水は「あ、それだ。懐かしいな」などと日車が菓子袋に興味を示し、そこから雑談に持ち込めないかと目論んでいた。
だが日車はあっさりと首を横に振る。
「いや、違う」
「えっ、違うんですか?」
清水が思わず目を丸くすると、日車は胡乱なものを見るような顔をした。
「違うだろ……かりんとうだぞ、それ」
「かりんとう!?」
清水にとってはかりんとうといえば指ほどの大きさと形の揚げ菓子に黒蜜をまぶしたものである。清水は端を熱で圧着した菓子袋をまじまじと見た。紙のラベルシールに浄法寺名物天台寺駄菓子と銘打たれていた。薄くひしゃげた円盤状の焼き菓子には、かりんとうのイメージはない。
「この形はせんべいじゃないですか?」
食い下がる清水に日車はため息まじりに「食ってみればいいだろ」と言った。清水は菓子袋の端を切り、かりんとう――だと清水はまだ認めていない――のをつまみ上げる。清水の手のひらほども大きさのある黄金色の表面には焦げ茶色の渦巻き模様があった。たしかに先日もらったせんべいとは姿が異なる。
清水は割ったかりんとうのかけらを口にする。ぽり、と先日のせんべいより軽い歯ざわりであった。小麦粉の香りとともに、油の香りが鼻に抜ける。まだらにかけられた水飴は黒蜜よりあっさりしていた。
「あ、美味しい」
清水は口元を手で隠す。日車はカップに手を伸ばしながら「美味いよな」と気のないような返事をした。
「かりんとうってこの辺ではこの形なんですか?」
「違和感はない」
「へー、薄くてあっさりで食べやすいですね」
清水は二枚目のかりんとうに手を伸ばした。大きさの割に薄味でさくさくと食べ進めてしまう。
「普通のかりんとうはなんて呼ぶんですか?」
清水が尋ねると日車はカップを戻しながら「普通?」と問い返してきた。
「あの……ほら、猫のフンみたいな形の……」
「食べ物に使う喩えか?」
「あ、すみません」
日車がわずかに眉尻を下げたのが、気分を害したのか、呆れていたのか、面白がっているのか、清水にはいまいち判然としなかった。日車が「黒いやつだよな?」と言うので清水は「そうです」と答える。日車は何か考える素振りを見せたあと「あれもかりんとうだな」と唸った。
「ややこし」
「……ややこしいか?」
首を傾げる日車を横目に見ながら清水は席を立つ。日車が睨み続けるパソコンモニター越しに菓子袋を差し出した。
「おひとつどうですか」
一応、礼儀として差し出した。すぐに菓子袋をひっこめる準備は出来ていた。日車はあまり甘い菓子など好まぬような印象がある。清水の予想に反して、日車は変わらぬ暗い顔で袋に手を入れた。大きな手が窮屈そうに袋から半分に割れたかりんとうを取る。
「ありがとう」
「……いえ」
遠慮がちに割れたかりんとうを選んだことも、衒いなく礼を言ったことも、なんとなく意外だった。しかし社会人であるので、それくらいの礼節はあるものだろうか。清水は席に戻り、三枚目を口に運ぶ。ぽりぽりと腹の中に納めてから、胃の上あたりに手を置いた。
「つい食べすぎちゃう。残りは給湯室に置いていてもいいですか」
清水が言うと、日車はそれを肯んじた。清水はかりんとうの袋を給湯室の小テーブル、南部せんべいの箱の空きスペースに置いておいた。後ほどコーヒーを淹れ直しに給湯室に立ち寄った日車がそれを見て「祖母の家のおやつ箱みたいだな……」とぼやいていたのが面白かった。