番外、茶廊Sのクリームソーダ



 日車が「少し寄り道してもいいか」と言ったのは、市役所から事務所へと帰る道すがらのことであった。スマホでの電話を切るなりそう言ったので、何か用事でもあるのかと清水はそれを了承する。
 しばらく川沿いを歩き、古びた商店街を横切った。細々とした建物が密集した通りに、間口の細い倉のような外観の建物がある。一見すると何屋かも分からないような佇まいで、店先にメニューを記入した小さな看板が設置されているのでかろうじて飲食店だと分かった。
 通りからは民家にしか見えないような門をくぐると、やっと店名の入ったドアがあった。茶廊、とレトロなフォントで記された磨りガラスの嵌まった黒いドアは、なんとなく入りにくい雰囲気がある。臆する清水を尻目に日車は黒いドアを押し開けた。からんからん、とドアベルが鳴る。
 カウンターで皿を拭いていた店員が、日車の顔を見るなり「高木さんお呼びしてきます」と言った。店員が奥に引っ込むのと入れ替わるように、眼鏡をかけた女性が顔を出す。女性は日車の姿と、傍らで目を白黒させている清水を見てにっこりと笑った。
「日車君、わざわざごめんね。コーヒーでも飲んでいってよ」
 高木は頭上を指さし朗らかに言う。日車に遠慮する隙を与えず、高木は厨房に引っ込んでいった。ひぐるまくん、という音の響きの新鮮さに清水が日車の横顔をまじまじと見つめる。視線に気がついた日車は店の奥の階段に視線を向けながら小声で「前の職場の先輩だ」と囁く。
「え、そうするとこの喫茶店はご実家とか?」
「いや、経営者だ」
「……どういうことです?」
 弁護士をしながら喫茶店を経営などあまり聞いたことがない。日車は黒く艶々とした木製の階段に足をかけながら「……しっかりした人なんだ」と言った。その「しっかり」の単語の意図を清水は量りかね「なるほどぉ」と日車に倣い小声で答えた。
 店内は薄暗く、照明もそれほど強くない。高い窓から降り注ぐ白っぽい光で、強い陰影が印象に残る。それは白い漆喰の壁に黒い柱と調度が揃えられているからかもしれない。階段は急傾斜で、ステップも狭い。人に優しくはないが、趣はあった。
 二階の奥、テーブル席につく。調度はどれもこぢんまりとしていて、日車が座るといっそう小さく狭苦しく見えた。清水が日車の隣に座ると、トレーを手に高木が階段を上がってきた。
 高木は空いた席と清水の前にコーヒーを、日車の前にクリームソーダを置いた。白い光を受けてきらめく着色料の緑色を、清水は思わず二度見する。日車は溶け始めたバニラアイスがメロンソーダとまざりあいパステルグリーンに滲みはじめている水面に視線を落とす。
「高木さん……」
「少し甘いものでもとりなさいよ」
 日車の抗議めいた声を高木は意に介さなかった。日車は常の無表情のまま高木に茶封筒を渡す。厚みからすると、中身は書類束か書籍だろうか。高木は「ありがとう」とそれを受け取り、空いた席に置いた。
 日車は指先で真っ赤に着色されたさくらんぼをつまみ上げると果肉を種から囓り取る。黒いテーブルに緑色の光がきらきらと落ちていた。清水がそれを思わず凝視していると、高木が清水に視線を向けふっと微笑んだ。
「君もクリームソーダがよかった?」
「え!?いえ、大丈夫です! コーヒー頂きます!」
 清水は慌ててカップを手にした。香ばしいかおりが鼻先を漂う。
「高木です。日車君の前の職場の」
「あ、はい、伺ってます」
 高木はレンズの向こうの目をいたずらっぽく細めた。
「日車君の下は大変でしょ? いじめられてない?」
「……毎日勉強させて頂いています」
 清水の返答に高木は肩を揺らして笑い、日車は柄の長いスプーンで黙々とバニラアイスを食べ進めていた。
「でも船出は上手くいったようで安心したよ。何事もはじめが肝心だからね」
 高木の言葉に日車は「お世話になりました」と頭を下げる。清水はそのやりとりを横目に見ながら「日車さん、ショートケーキの苺も最初に食べる派なのかな」と関係ないことを考えていた。熱いコーヒーは苦みが強くさっぱりとした味だった。
「日車君って、とっつきにくくて気難しく見えるでしょ?」
 突然そう話題を振られ、清水は目を丸くする。カップをソーサーに置き、「ああ」と「うう」の中間ほどの音の曖昧な返事をした。日車の手前「そんなことないですよ」と言いたいが、清水の素直な心がそれを良しとしなかった。
 高木は片眉を上げてにっと笑う。
「日車君は裏表のない男だからね。見たままとっつきにくくて気難しい。苦労するね」
 清水は顔を背けて笑いを堪える。隣で日車の何か言いたげな気配がした。
「でも鬼のように優秀だから、きっと頼りにはなるよ。日車君をよろしく」
 高木は明るくそう言った。歯切れのいい賛辞は世辞や愛想には聞こえず、清水は日車の横顔を盗み見る。日車は謙遜するでも照れるでもなくストローを咥えてメロンソーダを飲んでいた。
 普段の業務から薄々感じてはいたが、やはり周囲に認められる程には優秀であるらしい。この若さで事務所を構えるくらいだもんな、と清水は表情に乏しい横顔を眺めた。
「愚痴ならいつでも聞くからさ」
 ここでならね、と高木はテーブルを指先でこつこつと叩く。
「うちランチのオムライスがおすすめだから。あとクリームあんみつ」
 清水はそれを聞いて、日車の「しっかりしている」の言葉の意味を完全に理解した。