五、盛岡冷麺
岩手にいるうちに盛岡三大麺は食べておきたいんですよね、と清水が言うと、日車が書類から顔も上げず「そうか」と答えた。そうか、じゃないんだよなあ、と清水は思う。清水がわざわざ日車のフィールドで話題を提供したというのに、唐竹を割るよりもばっさりと会話を断ち切られてしまった。
そうとて他にちょうどいい話題も見つからない。共通の趣味があるわけでもなく――そもそも清水は日車の趣味を知らない――、職場の噂話で盛り上がろうにも二人きりの事務所で互いの話をするほかなく、必要もなく仕事の話をする気にはならない。必然、雑談の種は天気か飯の話題になる。
「……日車さんは、三大麺ならまずどれがおすすめですか?」
「三大麺ってなんだったっけな」
「ええ……わんこそば、冷麺、じゃじゃ麺ですよ……」
地元民じゃないですか、と清水は眉尻を下げる。日車は書類から顔を上げ、件の表情のまま何か考え込むような様子であった。
「わんこそばはいいだろ、俺も食べたことない」
「ないんですか?」
ない、と日車は額に手をやり再び書類に覆いかぶさる。いや、ちょっと、と清水は仕事に戻ろうとする日車を押しとどめる。
「盛岡三大麺なのに!?」
「ないものはないんだから仕方ないだろ」
日車は眉根を寄せる。清水は頭の片隅で冷静に「この話題ひっぱれそうだな」と打算していた。特に日車と和気藹々と話したいわけではないが、職場を共にする者同士、最低限の雑談は共有したい。
「わんこそばって言ったってただの日本そばだぞ。一口ずつ食べてどうするんだ。美味い蕎麦屋にでも行ってざる一枚食べたほうがいい」
「い、一分の隙もなく正論……でもああいうのってそうじゃなくないですか?」
清水の反駁に、日車は胡乱な顔をしたが気分を害したわけではなさそうだった。清水が思うに日車のいいところは、会話に気を遣うことを要求してこないところだ。同じだけ会話に気を遣ってこないところが難しいところでもある。
「イベントとして楽しむものだから、機会を逃すと一生やらない。地元民より観光客のほうが食べたことのある人間が多いんじゃないか」
日車はデスクに肘をつきながらそう言った。清水は日車がなんとなく雑談に応じてくれそうな気配を感じて身を乗り出す。
「じゃあ、今日のランチが冷麺かじゃじゃ麺かってなったらどっちにしますか?」
清水の益体もない問いに、日車は「冷麺」と即答する。清水は日車にしては吟味されない返答に眉を上げた。
「冷麺お好きなんですか?」
「いや、じゃじゃ麺は家で食べられる」
「あ、そういう……」
なるほどぉ、と二の句を継げずにいる清水に、日車はついと視線をくれる。
「決まったか?」
「はい?」
「昼飯。どっちにするんだ」
「――え? は、え? ええと……冷麺?」
話の流れが読めないまま清水が答えると、日車はおもむろに立ち上がり上着を手にする。呆けたまま席に座る清水に日車は怪訝な顔をして「食べたいんだろ」と言った。時計を見ればちょうど昼時である。
食べたいとは言った。だが上司と一緒に食べに行きたいとは言っていない。
平日昼過ぎの大通りはそれほど人通りがない。清水は日車の傍らを歩きながら、その横顔に視線をやる。
「どこに食べに行くんですか?」
「このへんなら盛楼閣だろ。他に行きたいところがあるのか?」
「ありませんけど……」
答えながら清水は「盛岡市民が冷麺を食べに焼肉屋に行くのって本当だったんだ」と内心で感心していた。日車は緩やかな歩調で通りを歩きながら清水に視線を向ける。
「普段無茶な仕事も振っているからな。慰労も兼ねて地元の名物くらいご馳走する」
ぽつ、と日車は言う。清水は思わず歩きながら日車の顔を三度見し、足元がおろそかになり躓きかけた。
日車がそういうことを気にかける男だとは思わなかった。当人が度を越して優秀で、それゆえに当然のように周囲にも同等の努力と成果を求めるタイプだと思っていた。しかし思えば清水は、日車から幾度となく呆れられてはいるが「こんなことも出来ないのか」という類いの叱責を受けたことはない。
「日車さんそういう気を遣うタイプだったんですね!」
清水が思わず声を上げると、日車はぎゅっと眉をひそめた。
「まあな、手間と時間とコストをかけて雇用した人間を無下に扱って逃げられても困る」
「あ、実は前から聞きたかったんですけど、なんで私を雇ったんですか? 私しか応募者がいなかったとか?」
日車ならば他にも優秀な若手への伝手がいくらでもあっただろう。有名大学を出ているわけでも、目立った仕事をしているわけでもない己がなぜ日車の眼鏡に適ったのか、採用の電話を受けた日から不思議に思っていた。清水の自虐めいた問いに、日車は首を横に振る。
「他にも何人か候補はいた」
「えっ? 他にもいたんですか? じゃあ他の人には全員断られちゃったとか?」
目を丸くする清水に日車は「おまえ自分で言ってて虚しくないのか」と呆れた目を向ける。
「逆だ。おまえが了承したから、他は断った」
「――え、」
なんで? と首を傾げる清水に日車は鼻を鳴らす。
「採用の理由か?」
「聞いてもいいですか?」
「一番図太そうだったからだ」
「…………んえぇ」
冗談ですよね? と問い詰めかけたが、なんとなく冗談にも聞こえず、清水は気の抜けた呻き声だけを漏らす。
「……え、冗談? ですよね? 日車さん」
日車は清水の狼狽をよそに盛楼閣の店先のランチメニューを眺めていた。冷麺の写真を日車は指差す。
「冷麺に果物がのってるだろ?」
「のってますね……いや、日車さん、さっきのマジですか?」
「俺はこれいらないと思うんだよな」
「ねえ! 日車さん!? ちょっと!」
日車はさっさと店に入ってしまう。その話はそこで終いになって、結局日車の真意は知れなかった。