樋田ユカリは家庭内において強権的な圧制者であった。幼い晶には与り知らぬ理由で、母も伯母も己の実の母親である樋田ユカリを恐れていたように思う。恐れながらも二人は樋田ユカリに目をかけられ愛されることを渇望していたのかもしれない。だが樋田ユカリの関心は年の離れた三女の樋田まおと、孫たちにだけ注がれていた。少なくとも晶はそう感じていた。
 松尾あかねは暗い感じの人で、いつも何かに怯えていた。痩せた手首に赤い玉の数珠をいつも嵌めていて、晶は伯母のことを思い出すときにそればかりが思い浮かぶ。あまり話したことがなかった。松尾健司は粗暴な大男で、ことあるごとに樋田ユカリと口論をしていた。だが健司がユカリを殴るようなことは記憶になく、幼い連れ子たちや晶とはよく遊んでくれた。晶は松尾兄妹の面倒を見るよう言い付けられることがあったが、乱暴な遥斗とすぐに泣きわめく眞由璃のことは苦手だった。
 樋田はすみは晶の実の母である。晶が四歳になるまでは母と二人暮らしをしていたらしいのだが、幼い頃の話であまり記憶がない。樋田はすみは疳の強い人で、そういう意味では母親である樋田ユカリに最も似ていた。子供心にも晶は母が他の姉妹とあまり仲が良くなかったように感じていた。
 樋田まおは晶と歳が近く、晶は叔母であるまおのことをまおちゃんと呼んで慕っていた。思えば当時まだ十代であったのに完成した華のある人で、そういうところが祖母に気に入られていたのかもしれない。
「――それで、権東一樹は」
 訥々と家族の顔を思い出しながら言葉を選んでいた晶を、久坂の問いが遮る。晶は伏せていた目をぱっと久坂に向ける。
 馴染みの編集部の喫煙所で二本目の煙草に火をつけるところであった久坂のスマートフォンが鳴動したのが二日前のことだった。久坂は火をつけたばかりの煙草を揉み消し、相手の気の変わらないうちにとるものもとりあえず新幹線に飛び乗った。取材は喫茶店か、人目が無いほうがいいなら貸会議室か、と提案する久坂に、日車と名乗る弁護士はうちの事務所の来客スペースを使ってくださいと申し出た。その言葉には申し出るというよりは遥かに強制的な響きがあった。取材費用を節約できるのは願ってもなかったが、久坂はまたあの弁護士に会うのは少し気が引けた。どこを見ているのか分からないような胡散な目付きの男で、何を考えているのかは分からないがこちらを歓迎していないことだけは明らかであったからだ。
 日車は取材にあたり細かい条件を付けてきた。取材はあちらの一存で打ち切ることが出来ること、顔、名前、現在の動向は一切出さないこと、取材内容を他者に明かさないこと、発表の際は事前にあちらの了承を得ること、理由の如何を問わず発表の差し止めを要求できること。取材側に不利な条件ではあったが、久坂はそれを飲み込んだ。たとえこれが取材のし損になったとしても、鵲市七遺体事件の取材を出来ることは久坂自身の好奇心を刺激した。
 その男は今も来客テーブルの隅で椅子に座って黙って取材の様子を監視している。視界の端の人影にあまりに動きがないので居眠りでもしているのではないかと久坂が様子をうかがうと件の目と視線が合ったので慌てて逸らした。樋田瑠海――音無晶は取材に弁護士が立ち会うことに疑問を抱いていないらしく、末席に陣取る日車に狼狽える久坂に対して断りを入れることさえなかった。
「権東一樹――」
 何かを思い出すように眉根を寄せる晶に久坂は写真を差し出す。大きな応接テーブルの上には所狭しと写真や家の見取り図、当時の新聞記事が並べられている。その中で、グレーの背景にバストアップで男が写る写真があった。権東一樹の社員証の証明写真だった。あまり写真に写ることを好まない男であったらしく、亡くなった当時の鮮明な写真はそれくらいであった。
 晶は写真を手に取りかけ、触れぬまま手を膝の上に戻した。
「ごめんなさい、あまり覚えていなくて」
「覚えていることだけで大丈夫です」
 晶はテーブルの上の写真と久坂の顔を順に見たあと、ふっと一瞬視線を日車の方にやった。
「一樹さんは……気が付いたら家にいました。祖母が連れてきてこれから一緒に住むと言ったのかもしれません。祖母はそういうことを言う人で――家の人は誰もそれを止められなかったから」
「でも、一樹さんは樋田まおさんのお客さんだったんですよね」
 権東一樹は当時樋田まおが勤務していた飲食店の常連客で、ホステスである樋田まおに入れあげていた。学生時代から真面目な人物と認識されていて、事件当時も固い職業についている。樋田ユカリと知り合う理由も、気に入られ家にあげられる理由も特には見当たらない。
「あ、そうですね。じゃあまおちゃん――叔母がそうしたのかも。ごめんなさい、覚えていなくて。でもいつの間にか家にいたのは本当です。一樹さんはいい人だったと思います」
「一樹さんが家にいるようになったのはいつ頃からですか」
「いつかな……多分、母が亡くなった頃くらいです」
「お母さん――樋田はすみさんが亡くなった理由を覚えていますか」
「いいえ。私が小学校から帰ったら、母が奥の仏間で寝かされていて、冷たくなっていました。部屋は冷房が効いていて、すごく寒かった」
「……警察には誰も通報しなかった?」
「しませんでした。母の話は誰もしなくなってしまって……それには触れてはいけないというか、それが当たり前になってしまっていたというか、そういう雰囲気でした」
 奇妙な話であった。当時盛んに報道された理由も、潮が引くように報道されなくなった理由も察しがつく。大衆が求める奇妙は己が理解できる範疇の奇妙であって、その埒外の奇妙は大衆の興味から外れ好事家のおもちゃになる。鵲市七遺体事件は後者であった。
 晶が記憶を辿りながら話す内容はあやふやで前後関係も曖昧であった。正直に言えば当時の裁判記録から得られる情報以上の情報はない。十二年も前の、当時八歳の少女の記憶ともなれば無理もない。しかし、晶が糸を手繰るように話す内容は、子供の悪夢のように現実離れしていながら生々しく迫力があった。
 事件当時、何を聞いても要領を得ない八歳の少女と、頑なに「権東一樹がやった」としか言わない樋田ユカリに警察も司法も困り果てたと聞いている。今を以て誰が何の目的で樋田邸に七つの遺体を積み上げたのか、本当のことは誰にも分かっていない。
 傷害致死で懲役刑を受けた樋田ユカリさえ、その判決には疑問が残る。松尾遥斗の死亡推定時刻が権東一樹よりも後である可能性があり、よって樋田ユカリにより死に至らしめられたと”推認”された。無理筋といえば無理筋であったが、当時樋田ユカリが司法やマスコミに向けて不遜な態度をとり、また容貌も白髪交じりの蓬髪で鬼婆めいていたことが著しく心証を損なった。法廷で検察の提示した証拠は全て状況証拠にすぎず、そうであるのに下された判決は厳罰と呼んで差し支えなかった。だが世間は不可解な猟奇事件への一応の顛末を見届け胸を撫で下ろし、羅刹の如き鬼婆に制裁が下されたことに快哉を上げた。正義を求めるテレビの前の人々は死刑が相当だと憤りさえした。
 樋田ユカリは、今なお事件への一切の関与を否定している。
 メモを取る久坂の向かいで晶は小さく咳き込んだ。もう二時間近く話し込んでいたことに気が付いた久坂が「休憩しましょうか」と提案すると、晶は「すみません、お手洗いお借りします」と席を立つ。立ち上がった拍子に細い肩を髪が滑り落ちた。
 久坂が何か言う間もなく、閉ざされた来客スペースに日車と閉じ込められる。久坂はしばらく卓上の資料を整理しメモを確認するふりをしていたが、すぐに沈黙に耐えられなくなる。
「辛いことを思い出させているのに、晶さんはしっかりしていますね」
 日車に向かってそう言うと、日車は白目の目立つ双眸だけを久坂に向けた。
「犯罪に巻き込まれた人間にはいつまでもそれに囚われ怯えていてほしいですか」
 そう返され、久坂は日車に声をかけたことを後悔した。
「いえ、そういうわけでは――」
「そうですか」
 それきり気まずい沈黙が降りる。久坂はパーテーションの向こうの気配を探る。晶に早く戻ってきてほしかった。
 事件に囚われ怯える生き残りの少女の画が欲しくはないと言えば嘘になる。音無晶は拍子抜けするほどに真っ当であった。遺された樋田家の写真には、笑顔の写真も、華やかに着飾った写真も、食卓を囲む写真もある。だが写真越しにさえうっすらと匂い立つ崩壊家庭独特の荒んだ雰囲気が、不穏な気配が、樋田家にはあった。それが晶にはない。久坂はそれを、あってほしいと思っているのではない。ないことに違和感を抱えただけだ。晶がすでに崩壊する家庭を失っているからであろうか。そうだとすれば、皮肉であった。
 ドアが開き晶が戻ってくる。久坂と目が合うと、晶は眉根を寄せて微笑んだ。遅くなってすみません、と詫びる晶に久坂は胸の前で手を振る。晶は元の席につきながら申し訳なさそうな顔をする。
「せっかく取材していただいたのに、面白い話ができなくてすみません」
「いえ、興味深いお話です」
 すぐに事件の話に戻る空気でもなく、久坂は持ち込んだペットボトル飲料を晶に勧めながらとりとめもない雑談を挟む。
「晶さんは今学生ですか?」
 久坂の問いに晶は肯んじ、それから久坂の内心を見透かしたように肩をすくめて苦笑した。
「学費ですか? 奨学金とか、バイト代とか、あとは犯罪被害者遺児向けの給付金とか……厳しい感じです」
 久坂は少し大袈裟に感心して見せる。
「何の勉強をしてるんですか」
「法律系です」
 濁した言い方をする晶に久坂が「法学部ですか」と尋ねると、晶は答えにくそうに「そうです」と頷いた。
「すごい、優秀なんですね」
 素直に驚くのと同時に、久坂は犯罪遺族が苦学しながら法務関係に進学している状況は受けがよさそうだと邪な皮算用をしもした。すでに現状のことは書かないと契約を交わしてしまったことが悔やまれた。
 晶は恐縮して小さくなる。
「受かったはいいんですけど、勉強が大変で……運がいいだけで地頭はよくないんです」
 久坂は「違っていたらすみません」と断りを入れる。
「そっち方面の勉強をしようと思ったのは、ご家族のことがあったからですか」
 晶は一瞬目を丸くし、久坂の方を見た。それから視線を天井に向けしばらく考えたあと「そうですね……」と言いながらも首を傾げていた。
「関心を持ったひとつの理由ではあると思います」
 晶はそれ以上何も言わなかったので、久坂も追究するのはひとまずやめた。久坂が資料に視線を落とし先ほどの続きから話を再開しようとすると、晶は「私も聞いてもいいですか」と遠慮がちに申し出た。面食らった久坂は反射的に「どうぞ」と答えた。
 晶はすいと身を乗り出す。テーブルの上の亡き家族の写真に暗い影が落ちる。
「久坂さんはどうしてこの事件に興味を持たれたんですか」
 晶の虹彩が蛍光灯の光を受けて鈍くきらめく。久坂は取材を申し込むときに長々と書いた動機を思い出そうとし、それは諦めた。
「以前から興味のある事件ではありました。当時私は駆け出しの記者で、先輩に連れられてこの事件の取材にあたったこともありましたから。なぜ興味があるかと言われると……単純に私の好奇心かもしれません。すみません」
 好奇心と言う久坂に晶は不快になった様子ではなかった。晶は「好奇心」と口内で囁く。
「知りたいんですか?」
「……そうですね。私は自分が知りたいことを取材して、私と同じように知りたいと思っている人に向けて記事を書いています」
 ことり、と晶は首を傾げた。
「それが目を覆いたくなるような事実であったとしても、知りたいですか」
 久坂はぎょっとして晶の顔をまじまじと見つめた。何か意図のある問いにも、素朴な疑問にも聞こえる。久坂は迷いを気取られぬよう平静を装った。
「知りたいと思います。多分記者のサガです」
 久坂の答えに晶はふと口元に笑みを刷いた。瞬きのあとには見えなくなっているような微かな笑みであった。
「それで、今になって取材を?」
「知り合いに、晶さんが今ここの大学に通っていると聞いて」
 晶は眉を上げた。
「誰から聞いたかは――教えてくれないですよね」
「そうですね、ちょっと勘弁してもらって」
 人の口に戸は立てられませんね、と笑う晶と裏腹に、久坂は日車の非難がましい視線を頬のあたりに感じていた。それに気が付かないふりをして、久坂は先を続ける。差し出したのは松尾健司の写真だった。
「松尾健司さんのことは覚えていますか」
「はい、母の姉の旦那さんで――一応伯父になるんでしょうか」
「死因のことは聞いていますか」
 晶は暗い表情で頷く。
 松尾健司の死因は餓死である。正確には極度の栄養失調による脳出血で死亡している。司法解剖による検死結果により松尾健司の死因が明らかになってから、大手新聞はこの事件の扱いを小さくした。
「警察の発表では、餓死ということになっていますよね」
「そう聞いています」
「松尾健司さんは、どこかに閉じ込められて食事を与えられていなかったんですか」
 久坂は今回の取材でこれだけ聞くことが出来ればいいと思っていた。久坂の意気込みをよそに晶は煮え切らない様子でテーブルの上に置いた指をせわしなく組み直していた。
「そんなことはなかったと思います」
「思います、というのは」
 久坂の更問に晶は眉根を寄せて呻く。
「普通でした。普通だったと思います。すみません、確かなことは言えなくて」
「普通というのは、普通に家の中を歩き回っていたということですか?」
「――はい……あ、いえ、そういえば、食卓に寄り付かなくなって、どんどん痩せていって――でも仕事には行っていたのかな。昼は家にいなかったから」
 晶の言うことには、松尾健司は労働に従事しながら自ら一切の飲食を拒み衰弱し死んでいったことになる。赤ん坊でもない大の大人が。元プロボクサーの強健な大男が。或いは松尾健司はなんらかの理由で――自宅に家族の遺体が転がっている環境でなんらかの理由などと馬鹿げた言い分もないが――精神を病み、摂食障害に陥っていたのだろうか。そしてそれを、他の家族たちは疑問に思わなかったのだろうか。
 それを問えば晶は困ったような顔をして「そのときは、みんな、そういうものだと思っていたから」とだけ言った。
 そんな馬鹿な、と言いかけたのを喉のあたりで圧し潰し、久坂は「最後に一つだけいいですか」と切り出す。
「晶さん、あなたはこの事件を樋田ユカリが起こしたものだと思いますか」
 晶が目を伏せ何か考え込んでいるのを久坂は固唾をのんで見守る。
「いいえ」
 ぽつん、と晶が呟いた。






 取材を終えてしばらく経っているというのに、事務所の自席でぼんやりしている晶に向けて日車がモニターに視線をやったまま「早く帰れ」と声をかけた。はあい、と腑抜けた返事をする晶に日車は溜息をつく。
「だいぶ参ってるな」
 晶は「そうですね」とデスクに肘をついた。
「私、もっと昔のことと距離をとれているつもりでいました」
 名を変え、過去に蓋をし、記憶を封じ、事件とは切り離された存在になりきれていたような気がしていた。日車はパソコンのモニター越しに晶を見やり何か言いかけた。薄い唇が開き、閉じられる。日車の視線がモニターに戻るのを見た晶は「何かおっしゃってください……」と呻いた。
「遅くなる前に帰れ」
「何かっていうのはそういうのじゃないです」
 日車は首の後ろを掻き、デスクの引き出しを開けた。何をしているのだろうか、と首を伸ばす晶の傍らまで来ると、日車は晶のデスクの上に個包装のチョコレートをざらりと置いた。そのまま黙って席に戻る日車に晶は怪訝な目を向ける。
「日車さん、これくださるんですか」
「ずっと引き出しにあった」
「これ私が差し上げたチョコですよ」
 いつの頃かは忘れたが、晶が清水とおやつを交換していたときに日車にもお裾分けしたものであった。晶も渡したことを忘れていたような駄菓子なので、手つかずで戻ってきたところで気分を害したりはしない。日車らしいとは思う。日車は気まずそうな顔をして再び席を立ち、晶のデスクまでチョコを回収に来た。晶は日車に攫われる前にチョコを手の内に収める。
「あ、いいんです、頂きます。また日車さんの引き出しの肥やしになるくらいなら私が食べちゃいますから」
 どうであれ日車は晶に励ましか慰めのどちらかを伝えたかったのだろう。ひょっとすると空腹で帰宅の気力もないと思われているのかもしれないが、それでもいい。晶はチョコレートの個包装をひとつ剥いだ。日車さん、と目の前に立つ男の名を呼ぶ。
「付き添ってくださらなくてもよかったんです。日車さん、今すごくお忙しいのに」
 言いながら晶は包装で包んだ剥き身のチョコを日車に差し出す。日車は手が汚れないよう慎重な手つきでそれを摘まみ上げた。労いを込めて渡した小さなチョコを、日車は二口で口内に収める。黙々と駄菓子を咀嚼する日車を晶は見上げる。
「俺が忙しいのはいつものことだ」
「……なお悪いですって」
 本気とも冗談ともつかぬ日車の言葉を、晶は笑う気にもならなかった。日車は今もこうして清水がとっくに退勤した後で仕事をしている。晶が日車の仕事の手を止めてしまったからだ。
 晶はいくつか謝罪と感謝の言葉を思い浮かべ、結局本当のことだけを言うことにした。
「気にかけてくださってうれしいです」
 それから仕返しとばかりに笑えぬ冗談を付け加える。
「私のことを気にかけてくれる人は、もう日車さんしかいないんで」
 晶の目論み通りに日車は苦い表情で「笑えない」と言ったが、そもそも日車は陽気に笑うの性質の男ではない。
 晶はのろのろと立ち上がり、デスクの上の物入れから自転車の鍵をとる。
「帰ります。お手間かけさせてすみません」
「気を付けて」
「――ポットの電源切りますか」
「そのままでいい」
 そうですか、と晶はバックパックを手にする。
「おつかれさまです、また明日」
 晶が言うと日車は無言で会釈した。


 *


 樋田はすみ頭部挫傷、松尾眞由璃不明、樋田まお撲殺、松尾あかね扼殺、松尾健司脳出血、権東一樹縊死、松尾遥斗頸部骨折――
 鵲市七遺体事件で発見された遺体を死亡推定時期で並べたものを久坂はしばらく眺めていた。ただし権東一樹と松尾遥斗の亡くなった時期については、ほぼ同時期であろうことが司法解剖や近隣住民の証言から推定されたにすぎない。このうち他殺であることが明らかになっているのは長女の松尾あかねと三女の樋田まおだけである。樋田まおは樋田家に設置されていた陶器の灰皿で頭部を殴られている。灰皿には血痕と松尾あかねの指紋が残っていた。松尾あかねは扼殺された際に爪の間に権東一樹の皮膚片と血痕が付着した。また権東一樹の前腕にも松尾あかねによるものと思われる掻き傷の痕跡があった。
 他の被害者は事故か他殺か或いは自死かが明らかにならなかった。松尾眞由璃にいたっては死因すら不明である。眞由璃はなんらかの理由で亡くなり、遺体を松尾あかねと樋田ユカリが庭に埋葬――検察は隠蔽という言葉を使ったが――したことは、樋田ユカリと樋田瑠海の証言が一致した。
 知れば知るほど冗談のような事件である。久坂が何より不気味に思うのは、今日の取材で音無晶が久坂が何を聞き、ときに強い言葉で晶の言葉を引き出そうとしても、ただ困ったように「みんながそういうものだと思っていたから」と繰り返すことだった。暴力や脅迫で強要されていたのかと聞いても、晶は首を横に振るばかりであった。
 一つ屋根の下の人間が刻一刻と欠け死体となり家内に転がっていく状況を、九人もいながら誰もが「そういうものだ」と見過ごしていたことを、久坂は俄かに信じられないでいる。
「何読んでるんですか」
 喫煙所で野帳を眺めていた久坂に若い男が声をかけてくる。久坂はいつの間にか火の消えていた煙草を灰皿に投げ込んだ。男は出版社に出入りしているライターで、数少なくなった喫煙仲間である。
「鵲市の事件覚えてるか?」
 久坂の言葉に若い男はぴんとこないようすで「はあ」とどっちつかずの返事をする。
「一つの家から七人の遺体が見つかったやつだよ。ニュースになっただろ」
 そこまで言うと男はやっと「ああ!」と声を上げた。
「なんかバアサンが家族殺してたんでしたっけ? あー、でもかなり昔の事件じゃないですか?」
「十二年前だよ」
「俺そのとき中学生っすよ」
 何が面白いのか男は手を叩いて笑う。久坂は上着のポケットから煙草の箱を取り出した。
「ばあさんが殺したわけじゃない。いや、殺したのかもしれないけどな。家族で殺し合ったり、事故だったり、自殺だったり、不明だったり、変な事件だよ」
 へえ、と男は相槌めいた息とともに煙を吐き出す。
「家の中で殺し合ってんの、蟲毒みたいっすね」
 男はそれだけ言うと、鳴動するスマートフォンに追い立てられるように喫煙所を後にしていった。ガラスの向こうで男が通話しているのを眺めながら、久坂はどこかで聞いた覚えのあるコドクという言葉について、どこで聞いたのかを思い出そうとしていた。