終、べアレンビールといわちくソーセージ
厄介な業務に忙殺されているさなかに清水が誰に向かうでもなく呟いた「こんなの美味しいお酒でも奢ってもらわないとやってらんないですよ」という泣き言を日車は律儀に覚えていたらしい。
激務もなんとか峠を越え、今日はとっておきの入浴剤で風呂に浸かって泥のように眠ろうと定時を待つ清水に、日車は何の前触れもなく「今日、時間あるか」と言う。清水は即座に「今日だけは残業なしで」と答えた。そうか、と日車は資料に視線を戻す。
「美味しいお酒でも奢ろうかと思――」
「めちゃくちゃ時間あります」
くるりと手のひらを返す清水に日車はわずかに眉を上げる。笑ったように見えなくもなかった。
日車に連れられた店は穏やかな照明の灯るビアバーだった。てっきり鄙びた居酒屋にでも連れて行かれると思っていた清水は面食らう。席に着きながら「日車さんてお酒飲むんですか」と尋ねると、日車は「体質的に飲めないということはない」という迂遠な返答をした。清水は直截な言い方に切り替える。
「いつもこんな洒落た店で飲んでるんですか」
「いや、何かの集まりで使ったときに良かったから選んだ」
日車はメニューを清水に手渡す。用意されているビールの銘柄は清水が知らないものだった。地元の醸造所で作られたクラフトビールらしい。清水はメニューの先頭にあったという理由でピルスナーを選んだ。いくつかのフードと共に注文を済ませると、すぐにグラスビールがテーブルに供される。
グラスの中でしゅわしゅわと立ち上る薄金色の泡を見て、清水は堪らず小さな歓声を上げた。
「日車さんお疲れ様です! 乾杯!」
清水が軽くグラスを持ち上げると、日車は手にしたグラスを清水のグラスの縁を近付ける動作をした。音はしなかった。清水は景気よくビールを飲んだ後、気持ちよく済んだ仕事について悪しざまに語ろうとしたのだが、ビールを口にした瞬間仕事のことなど忘れてしまった。
「えっ、すご、おいしっ」
清水は華やかな香りのビールをすいすいと半分ほど飲み「がんばっておしごとしてよかったぁ」と天井を仰ぐ。それを聞いた日車は呆れたように眉を下げた。
「変わり身が早いな」
「図太さで雇われてるんで」
清水が笑いながらミックスナッツをつまむと、日車は温度の低い視線を清水に向けた。
「面接で言っていただろ――」
「え、私何か言いました?」
元を糺せば恩師の顔を立てるために面談に行ったようなものだ。強い意気込みで面談に臨んだわけではない。話した内容など帰り道でほとんど忘れてしまった。首をひねる清水に日車は思い切り胡乱な顔をした。
「……うちの事務所で働くことになったら、刑事事件が主軸になる可能性が高いが、それでもいいか聞いた」
日車の言葉に清水はおぼろげな記憶を手繰る。
「あっ、そうでした。でも、それはあらかじめ先生にも刑事メインで探してるって聞いてたんで」
清水は店員によってテーブルに載せられた大振りなソーセージを見て目を輝かせる。
「それに、もともと刑事の方が向いてるなって思ってたんです。相手との折衷案を丁寧にすり合わせて駆け引きする民事より、力いっぱい被疑者を弁護する刑事の方が性に合ってるんで」
清水が自嘲めいて言うと、日車は清水より少し色の濃いビールに口を付けながら清水の方を指差す。清水はソーセージを自分の皿に取り分けながら、己に向けられた指先を眺めた。
「それを聞いて、バ――愚直だなと思った」
「今バカって言いかけました?」
眉根を寄せる清水を日車は黙殺する。
「俺も他人からはこう思われているのかと内省もした。だが、いっしょに仕事をするならこういう愚直な奴がいいと思った」
「――はい?」
日車はついと視線を逸らしながら、ソーセージの皿に手を伸ばす。
「採用の理由だ」
銀色のフォークの鋭い先端がソーセージに刺さる。ぶつん、と皮のはじける音がした。フォークと皮の隙間からきらきらと肉汁が溢れる。清水は目を丸くして、日車とソーセージを交互に見た。
「……日車さん、実は私のこと高く買ってくれてたりします?」
清水が酒の勢いを借りてそう尋ねると、日車は暗い表情を俯かせた。
「――まあ、採用したしな」
それを耳にした清水は上体をのけぞらせる。
「マジですか!? いや! 嬉しいですけど! びっくり!」
えー! 日車さんが! 私を! と何度も驚きと喜びを噛みしめる清水に、日車はうるさそうな顔をした。
「それはそれとして、もっと要領よく仕事を進められないのかとは思ってる」
「日車さんを基準にしないでください」
清水はグラスを空けると、真剣な表情で日車の顔を真正面から見つめる。日車の背筋も何となく伸びた。
「――日車さん」
「なんだ」
「もう一杯飲んでいいですか」
日車は何か言いたげに口を開いたが、そのまま溜息をついた。
「どうぞ」
「ごちそうさまです!」