三
ここ最近事務所の雰囲気が硬いとは感じていた。おそらく難しい仕事を受けたのだろう。日車も清水もよく外出するようになり、晶が一人で電話番をすることが増えた。そうはいっても仕事の内容が内容なので、詳細がアルバイトの晶に届くことはない。仮に漏れ聞こえたとしても聞こえぬふりをする。晶は今日も事務所につくなり日車の外出を見送った。清水はすでに出かけた後らしかった。
一人でルーティンの事務作業を終え、大学の課題をし、それも終えたので普段触れない棚の上を拭き掃除していた。汚れた布巾を手に給湯室に戻る途中、清水が事務所のドアから入ってくるなり「猫……」と溜息をついた。
「清水さん、おつかれさまです」
猫? と首を傾げながら晶が声をかけると清水は我に返ったように「あ、晶ちゃん留守番ありがと」と微笑む。手にはコンビニの袋を提げていて、晶がそれを見止めると清水は「お昼食べ損ねちゃった」と肩をすくめた。
「本当にお忙しそうですね……」
「晶ちゃんこそテストはどうだったの」
突然それを言われ晶は喉を詰まらせる。先週まで試験期間で、晶はあまりバイトに来られていなかった。
「就学支援は継続して受けられる……はずです」
「お、よかった。頑張ったね!」
「ありがとうございます……」
結果が出るまでは油断が出来ないんですけど、と晶は給湯室に入る。布巾を洗う晶の背後で清水がひしゃげたおにぎりを電子レンジに放り込んだ。電子レンジの低い駆動音が狭い給湯室に響く。
「聞いてよお、晶ちゃん」
声をかけられ、晶は流しから顔を上げる。清水がレンジ台に寄りかかりながら溜息をついていた。
「今、日車さんが面倒くさい仕事受けちゃってて」
あー、と晶は苦笑する。
「手順は多いけど報酬は安いし責任は重いタイプの仕事」
「うわ、大変ですね」
晶が濡れた手を拭きながら答えると電子レンジが報知音を鳴らしながら停止する。清水はそれを無視して先を続けた。
「日車さんってそういうとこあるよね。いやまあ弁護士としては立派なんだけど、もうちょっと商売っ気というかさ、上手いこと立ち回ってもいいと思うんだよ」
「エモいですね」
「出た、若い子すぐエモいって言うやつ」
急かすようにもう一度報知音が鳴り清水は「はいはい分かってるって、うるさいな」と電子レンジからおにぎりを取り出した。過熱されたそれはフィルムの内側に湯気が溜まっていて、清水は「あっつ」とそれをレンジ台に放る。
清水は少し赤くなった指先を擦り合わせながら晶にからかうような視線を向ける。
「エモ? 日車さんが?」
「え、エモくないですか?」
全然分かんない、と言われ晶は眉尻を下げて笑った。
*
久坂が日車寛見について調べたのは特段根拠のある行動ではなかった。ただ犯罪遺族とはいえ一般家庭生まれの若い学生がマスコミとのやりとりに弁護士を立てるという発想を持ち得るのかという疑問はあった。
久坂は日車が過去に扱った事件の記録を辿るうちに、一つの事件に行きついた。紺屋二丁目住宅内殺人並びに死体損壊・遺棄等事件は、俗に鵲市七遺体事件と呼ばれている。日車寛見は鵲市七遺体事件で樋田ユカリの弁護を担当していた。正確には、日車寛見の当時の上司が担当していたものだが、調査や聴取には深く関わっていたようだ。当然、事件の生き残りであり証人になり得る樋田瑠海とは交流があっただろう。音無晶が日車に強い信頼を寄せている様子であったのも頷ける。
日車にとっては初めて受け持った大きな仕事であり思い入れもあったのかもしれない。日車と晶が十二年前から交流が続いていたものであるのか、或いは最近偶然にも巡り合ったものであるかまでは分からない。だが、言い方は悪いが晶は単なる犯罪遺族に過ぎない。刑事事件を扱う弁護士ならば、程度の強弱はあれど晶のような境遇の遺児には両手の指で数え切れないほど出会ったはずだ。日車が晶に寄り添う理由は何か。偶然か、或いは気まぐれか、ひょっとすると後悔や自責ではないのか。日車寛見は樋田ユカリへの判決に納得しているのか。先日の音無晶の「いいえ」を、日車はどういった心境で聞いていたのだろう。
「こんにちは、お邪魔します」
久坂が事務所のドアを開けると、執務室には日車の姿しかなかった。日車はちらと視線を上げ「どうも」と短く応じた。
「早いですね」
「すみません、待たせていただきます」
日車は無言で席を立つと久坂を追い立てるように来客スペースへのドアを開けた。不愛想な男である。弁護士とはいえ客商売の一つであろうに、こうも愛想が無くていいものであろうか。早々に自席に戻ろうとする日車に久坂は何気ない風に声をかける。
「日車さん、樋田ユカリの弁護を担当してたんですね」
それを言うと、日車はわずかに眉根を寄せて久坂の顔をじっと見た。この目付きでねめつけられるとどうにも落ち着かず、久坂は背後で組んだ手の汗ばんだ指を絡ませた。
「チームの一員だっただけです」
「ああ、そうだったんですね。晶さんは日車さんを信頼しているみたいですし、結構長く付き合いが続いているんですか」
「お答えしかねます」
そのまま閉められそうになるドアに久坂はしがみつく。ぐいと引き開けると日車は露骨に嫌そうな顔をした。
「晶さんと約束した時間まで、少しお話を聞かせてくれませんか」
「忙しいので」
「じゃあ、一つだけいいですか――日車さん、樋田ユカリへの判決についてどうお思いですか」
久坂の問いに日車はあの目で久坂を見た。
「当時の裁判記録をご覧になられては」
それだけ言うと、日車はドアを閉めた。閉めきられた来客スペースに低く空調の音が反響した。久坂は途端に時間を持て余した。面白みのない来客用ソファに浅く腰掛け天井を仰ぐ。あまりに静かであるのでついうとうとしかけた頃、執務室に通じるドアが開けられ晶が顔を覗かせた。
「お待たせしてすみません」
先日の取材以降何度かメッセージのやり取りをした晶は以前より少し打ち解けたような笑顔を見せた。いや全然、と久坂が言うと、晶は久坂の向かいに座る。以前顔を合わせたときより疲れ気味に見えたのでそれを指摘すると晶は「試験期間がやっと終わったんです」と言い、己の頬に手を当てた。
「そんなにくたびれて見えますか」
「いやいや、なんか雰囲気がね、疲れてるのかと思いまして」
晶は前髪を掻き上げ恥ずかしそうに肩をすくめる。
「どうでしたか、前回の取材は」
久坂が尋ねると晶は顔を覆っていた手をそっとテーブルの上に置いた。迷うように指先が絡められる。
「……緊張しました。自分のことを話す機会はあまりないので」
「話しにくいことも聞いてしまったと思うんですけど」
久坂が言うと晶は肩を揺らして笑った。控えめだが明るい笑い声だった。
「久坂さん、あんなにばしばし色々聞いてきて、今更そんなことおっしゃるんですか」
聞いた久坂の方が拍子抜けるほど軽く返され、久坂は返答に窮した。ええ、まあ、と曖昧な返事をする。
「ついでに聞いてもいいですか」
久坂の言葉に晶はついと眉を上げた。答えを待たずに久坂は先を続ける。
「日車弁護士との付き合いは長いんですか」
日車本人があれほど頑なに黙した問いに、晶は簡単に「そうですね」と答えた。
「祖母のことでお世話になって以来ずっとです」
「それは――」
「たまに施設に面会に来てくださったり。まあいらしても会話が弾むタイプの人ではないんですけど、ほら、私、会いに来てくれる親戚もいないし、長期休暇に一時帰宅とかも出来なかったし、誰かが来てくれるだけでも嬉しかったですよ。あと進学とか奨学金の手続きについて色々教えてくれたのも日車さんです。本当に、日車さんがいなかったら私どうなってたかなって感じです」
久坂は日車の陰鬱な表情を思い描く。意外な一面を聞き、愛想は無いが思いやりのある人間なのかと思いもした。
「優しい方なんですね、こう言っては何ですけど、ちょっと意外です」
久坂の何気ない返答に、晶は目を細めて首を傾げる。
「――久坂さん、自分の部屋に絵を飾ったときに、それが傾いていたらどうしますか?」
不意な問いに久坂は言い淀んだ。少し考えた後「直さないとな、と思いながら面倒くさくてそのままにするかも」と答えると、晶はふふと笑った。
「直す人もいるし、直さない人もいますよね。直さない人は、面倒くさいのかもしれないし、忙しすぎて傾いていることに気が付いていないのかも。傾いている状態が正しい飾り方だと思っているかもしれないし、もしかしたらその絵が気に入らないから傾かせてやれと思っているかもしれない。直す人も、絵が傾いていると絵の価値が損なわれるからとか、部屋の美観を損ねるからとか、画家への敬意とか、理由はきっと色々です」
晶の言わんとすることを測りかね、久坂は「はあ」と気の抜けた相槌を打つ。取材に来たはずであるのに、早々に主導権を奪われたような気がした。
「日車さんは傾いた絵を直す人で、その理由はそうあるべきだと信じているからです。その絵が気に入ったかどうか、価値があるか、何が描かれているかは関係ない」
久坂はまた曖昧な返事をし「つまり?」と先を促す。つまり、と晶は囁くように久坂の言葉を反復する。
「私は、日車さんの部屋の傾いた絵です」
どういう意味、と尋ねかけた久坂の口を塞ぐようにドアが叩かれる。晶が席を立ちドアを開けると、上着を片手に持った日車が晶に何事かを囁いた。晶は数度頷き、途中日車はじろりと久坂を睨む。俺の話か、と久坂は身構えたが、特に何か声をかけられることはなかった。
「はい、平気です。きちんと出来ます……日車さんこそお気をつけて」
晶は後ろ手にドアを閉め「何の話でしたか? ああ、日車さんの話?」と言うので、久坂は首を横に振った。変わり者の弁護士の話は興味深いが、今日はその話をしにきたわけではない。
「――今のお名前、晶さんというのは」
突然そう問われた晶は目を丸くする。
「まおちゃん……叔母が仕事で使っていた名前です。特に意味があるわけではないんですけど思いつかなかったので」
「仲が良かったんですね」
晶は眉尻を下げた。戸惑うようにしながら晶は言葉を選んでいた。
「歳が比較的近かったので、可愛がってもらっていたと思います。私は――私は好きでした」
久坂は樋田まおの写真を思い出す。十二年前、当時十九歳の樋田まおの写真は、堅苦しい応接セットで居心地悪そうに身を縮めるニ十歳の音無晶より大人びた印象があった。
「可愛い方ですね。晶さんにも似ている」
久坂の言葉に晶は苦笑気味に首を横に振った。
「私ですか? そうかな、叔母はなんというか……華のある人でした。叔母がよく言っていたんです。男の人の目を見てゆっくり三回まばたきすると相手は自分に惚れてしまうんだって」
それを聞いた久坂は苦笑いする。写真の中の樋田まおは――少なくとも大人の男である久坂には――臈長けた魔性の女には到底見えなかった。くっきりとした双眸を見開き角度をつけて写真に写る様子は、若く青く可愛らしい。久坂の表情を見て晶も照れ隠しのように頬を両手で押さえた。
「からかわれたのしれませんけど」
「いえ、こんな可愛い子に見つめられたら男はみんな好きになりますよ」
久坂のフォローに晶は「すみません」と肩をすくめた。久坂はバッグから手帳を出しページを開いた。
「姓の方は、おばあさんの旧姓ですよね」
「ええ、音無。他に名乗る宛てもなかったので」
「樋田ユカリ――晶さんのおばあさんの話を詳しく聞きたくてお邪魔しました」
若いライターに蠱毒と聞いて調べた久坂はそれが比較的知名度のある呪術の類であることを知った。そして思い出したのが、事件当時タブロイド紙や週刊誌で樋田ユカリが盛んに霊能者だ現代の魔女だと報道されたことであった。荒唐無稽な飛ばし記事と久坂はこれまでそれらの記事を一顧だにしたことがなかった。久坂は途上国のまじないを取材することもあるが、その手の話を信じているわけではない。だが一定の手続きが、迷信深い人間の精神に影響することは承知していた。
久坂は当時の記事を探し出し、樋田ユカリ霊能者説の由来を確かめた。樋田ユカリは若い頃スナックに勤めていて、そこで占いの出来る店員ということで人気があった。客の運勢、企業の業績、失せ物、真偽のほどは分からないが万馬券まで当てたのだという。だが樋田ユカリが最も得意としたのは人の死期を言い当てることであった。故郷の祖父、病気の母、高齢の犬――それだけでなく、隠れて進行していた病気による妻の死、突発的事故による息子の死、客の突然死まで言い当て、樋田ユカリは店にいられなくなった。予言ではなく、樋田ユカリが死を招いたとさえ謗られた。
そのことを尋ねると晶は首を横に振る。
「祖母本人には聞いたことがありません。ただ母は祖母には隠し事が出来ないと言っていて、祖母のことを恐れているようでした。勘のいい人ではあったのかもしれません」
「それで、おばあさんの生家はこのあたりにありました。行ったことはありますか?」
久坂は晶にスマホの画面を見せた。マップアプリと山に飲み込まれそうな家屋の写真を覗き込んだ晶はやはり首を横に振った。
「いいえ、聞いたこともないです」
農業と林業を生業とする山間に、山神が訪うという家があった。山神はその家の者に助言を囁く。山神が訪い囁く相手はオトナイ様と呼ばれ、転じて音無家と名乗るようになった。それが音無家のいわれである。久坂が演出過剰気味に説明すると晶は胡乱げな顔をした。久坂は熱の入った説明を尻すぼみに切り上げる。
「……占いとか興味ないタイプ?」
「いえ、そんなことないですよ、雑誌の占いコーナーとかたまに見ます」
現在、音無家のオトナイ様は音無由希子――樋田ユカリの従妹にあたる女性である。彼女の託宣を聞くために全国から悩める人間が寂れた山間の集落を訪れる。紹介でしか人を占わない音無由希子に紹介を取り付けた、と言うと晶は「はあ」と鈍い反応を見せた。
久坂は姿勢を正し、声をひそめる。
「晶さん、これは取材とか関係なく提案なんですけど、よければ一緒に行きませんか。音無由希子は晶さんのおばあさんの従妹で――遠縁だけど間違いなく晶さんの親戚です。お会いしたくはないですか」
晶の双眸がふと見開かれた。晶は何度か何か言いかけ口を開いたが、最後に吐息じみて笑うと首を横に振った。
「やめておきます。知らない人ですし……向こうだって私に来られても困るでしょう」
そう言われ、久坂は何も言えなくなる。そうですか気が変わったら声をかけてください、と答えると晶は短く礼を述べた。
荷物をまとめる久坂が「神様に何か聞いておきますか」と尋ねると、晶は切羽詰まった顔で「私の就学支援と奨学金が打ち切られないか聞いてください」と言った。
*
夢を見ていた。祖母の夢だった。久坂が祖母のことを話題にしたからに違いなかった。夢の中の祖母は冷ややかな目をして、黙って見つめてきた。何か言いたげだった。温かい言葉ではなさそうだった。
目覚めた晶は夢うつつのまま肩のあたりにまとわりつく布を引き寄せる。晶はなかば寝惚けながら呻いた。
「ちゃんとやれる、ちゃんとやれてる――」
縺れる髪を掻き上げながら伏せていたデスクから上体を起こす。ふと顔を上げると書棚から資料を取る日車が己を見下ろしていて、晶は悲鳴を上げて跳ね起きた。
「わ、うわ、日車さん、あ、私寝てました!? すみません……!」
晶の肩から滑り落ちたのは清水のひざ掛けであった。晶はそれが床に触れる前に抱え込む。
「あれ、清水さんは……」
「とっくに帰った」
晶がいまだふわふわする視界に時計を捉え、夜も更けていることを知り溜息をついた。資料を手に席に戻る日車が呆れた視線を晶に向けた。
「早く帰って家で寝ろ」
「はい……ごめんなさい……」
ひざ掛けを畳み、清水の席に戻す。晶は眦にまとわりつく眠気の残滓を指先で拭いとろうとする。自席の椅子の背に手を置き晶が日車の姿を眺めていると、日車は思い出したように顔を上げた。
「樋田まおの話、あれは初めて聞いた」
晶ははじめ何を言われたか分からず目を丸くした。
「なんですか?」
「記者に話していただろう。樋田まおの、目の話」
やっと思い当たる話題を思い出し晶は手のひらを打つ。
「ああ! あれは――え、どうしてご存知なんですか」
パーテーションごしであれば会話の内容はほとんど聞き取れないはずだ。晶はそれほど大きな声で話していたつもりはない。日車は平然とトイレの方を指差す。
「トイレに入っていたら全部聞こえてきた」
「そんな仕組みだったんですか!?」
「いや、俺も初めて気が付いた。マズいなあれは」
頭数の少ない事務所であるから気にしたことがなかった。日車は首の後ろに手をやり指先で首を圧した。晶はわざとらしく肩をすくめる。
「日車さんには言えませんよ……恥ずかしいし、日車さんってコイバナ好きじゃなさそうだし」
「……そういう話か?」
怪訝そうに首をひねる日車を、晶はじいと見つめた。日車はさきほどから晶に帰れと言うばかりで退勤をする気配がない。
「日車さんは、まだお仕事ですか」
「もう帰る」
そう言いながら資料を繰りはじめた日車に晶は眉尻を下げる。
「大変なお仕事を受けたんですか」
「なんだ、清水が愚痴ったか」
「違いますよ、私、日車さんのことは分かっちゃうんです」
晶の軽口を日車は意に介さなかった。晶は椅子にだるい体を寄りかける。
「日車さん、ちゃんと寝てくださいね」
「分かってる」
「ごはん食べて」
「食ってる」
「健康でいて」
「……はァ?」
「平穏であって」
「早く、帰って、寝ろ」
日車に睨まれ、晶は苦笑する。冗談を言ったつもりはなかった。晶は勝ち筋の薄い仕事をする日車を見ていると胸が痛くなる。そんな仕事断ればいいのに、といつも思う。守るはずの相手に罵られる日車を見たくない。平気な顔をしている日車が人知れず摩耗していることを晶は知っている。割が悪い仕事を引き受けなければないほど仕事に困っているわけではない。この手の仕事を受けるのは、日車が日車自身に取り憑かれているからだ。
「おやすみなさい、日車さん」
日車は資料に目を落としたまま「気を付けて帰れ」と応えた。