四
樋田ユカリに必要なのは懲罰ではなく治療であった。
死体遺棄の容疑で逮捕された樋田ユカリは弁が立ち、マスコミに向けて居丈高な振る舞いをし、警察を愚弄し、司法の前では不貞腐れた。誰もが彼女を性根の曲がった異常な女と謗った。担当弁護士であった日車の当時の上司でさえそうだった。だが樋田ユカリの取り留めのない訴えを根気よく聞き続けてきた日車は、彼女の精神状態が明らかに常軌を逸していることに気付かざるを得なかった。
全て権東一樹がやった、としか言わない樋田ユカリに、日車は被害者一人一人の死の状況を尋ねた。権東一樹が私の娘を背後から殴りつけた、権東一樹が孫を殺したので娘と一緒に埋めた、と怨嗟の言葉を吐き続けるユカリに、日車は樋田まおの検死の結果を伝えた。重い灰皿で頭部を滅多打ちにされたことによる脳挫傷と出血が死因であった。そして凶器と断定された灰皿からは松尾あかねの指紋が検出された。警察は松尾あかねが樋田まおを撲殺したものとして捜査を進めている。
それを伝えるとあれほど気色ばんでいた樋田ユカリの表情がすうと凪いだ。血走り落ち着きなく周囲を見渡していた双眸が、観音像のように穏やかな半眼になった。
「しかたないわよねえ、そういうものだから」
歯切れのいい言葉で捲し立てる常の姿が嘘のように、樋田ユカリはとろりとそう言った。日車はぞっとして相槌を打つのも忘れてその皺が目立ち始めた白い顔を見つめた。樋田ユカリは何とも言えない目付きで日車を見て「ねえ?」と囁いた。ざらざらとして耳にまとわりつく声だった。日車は弁護士であり、なって日も浅く、それほどそちらの方面に詳しいわけではないが、その目付きを見て「あ、病んでいる」と思った。日車はそれに何と応じたか覚えていない。気の利いたことを言えなかったことだけは確かであった。
樋田ユカリはなんらかの精神的問題で是非善悪を弁識出来ていない。日本の刑法では責任能力のない人間を刑罰に問うことはできない。日車自身がその制度を如何に捉えているかは問題ではない。そのような救済制度がある以上樋田ユカリはその俎上に載せられるべきであった。
樋田ユカリは限定責任能力で入院治療を条件とした執行猶予か減刑が適当だった。樋田ユカリが自白したのは亡くなった松尾眞由璃の死体遺棄だけであり、これは孫娘の不慮の死で錯乱した家族が遺体を庭に埋葬しようとしたということで限定責任能力と併せて十分に執行猶予を望めるはずであった。しかし法廷で「心神耗弱状態にあったことは否めないが、責任能力はあった」と弁護側の主張は一蹴された。状況証拠のみの松尾遥斗の傷害致死も含めて、樋田ユカリには執行猶予なしの懲役十二年が科された。
日車は今も折に触れそれを思い出す。己が出来ることはした。そのうえで司法の、世間の処罰感情がそれを上回った。個人的な感情では樋田ユカリに好感はない。だが日車は、弱者を保護する制度が、カメラの向こうの無責任な大衆の一時の感傷でふんわりと曖昧にされ、司法がそれに目をつぶり、病んだ女に厳罰が下され、多くの人間がそれに快哉を上げ、そして一人の少女が身寄りもなく投げ出されたことに、やるせなさを感じる。
日車は黙々とキーボードを叩いていた手を止め、酷使した目を押さえる。席を立ちデスクから少し離れた簡素な打ち合わせスペースのテーブルに置かれたカップを手に取った。つい先ほど晶が「日車さんの分、ここに置いておきますね」と言っていたような気がするそれは、すでに中身が冷え切り黒い水面には些細な糸埃さえ浮いている。カップを手にした日車を、デスクで領収書の整理をしていた晶はもの言いたげに見た。
「入れ直しましょうか」
「いや……いい、悪いな」
冷えたコーヒーに口を付ける日車に晶は呆れたように唇を尖らせる。
「コーヒーのことは気にしませんけど、私は日車さんが心配です」
「なんで」
「今日私朝からいるのに、日車さんひとっことも話さず難しい顔して全然椅子から動かないんですもん」
最後にいつお手洗い行きました? と言われ日車は眉をひそめた。
「じゃあ何か話すか」
日車は打ち合わせスペースのパイプ椅子に座り、正面の席を指で示す。晶は眉を上げ、領収書を投げ出すと安いパンプスをからから言わせ打ち合わせスペースに寄る。かしこまって向こう正面に座ると、施設の面会のようだった。晶も笑って「なんか面会みたいですね」と白いテーブルを手のひらで撫でる。
「取材はどうなってる」
そう聞くと晶は肩をすくめて「あ、やっぱりそれですよね」と苦笑いした。
個人的な意見を述べれば、日車は取材に対応することは反対であった。どれほど真摯な取材を経ようと、巷間に流布した記事がどのような受け取られ方をするかは読み手次第だ。名を変え、世間から忘れられ、事件の傷が薄れ、ようやく平穏を享受できるようになった晶が大衆の好奇心のおもちゃになることを、日車は望んではいない。だが晶の意思に割り込み行動を律する権利も日車は持ち得ない。
「すごいことになってますよ。おばあちゃんの実家って、なんか……占い師だったらしいです」
「知ってる」
間髪入れずに返した言葉に、晶は目を丸くする。
「え、ご存じだったんですか」
「……弁護する人間の身元は調査するだろ」
「あ、そうですね」
そうかぁ、と晶は前髪を掻き上げる。伸びた前髪が目元に落ちた。
当然樋田ユカリの生家が地域の拝み屋に連なることは調査済みであった。だが樋田ユカリは十七歳で家を出てから実家に戻ったことがない。手紙や電話のやりとりもほとんどなかった。弁護に関係なければ、依頼人の親戚が占い師であろうが拝み屋であろうが妖怪退治屋であろうが日車には大した問題ではない。
「それで、久坂さん、おばあちゃんが呪われていたんじゃないかなんて言うんですよ」
晶は言いながら耐えきれないように忍び笑う。くひひひ、と歯列の隙間から漏れ出る笑い声は子供っぽい。日車は思い切り胡乱な顔をした。
「大丈夫か、そいつ」
あやしげなオカルト記者には見えなかったが、売れる記事のためならなんでも書くだろう。あからさまに疑わし気な表情をする日車に晶は笑声をおさめた。
「呪いは非現実的だけど、呪われていると思い込んでしまうと人は簡単に心身のバランスを崩すって久坂さんは言うんです」
日車は鼻を鳴らす。
「そうだとしても不能犯だな」
まあそうなんですけど、と晶は肩をすくめて笑う。
「うちの家族っておかしいじゃないですか」
軽い調子で続けられた言葉に日車は言葉を失う。肯定するわけにもいかず否定することも出来ず黙り込む日車に晶はひらひらと薄い手を振る。
「日車さんは色々な裁判に携わってますし、このくらいはなんでもないのかもしれないですけど……でも、やっぱり、ちょっとヘンでしたよ、うちって」
七つの遺体が発見された家庭が「ちょっとヘン」で済むものかと日車は思うのだが、おそらく晶の言いたいことはそういうことではないのだろう。女帝のように君臨した樋田ユカリ、理由もなく前夫と離婚し実家に戻った松尾あかね、職場に近いわけでも困窮しているわけでもないのに樋田家に同居する松尾健司、母とも姉妹とも不仲であるのに実家暮らしに拘泥した樋田はすみ、十九歳にして樋田家の稼ぎ頭であった樋田まお、樋田まおの職場の常連であっただけのはずの権東一樹、二階建ての窮屈な分譲住宅に詰め込まれた大人たちの事情は、みな少しずつ奇妙だった。
「私は……おばあちゃんがヘンだったと思ってるんです。あ、おばあちゃんがやったと思っているわけではないんですけど――というより、私は、誰がやったとかもうあまり興味がなくて……」
ふつ、と言葉が途切れる。日車はわずかに曇る晶の表情を見つめた。晶の困惑気な視線が、何もない白い天板に注がれた。
「――ただ、あれはなんだったんだろうと思うんです」
「呪いだとでも言われたらどうするんだ」
「……分かりません。でも一応そういうものだと納得はするのかも」
晶は顔を上げる。先ほどまで伏せられていた目は日車を安心させるように細められている。
「いつかは知りたいと思っていました。でも私は今勉強とバイトで忙しくてそれどころではないので、久坂さんがプロの技で色々調べてくださることにちょっと期待してるんです。すごいんですよ、久坂さん、おばあちゃんの実家まで取材に行くみたいです」
それに色々調べてもらった後でやっぱり記事にするのはやめてもらうのもありですもんね、と晶は笑みを深くする。日車は何を聞いてもぼんやりと「わからない」を繰り返すばかりの少女であった晶の望外のしたたかさを垣間見、驚き呆れもしたが安堵もした。
「……弁護士の素質があるな」
苦し紛れにそうだけ言うと、晶は「それって……あんまり褒めてないですね」と肩を落とした。
*
自然が豊かといえば聞こえはいいが、山間のわずかな平地に貼り付くように鎮座する家屋は今にも藪に飲み込まれていきそうだった。久坂はお屋敷と呼んで遜色のない家が、母屋のまだ人が住んでいるであろう部分を残して朽ちているのを呆然と眺めた。紹介でしか鑑定を受けられない占い師、山神の言葉を聞き政治家さえ託宣を受けにくるという評判と裏腹に、住まいは質素に過ぎた。それは荒廃しているというよりも、時間と自然の運行とともに朽ちるに任せているという印象を受ける。
母屋のおそらく通常使われているであろう玄関扉の前に立ち呼び鈴を鳴らす。実家を思わせる呼び出し音が鳴り響き、やがて細い応えが返ってきた。からら、と音を立てて引き戸が開けられる。そこに立っていたのは着物姿の女性で、老婦人と呼ぶにふさわしい品のある出で立ちをしていた。
年の頃は六十半ばほどであろうか。髪に白いものは混じるが、精彩のある双眸は若々しい。女は久坂を見るなりにこりと笑った。
「遠いところをわざわざ。あんまりボロ屋でびっくりなさったでしょう?」
呆気にとられる久坂を後目に女は音無由希子ですと名乗った。久坂も慌てて挨拶を返す。由希子は微笑みながら玄関口から身を乗り出し、生垣の向こうの縁側を指し示す。
「今日は天気がいいから、縁側でお話ししましょう」
まるで親戚の家に遊びに来たかのようなもてなされ方に、久坂は戸惑いながら言われるがまま縁側の方に回り込む。一度家屋の中に引っ込んでいった由希子は茶と茶請けを手に縁側に出てきた。由希子は縁側に座り、久坂に茶を勧めた。
「――もっと厳めしいかと思っていたのに、なんだか気さくで驚きました」
久坂が素直に言うと、由希子はころころと笑う。顔立ちは柔和で樋田家の誰ともあまり似ていない。だが笑ったときの頬の上がり方がどことなく晶に似ている気がした。久坂が何かを聞く前に、由希子は久坂の手を取る。久坂が得ていた前情報によれば、オトナイ様は相談事をせずとも必要な助言を授けてくれるのだと言う。
だが由希子は久坂の手を握りしばらくたっても何も言わなかった。由希子は空いた片手で何度か耳元に触れる仕草をする。久坂はしばらく身動きもできずにいた。耳元で羽虫の飛ぶような音が聞こえた気がして首を振ると、ほとんど同時に由希子も首を横に振った。
「何も聞こえない」
「――というのは」
久坂の問いに由希子は不安そうな顔をする。
「あなた、久坂さん、気を付けてね。よくないことに巻き込まれているのかも」
「……それだけ?」
思わずそうこぼす。冗談ではない。これでは浅草寺のみくじのほうが幾分かマシである。由希子は申し訳なさそうな顔をするが、久坂とてこのままおめおめと帰るわけにはいかない。
「音無さんはこのあたりでオトナイさんとして集落の相談役をされていると伺っています」
「昔はね。でももう……そういう時代じゃないでしょう?」
由希子は鼻で笑うようにそう言った。
「山神様の声が聞こえるんですよね。よければお聞きしたいんですが、それはどういう風に聞こえるんですか」
不躾な質問であっただろうか。由希子は口籠ったが、何も託宣が出来なかった罪滅ぼしなのかぽつぽつと語り出した。
「耳元で囁く声が聞こえるの」
「山神様はどのようなお姿なんですか」
「さあ、背中の方から囁いてくるから、姿は見たことがないわ」
「それはどういうことを囁いてくれるんですか」
「なんでも。なんでも教えてくれる。でもね、私たちの仕事は――何を話すかより、何を話さないかのほうが大切で、難しいのよ」
由希子の言葉に久坂は樋田ユカリのことを思い出していた。死を言い当て迫害を受けた彼女のことを、由希子は知っているのだろうか。久坂は慎重に探りを入れる。
「ここにはお一人でお住まいなんですか」
「ええ、娘夫婦は町場に住んでいるの。ここじゃどうにも不便でしょう? でもよく孫を連れて遊びに来てくれるから、寂しくはないの」
「他に御親戚はいらっしゃらないんですか? オトナイ様は世襲なんでしょう? 他に山神様の声を聞く方はいないんですか?」
問いかけに由希子の表情が一瞬強張ったのを久坂は見逃さなかった。由希子は樋田ユカリのことを思い出しただろうか。その緊張は身内に犯罪者がいることへの反応か、それともそれ以上の意味があるのか、久坂には掴みかねた。
由希子は品のいいうりざね顔に鷹揚とした笑みを浮かべて「いないの、オトナイ様は私でオシマイ」と言った。優し気な口調に似合わぬ有無を言わさぬ迫力があった。
そそくさと帰路につこうとする久坂に由希子は「本当にお気をつけて、こんなことは初めてだわ」と声をかける。久坂はそれを聞いて俄然面白くなったと思った。
由希子によってそこだけ綺麗に整えられた玄関戸が閉められるのを見て久坂は「あ」と思う。久坂はすでに紹介人にも音無由希子にも相応の謝礼を支払っていた。こんなお粗末な対応をしておいて、あの女返金のへの字も口にしなかった。善良そうな顔をしてなんて婆だと久坂は思った。今すぐにあの扉に取り付いて返金を求めようかとさえ考えた。何しろ安くない金額であったのだ。
久坂はしばらく玄関の前で逡巡したが、馬鹿々々しくなって踵を返す。音無由希子に支払った分の鑑定料以上の情報をこの地で得るまでは帰れないと思った。
*
晶が夜中に自転車を漕いでいたのは、翌日の一限目に提出するレポートの印刷を忘れていたからであった。すでに床に就こうとしていた晶は明日の朝少し早起きをしてコンビニの印刷機で出力しようかと考えたのだが、大学に近いコンビニは同じようなことを考えている学生で朝は混むことを思い出し渋々ながら寝間着から着替えた。
近所のコンビニで用を済ませようかと思ったが、学生寮からほど近いコンビニは寮暮らしの下級生や講堂で何度か顔を合わせたことがある同級生が夜勤をしているので避けたかった。結局晶はバイト先に近いコンビニまで足を伸ばす羽目になった。せっかく着替えたのだから夜の散歩と洒落こもうという気分でもあったし、日車がまだ職場に残っていたらどうしようと確認したいのでもあった。
まさかね、という気分で事務所の前を通ってみれば見事に照明がついているのが見てとれる。晶は自転車に跨ったままどうしようかなとブラインドの隙間から漏れる光を眺めていたのであるが、とりあえず声だけかけてみようかと自転車を通用口の脇に置いた。
仕事の邪魔をしないように晶は重いガラス戸をそっと押し開ける。書棚の影から執務室を覗くと、日車がデスクに向かって項垂れている。晶は「日車さん?」と小さく名を呼ぶが寝入ってしまっているようで反応がなかった。そろそろと椅子の傍らに立ち、俯く背中をしばらく眺める。呼吸のたびに動いているようにも見えたし、ぴくりとも動かないようにも見えた。晶はぞっとし、手の甲を日車の鼻先に翳した。ぬるい寝息が手の甲を撫でるので、ひとまずほっとする。
「生きてるぞ」
手の甲に向かって急にそう言われ、晶は悲鳴を上げて飛び上がった。勢いよく後ずさる晶に日車は呆れた顔をする。晶は手の甲を庇うようにさすりながら「寝ているだけでよかったです……」と呻いた。
「いや、目を閉じていただけだ」
「……そうですか」
それ以上言い募る気力もなく、晶はゆるゆると息を吐く。窓辺に寄りかかりブラインドを閉めながら、晶は「お仕事ですか」と日車の方に視線を向けた。日車は「まあ」とだけ言葉を濁し、それ以上何も言わない。晶は部屋着に毛の生えたようなジャージの袖を指先でいじる。
「日車さん……お忙しいのは分かりますけど、機械じゃないんですから休まないと死んじゃいますよ」
印刷機とて定期のクリーニングを入れなければ不調を訴える。晶は自分の椅子を持ち出し、日車の傍らに置く。そこに座ると晶の急な行動に日車は怪訝な顔をした。
「日車さん、私、日車さんのことは尊敬しています」
「知らなかったな」
茶化さないでください、と晶は眉尻を下げる。
「それは私が日車さんに救われたからで……ああ、違う、救われたのは本当ですけど、それは尊敬してる一番の理由じゃなくって……ええと、私、」
日車は欠伸混じりに溜息をついた。
「晶が救われたのは日本にそういう制度があるからで、それを活用して学生をしているのは晶自身の努力だ。俺は関係ない」
「ああ、待って日車さん、何も言わないでください、言いたいことが分からなくなっちゃう……」
日車は晶が謝意を示すたびにそれを言う。だがその救済制度に困窮した人間が容易に辿り着けないことを晶は身を以て知っている。日車の手助けなしでは、晶は高校さえ卒業できたか分からない。
日車の主張は正しく、破綻なく、冷たく、優しい。日車の態度は晶を過不足なく透明にしてくれる。国家による救済制度は国民に遍く提供されるべきで、それは救済される人間の善悪も人柄の如何も憐憫も慈善も温かさも絆も跳ねのける。厳然としたシステムは冷ややかで、晶は日車の言い分の前では健気な生き残りでも手を差し伸べるべき哀れな少女でもないただの人間でいられる。
「慈善じゃない、仕組みだ」
日車は淡々とそう言った。それはおそらく晶に向けられた言葉でもあり、今卓上にある仕事に向けられた言葉でもある。晶は日車が冷徹に己を透明にしてくれるのを心地よく思う。だが、惨めで哀れで他愛なく愛しくどうにも見ていられずに助けたのだと言われたいような気もした。
「日車さんは信念があって、それを貫く意思も実力もあって、それってすごいことだと私は思います」
「……晶」
「他の誰が日車さんを逆恨みしても、私は日車さんに感謝してますから」
「晶」
強めに名を呼ばれ、晶は言葉を飲み込む。日車は額を手で撫で上げた。眠たげな目が居心地悪そうに背けられる。
「もういい、十分だ」
低くそう言う日車に晶は目を丸くし、次いで口元に笑みを覗かせた。
「日車さん、照れてます?」
「……褒められるのは慣れてない」
恨まれるのは慣れているが、と日車は付け足す。
晶の陳腐な慰めなど物の役にも立たないことを晶は承知している。日車が厄介な仕事に手を出すのは、感謝や賞賛を求めているからでも、誰かに慈善を施したいからでもない。己の信ずる正義の在りようが紛れもなく遅滞もなく運行しているか確認せずにいられないからだ。そして大抵の場合、それは手酷く裏切られる。晶の祖母の件がそうであったように。
晶は日車の疲労の滲む横顔を盗み見る。日車はいつも正しいが、その正しさは何者の顔色も窺わない。日車の正しさへの執着は信念や理想を飛び越えて狂気を帯びる。世の中は全く正しくなくて、いつでも理不尽だ。そんなことは八歳の晶でさえ知っていた。だから晶は日車が好きだった。晶は日車が己を貫くところが見たいとも思ったし、壊れてしまうところが見たいとも思った。
「日車さん、あんまり根詰めちゃだめですよ。日車さんが心に引っ掛けてる事件なんて私のだけでいいんです」
晶の言葉に日車は手近にあった書類で晶の額をぺんと叩く。晶は首をすくめてそれを甘んじて受けた。晶の囁きを日車は冗談だと思っているだろうか。晶が日車の仕事が成功するよう祈るのは、日車の怒りも、後悔も、自責も、苦悩も、無力感も、全て晶のものであってほしいからだ。晶はそれを隠しているつもりはない。理解されようと思っていないだけだ。
「日車さん、私もう帰らないと。明日一限なんです」
晶は弾みをつけて椅子から立ち上がる。日車はやっと時計に目をやり「おまえなんでこんな時間に事務所にいるんだ」と眉根を寄せる。晶は指先を背中の方で絡めながら「日車さんが事務所で寝過ごしてる気配がしたので」と笑った。