日車が分の悪い国選弁護人を引き受けると晶は決まって気を鬱ぐ。日車が晶の耳にそれらを入れないようにしても晶は日車を案じるので、晶の勘がいいか日車が分かりやすく没頭しているか、あるいはそのどちらものいずれかだ。
 晶が突然、眉をひそめて「日車さんがもっと心ない人ならよかったんです」と言ったのも、おそらくは日車が直近に控えた仕事に入れ込んでいることに対しての言葉であった。なので日車は常と変わらぬ調子で「別に情緒豊かな方じゃない」と答えた。日車の返答に晶は一瞬眦のあたりに険めいたものを浮かべる。まばたきを一度する頃には融けて消える程度の表情だった。
 晶は先ほどの表情が蜃気楼であったかのように淡く微笑む。
「泣ける映画観て泣いてる日車さんはちょっと見たいかも」
「俺はバックトゥザフューチャーを観るたびに泣く」
「……あれってそんなに泣けるシーンありました?」
 怪訝な顔をする晶は、この世に面白いことなど何もないかのような日車の表情を見て肩をすくめた。
 ブラインドを上げた窓の向こうは湿っぽく曇っている。雨が降りそうで降らない中途半端な気配が細く開けた窓から事務所の中にひんやりと流れ込んできていた。晶は日車の背後の窓を閉めた。かちん、とクレセント鍵をかける音がする。
「だってそうしたら、弁護した人に逆恨みされても気にしないでいられそうじゃないですか」
 晶は軽やかな足取りで自席に戻る。日車はその背中を見て「気にしてない」と低く唸る。
「そうだったんですか」
「仕事だから気にしてもしかたがない」
 そうですか、と晶は言ったきりそれ以上何も言わなかった。妙に静かな窓の向こうから乗用車が走り抜けていく音がする。
「――私は結構心ない人間なんですけど」
 晶が言うので日車は資料から顔を上げる。晶は日車の顔を見て、少し首をかしげて笑った。
「もっと心なければよかったと思うことがあります。試験前にノートをコピーさせてくれって頼まれたときとか」
「……コピーくらいいいだろう」
 それは心ないというよりも心が狭いのではないか。晶は唇を尖らせ日車を横目に睨む。
「させてあげますよ。本当は嫌ですけど、レクも飲みも来ないのにノートも見せてくれない付き合い悪いガリ勉って思われるのも嫌なんで。もっと私が心なかったら留年しろばーかって言えるでしょう」
「言いたいなら言えばいい」
「言えるなら言ってます」
 申請している奨学金の規定で一定以上の成績を要求されている晶はどの講義も非常に熱心に受講している。それでいて単位さえ取れればいいという学生が試験前だけノートを借りに来ればいい気分にはならないだろう。だが同期とほとんど遊ぶ時間を持てない晶がせめてこういう形で関係性を保っておきたいという気持ちも理解できる。
「あとは、年末に帰省するのだるいって言う友達に、分かるって答えちゃったときとか」
 軽い調子で続けられた言葉に日車は天井を仰ぐ。過去や境遇に関する自虐的な諧謔を口にするのは晶の悪い癖であった。軽やかに舌の上に乗せられる言葉は大抵は悪趣味がすぎる。事情を深く知っていればこそ笑えぬ軽口に、日車が一度「俺にどう答えろっていうんだ」とぼやいたことがある。晶は一言「笑ってほしいです」と答えた。
 晶はそれを笑い話として昇華したがっているのだろうか。だが日車には晶の冗句は自傷に見えた。晶が日車の心に爪を突き立てこちらの反応をうかがっているようにさえ感じられるのは、日車が晶に負い目を感じているためであるのかもしれない。
「実家がないことを気にしているわけではないはずなのに、咄嗟にそう答えちゃったんですよね」
「積極的に話すようなことでもないだろう」
「でも嘘をつく必要はなかったんじゃないかって。適当に相槌を打っておけばよかったのに。事実を認めることも、隠し通す覚悟も、どっちも出来ないままです」
 晶は苦く笑って事務作業に戻る。日車はいまだどこか幼さの残る晶の横顔を眺めた。
 初めて会ったときの晶は八歳で、年齢の割に行儀のいい少女だった。樋田ユカリは孫娘の躾に熱心であったと知ったのは後のことで、それを知ったとき日車は樋田ユカリの素行を思い出し意外に感じさえした。
 子供に好かれる性質とは言い難い日車の聴取に、晶は素直に応じた。淡々と、ふわふわと、わからない、そういうものだから、おばあちゃんがそう言ったの、と繰り返す晶は樋田ユカリに比べれば遥かに聴取しやすい相手ではあったが要領も得なかった。日車は幼い晶に「樋田ユカリがやったのか」と聞いたことがある。付き添っていた児童福祉士が泡を食うのを後目に晶は黙って首を横に振った。続けて「樋田ユカリはやっていないのか」と尋ねると、晶はやはり首を横に振った。日車は即座に児童福祉士に部屋を叩き出され、その日はそれ以上晶と話すことが出来なかった。
 晶は樋田ユカリの拘留中、一度も日車に樋田ユカリのことを尋ねなかった。樋田ユカリはどうなるのか尋ねるようなことも、樋田ユカリを助けてほしいと泣きつくようなことも、ただの一度もなかった。施設の職員に聞くなと言い付けられていたのかもしれない。或いは事態がよく飲み込めていなかったのかもしれない。日車と晶の関係性は、ドラマのように感動的でも親密でもなかった。日車は樋田ユカリの弁護に有利な証言を晶から得ようとし、晶はその期待に応えたとは言い難かった。
 樋田ユカリの有期懲役が確定した日に、日車は晶にそれを伝えに児童養護施設に赴いた。直接行く必要はないだろうと呆れる上司や同期の声は聞こえないふりをした。日車がその選択をしたのは、やはり贖罪であったのかもしれない。或いは圧し潰されそうな無力感から解放されたかったのだろうか。日車からそれを聞いた晶は「おばあちゃん、刑務所に行ったんですね。悪いことをしたから、しかたないんですね」と言った。日車はそれにどう答えるべきか分からなかった。
 帰り際、晶は伏せがちであった顔をふっと上げて「また会いにいらしてください」と言った。日車が咄嗟にそれを肯んじてしまったのは、その目が懲役十二年を告げられた樋田ユカリに似ていたからだ。怒りと諦念と絶望を湛えた樋田ユカリの双眸は被告人席から日車を捉え、嘲笑めいて細められた。はじめて真正面から見た晶の目の形は樋田ユカリと血縁を感じさせた。そして日車は不本意とはいえ一度交わしてしまった約束を、子供相手の方便と割り切ることが出来るほど器用な男ではなかった。
 音無晶は常に日車の理念を肯定する。惨敗と称して差し支えない樋田ユカリの敗訴の件で日車を責めたことがない。樋田ユカリを救おうとしてくれたのは日車だけだと慕いさえしている。だが日車は晶の仰望を受け入れることが出来ない。それを受け入れれば、日車は他の敗訴で受けた恨みや怒りをも受け入れなければならないからだ。日車は向けられる感情を都合よく選り好みが出来る性質ではなかった。日車はそれらを必要な仕事だからこなす。規定の報酬を受けている。それ以上を望まないかわりに、それ以外を拒んでいる。そう己に言い聞かせながら細々と晶の面倒を見、好意を引き出しているのは欺瞞であった。責任を問われない曖昧な繋がりで、晶の寄る辺なさにつけこんでいる。
「そういうことを感じてしまう心を、都合よく塗り潰せたらいいと思いませんか。私も、日車さんも」
 明るい口調で晶は囁く。それが出来ればどんなにか楽になるだろうと日車は思いながら、溜息をついて首を横に振る。
「バランスが悪い」
「それはそうですけど、でも日車さんはもう少し自分に甘くてもいいと思います」
 晶はもどかしげに椅子の上で脚をぶらつかせる。お疲れでないですか? と詰め寄られそうな気配を感じ、日車は早々に仕事に戻る素振りを見せた。そうすれば晶は何か言いたげな雰囲気を漂わせながらも、日車の仕事を邪魔するようなことはない。

 それまで学校に行ったり行かなかったりを繰り返していた晶が突然日車に「日車さん、どうやって弁護士になったんですか」と聞いてきたのは、いつの頃であったか。ストレスで体調を崩すほど勉強に打ち込み始めた晶について養護施設の職員が日車に相談の電話をかけてきて、日車はそれに「なんで俺に」と思った。己の背を見て弁護士を志す少女にどういう感情を抱くべきか、日車は正解を見出せないでいる。日車は、弁護士として最も重要なことを晶にしてやれなかった。これが果たして誇れる仕事か、ただでさえ茨の道を行く晶に相応しい仕事か、日車には分からない。
 日車の記憶が確かであれば、晶が弁護士になる方法を聞いてきたのは、日車が危険運転致傷の弁護を引き受け被告人に嘘つきと罵られた頃だ。その符合の痛みと苦さを日車は抱え続けている。


 *


 小学校から帰ると母が奥の仏間に寝かされていて冷たくなっていたというのは少し嘘だった。本当は、まだ少しあたたかかった。
 客用の花柄の布団に寝かされた樋田はすみの枕元で樋田まおが泣いていた。小作りな顔を真っ赤に腫らし引き攣らせ、半狂乱と言ってもよかった。口角泡を飛ばし、目を血走らせながら傍らの男の胸を殴り、頬を引っ掻く樋田まおを晶は呆然と眺めていた。優しい樋田まおがこれほど取り乱したのを少なくとも晶は見たことがなかった。晶は襖の隙間からその光景を眺めながら、大変なことが起こったと震えていた。晶にとっては樋田はすみが半目を開け転がされていることよりも、樋田まおが泣いていることの方が嫌だった。
「こんな、こんなこと――こんなのひどい! ここまでするなんて……!」
 樋田まおがしゃくりあげながら湿った声で喚く。男――権東一樹はおろおろと眉を下げていた。晶はそっと仏間に滑り込み、花柄の布団に触れた。しっとりとしてぬるく、だが樋田はすみの半開きの目や血泡がこぼれる口元から生気が目に見えるように流れ出していくのが分かった。急速に萎れ色の抜けていく人であったものは、恐怖や哀惜よりも不気味を誘う。
「瑠海!」
 ささくれた悲鳴を上げて樋田まおが晶を抱きすくめ布団から引き剥がした。ほっそりとした白い腕が震えていた。樋田まおは晶を抱え、権東一樹からも遠ざける。晶は乱暴に引き寄せられながら仏間に所在なさげに立つ権東一樹を見ていた。
「どうしよう、瑠海、お姉ちゃんが――」
 首筋に熱い息と涙が落ちてくる。どうしようと言われても、と晶は眼前の惨状を眺めていた。互いに目も合わせないような家族の中で、樋田まおは晶に優しくしてくれた。大好きな樋田まおのために晶は何かしてやりたかったが、できることなど何もなかった。
 樋田まおに抱きかかえられながら、晶は祖母に叱られるのだろうと身を強張らせていた。樋田まおは樋田ユカリのお気に入りではあったが、それでも嫌というほど叱られるはずだった。怒鳴られ、喚かれ、平手で打ち据えられる。晶はもっとひどく叱られるだろうと怯えた。晶は最近樋田ユカリの自身への当たりが冷たくなっていることを感じていた。食事のおかずが減らされ、たまに膳につくゼリーやプリンもなくなった。それを言うと樋田ユカリは「もう大人なんだからいらないでしょ」と取り付く島もなかった。樋田ユカリは樋田はすみを冷ややかに睨んでは「役立たずが役立たずを産んで」と繰り返していた。何のことを言っているかがはっきりと分からずとも、役立たずというのが己のことを言っているのを晶は分かっていて、己は役立たずであるから樋田まおのこともどうにもしてやれないのだと悲しくなる。
 首元ですすり泣く樋田まおに晶は頬を寄せる。
「ごめんね、まおちゃん」
 小さく囁くと樋田まおはいっそう声を大きくして泣いた。いやだった。樋田まおが泣いているのは見たくなかった。どうにかしてやりたかった。力なく立ち尽くしていた権東一樹が樋田まおを縋るように見つめる。
「なんとかしてくれって言ったじゃないか」
 
 デスクの上に置いていたマグカップが倒れ、ごとんと重い音がした。飲みかけのお茶が膝の上に零れる。あつ、と小さく呻くだけの晶と裏腹に清水が慌てふためいて席を立った。
「晶ちゃん大丈夫!?」
 遠慮する晶の手を押しのけ、清水はきちんと畳まれたハンカチで晶の衣服に染み込む水分を拭う。
「やけどしてない? 冷やす?」
「大丈夫です、もうだいぶ温くなってましたから。ごめんなさい、ありがとうございます」
 濡れそぼったテーパードパンツは濃い色に変わっていたが、この程度であれば乾けば目立たなくなる。むしろ清水の白っぽいハンカチの方が茶の水色で染みになってしまっていた。
「すみません、ぼうっとしていて……」
 デスクで飲んでいなくてよかった、と晶は苦笑する。横着せずに執務室の隅の喫茶スペースでお茶を飲んでいてよかった。晶は白いテーブルの上にカップを起こし、机を拭くものを取りに給湯室に向かう。布巾か、キッチンペーパーか、と戸棚を物色していると手元が暗くなる。背後に日車が立っていたので、晶は屈んだまま日車を見上げる。
「あ、すみません、使いますか? 今どきます」
 晶が立ち上がり給湯室の隅に避けると、日車は会釈して電気ポットの前に立つ。ドリップコーヒーの個包装を裂きカップに掛ける手つきを晶はぼんやりと眺めていて、日車はフィルターの中に湯を注いだ。フィルターのふちまで粉が盛り上がる。湯を足し入れる前に日車は晶の方を横目に見て、自身の袖口のあたりを指で示す。
「濡れてる」
 言われ、晶ははっとしてブラウスの袖を見た。白いブラウスが薄茶に濡れていて溜息をつく。
「ああ、うわ、……ありがとうございます」
 ん、と日車は曖昧な返事をし、フィルターに湯を足す。ことことこと、とポットのモーター音が妙に耳に障った。日車さん、と名を呼ぶと、日車はフィルターを摘まみ上げ滴るコーヒーを注意深くカップの中に落としながら「なんだ」と応えた。
「たまに自分がちゃんとやれているか不安になるんですけど――」
「ちゃんと?」
「人並みに」
 日車は眉を寄せ何事か考えながらごみ箱にフィルターを捨てる。
「資料を汚しさえしなければ俺が言うべきことはない」
 その言葉を聞いて晶は細く息を吐く。日車はカップを手に取ったまま立ち尽くす。何か言うことがあるのかと晶はしばらくそのまま日車の顔を見上げていたのであるが、どうやら晶が邪魔で給湯室を出られないでいるのだと気が付き慌てて場所を譲った。狭い給湯室ですれ違うと、濃いコーヒーの香りが鼻先に纏わりついた。


 *


 狭い喫煙所には絶えず換気扇の音が響いている。それにも関わらず空間全体が常にうっすらと白濁しているのは煙草の煙と喫煙者の亡霊が住みついているからかもしれない。煙草を片手にデジカメの画像を遡る久坂を横目に、喫煙仲間の若い男が「今度はどこ行ってきたんですか」と煙を吐く。久坂が音無家の所在地を答えると、男はスマホでその場所を調べ「マジっすか、こんなとこまで」と呆れた声を上げた。
「それで、いい取材出来ました?」
「いや、託宣の婆さんに鑑定料だけ巻き上げられた挙句何も見えないと追い返された」
「ああ、ご愁傷様です」
 男は笑い声を漏らし、煙に噎せて数度咳をする。
「どういう形で記事にするんですか?」
 久坂は唸りながら画像フォルダを遡っていく。取材の最中にさりげなく撮影した音無晶の姿を見つけた。異国の猫を彷彿とさせる印象的な双眸が真っ直ぐにレンズを見ている。ばれないように撮影したはずなのだが、と久坂は思った。
 はじめ久坂は事件を他の猟奇事件と合わせて連載記事として週刊誌に持ち込む予定であった。だが数回の取材を経て、この件については動画配信サイトで数回の特集を組んで番組を作ってもいいと考えはじめていた。晶は受け答えが明晰で、淡々と語られる事件の情景は怖気を誘う。あの独特の語り口は久坂が無理に書き起こすよりも、晶自身に機材の前で語らせたほうが魅力的だ。加えて最近は文章による記事よりも動画配信の方が訴求力がある。
 幸いにも晶は久坂の取材に協力的であったので、事情を説明すれば一定の譲歩は得られるかもしれない。難関はあの寡黙で陰気な弁護士であった。どうにかして弁護士を通さずに晶にこの話が出来ないかと思案を始める久坂に、男は苦笑いをした。
「久坂さん、すっかり取材に取り憑かれてますね」
「やめろよ、託宣か?」
 煙草を口元に運ぶ男が何かを言った気がして、久坂は「なんだ」と言う。男はきょとんとした顔で久坂の顔を見た。
「なんですか?」
「今何か言ったろ?」
 男は怪訝な顔をするばかりであった。換気扇の音を聞き違えたのかもしれない。久坂が「悪い、なんでもない」と言うと、男は「疲れてるんじゃないですか」と煙草の火を消した。そうかもしれない、と久坂は溜息をついた。