盛岡市住宅内母子強盗殺人事件で大江圭太の無罪判決が下された翌日、事務所には日車しかいなかった。清水は休暇をとっており、晶は講義がありバイトは夕方からの予定である。日車は二審に向けて資料を整理していた手をふと止めた。晶に今日は来なくてもいいと伝えたほうがいいかと考える。電話の対応は晶に任せた仕事の一つであったが、今日は朝からいやがらせの電話が絶えなかった。大江圭太の件であった。
 幼い子とその母が無惨にも殺された。マスコミは大江圭太が犯人と断定し、母子がいかに希望に満ち溢れた存在であったか報道を繰り返していた。心優しい誰かが怒りに燃え悲嘆にくれ司法の未来を憂うための材料が揃っている。
 晶に中傷や罵倒の電話対応をさせるつもりはない。義憤に燃える何者かが事務所にいやがらせをしに来ないとも限らない。急ぐ業務もないので休ませたほうがいい。日車がスマホに手を伸ばすのと同時に表のガラス戸が開く音がする。まさか本当に誰かが嫌がらせをしに来たわけではあるまいと席を立ちかけた日車は、普段と変わらぬ様子で現れた晶の姿を見て眉をひそめた。晶は物憂げな顔で「おつかれさまです」と囁くと、自席に鞄を下ろす。
「今日は夕方からだろう」
「……体調が悪くて講義を休んでしまいました」
「なら寮で寝てろ」
 日車の言葉を電話の呼び出し音が遮る。日車が止める前に晶はいつもどおり受話器を取った。
「――はい、シリウス進学研究会です。え? 番号をお間違いではないでしょうか。……はい、はい、失礼します」
 言い終えた晶は受話器をそっと置くと黙って電話線を抜いた。おい、と咎めるよりも呆気にとられ声を上げる日車に、晶は「大事なお電話はスマホにかかってくるんですし」と口の端に笑みめいたものを浮かべる。晶の機嫌が優れないこともその原因も明らかで、だが日車には晶を上手くなだめる方法が思いつかない。日車は己の仕事に戻ることにし、晶も淡々と己に割り振られた業務につく。
「無罪、おめでとうございます」
 晶は俯いたまま硬い声で言う。日車は資料を繰りかけていた手を止めた。ありがとうと答えるのもおかしい気がした。
「――ただの仕事だ」
 日車の言葉に晶の横顔はいっそう険しくなる。
「すみません、嘘をつきました。あまり……心から喜べてはいないです」
「気にするな、態度は正直だった」
 強張った表情で膝の上で指を組んでいた晶にそう投げかけると、晶はやっと顔を上げ悔しそうに日車を睨んだ。何か言いかけた唇が閉じられ強く噛みしめられる。晶は血の気を失った唇の隙間から再び「すみません」と呻いた。
 日車さん、と小さく名を呼ばれ、日車は視線で先を促す。晶は黒い双眸を日車についと向けた。
「私は、日車さんが正しいと思っています」
 自分自身に言い聞かせるような口調でそう言う晶を日車は眺める。
「そうか、裁判官と同じ意見だな」
「……光栄です」
 晶は言いながら表情を緩めた。弱々しい苦笑を浮かべ、晶は肩をすくめる。
「日車さんは……正しいですよ」
「今回は主張が認められた」
「日車さんはいつも正しい」
「それは……贔屓が過ぎる」
 日車の苦言に晶は小さく声を上げて笑う。細くなった目尻には歳相応に愛嬌があった。
「日車さんは祖母を仕組みの上に上げてくれた。結果のことは――日車さんのせいじゃないです。日車さんはきちんとやるべきことをやってくださったから」
 そうだろうか、と日車は思う。重大事件で心神耗弱を訴える心証と分の悪さが、今の日車には分かる。樋田ユカリに障害致死の直接的証拠がないことを主軸に争えば、もう少しまともな結果を得られた可能性もあった。日車はそれを言おうとし、やめた。晶を徒に動揺させたくないというのは建前で、己自身が晶の憧憬を失いたくないだけなのかもしれない。どちらにせよ一度確定した判決をいくら反芻してもどうしようもなかった。
 電話の呼び出し音が鳴らなくなった事務所の中は異様に静まり返って感じられた。時折、晶が簿冊をめくる音やペンを置く音ばかりが響く。日車は仕事をしながら晶に何か声をかけるべきかと考えていた。なだめるべき気もしたし、大丈夫だからと言うべき気もした。何か気の利いたことを言って安心させてやるべきだとは思う。だが晶が黙々と事務作業をし、忙しなく立ち働き書棚の整理や給湯室の掃除をするので、日車は晶に声をかけるタイミングを逸した。
 もう退勤の時間になろうという頃にデスクに戻ってきた晶にやっと声をかけようとする。だが日車が何か言うより先に晶が顔を上げ日車の顔を見た。
「日車さんって――」
 そう言われ、喉のすぐそこまで上っていた言葉は飲み込まれる。きまり悪く「なんだ」と答えると、晶は眉根を寄せて言葉を選んでいた。晶の座る事務用椅子の背もたれがきしきしと鳴る。
「もっとズルかったらよかったのに」
 晶は口元にペンを当てながらそう言った。
 晶はよくその手のことを口にする。日車は晶に言われずともその程度のことは上司や同僚からいくらでも指摘されてきた。些細な齟齬を気にせずにいられない日車の性質は法曹家向きであり、同時に致命的に不適でもあった。
「善良なわけじゃない。指摘せずにいられないだけだ」
「大抵の普通の人はちょっとだけズルくて、上手に見て見ぬふりをするんです。そのほうが楽だし、物事が上手く運ぶから。ほんの少しだけ噛み合わない部分があっても全体が円滑に動けばいいから。だから日車さんは、普通よりは――面倒くさい人かも」
「そうかもな」
 その言い分には分があると思った。なのであっさりと肯定すれば、晶は面白そうに忍び笑う。デスクの上のものを片付けながら、晶は手にしていたペンを横向きに宙に翳して日車に向ける。
「日車さんも、少しだけ見て見ぬふりができるようになりませんか」
 それが晶が日車の目元をペンで隠して見ているのだと気が付き、日車はなんとなくいい気分がせず顔を背ける。
「無理だな」
「できますよ」
 輪郭のはっきりとした声音だった。怪訝な顔をする日車に晶はもう一度「できますよ」と囁く。
「私なんか家で七人死んでいても、見えないふりをしてたんです。目を開けながら眠る方法、教えてあげましょうか」
 晶は宙に翳していたペンを自身の目元にやる。横向きに摘まみ上げられたペンが晶の目元を隠す。唇だけがゆるやかに弧を描いていた。日車はそれを、鼻を鳴らして一蹴した。
「遠慮する」
 そうですか、と晶は唇を尖らせて見せ、ペンを鞄に放り込む。それからにこにこ笑って席を立った。
「日車さんのそういうところを――尊敬しています。でも私は日車さんみたいにはなれないし、日車さんのことを少し怖いとも思っています」
「悪かったな」
 日車が低く唸ると晶は「それじゃあ、お疲れさまでした」と会釈する。日車は晶を呼び止め「おまえがいて気が紛れた」とだけ言う。それくらいならば許されると思った。誰にであろうか。己自身か。晶は一瞬虚を突かれたような顔をし、困惑気に眉を下げる。
「いえ……日車さん、大丈夫ですか。気を付けてくださいね、人って急に、ぽんって壊れちゃうんで」
 晶は胸の前で、何かを弾くような手の動きをして見せる。日車は黙ったまま浅く頷く。
「また明日、よろしくお願いします」
「気をつけて帰れよ」
 はい、と晶は微笑み執務室を出ていく。ガラス戸が重く空間を押しのける気配がして、日車は深く溜息をついた。


 *


 千丈の堤が螻蟻の穴から潰えるように、樋田はすみの死を以て樋田家は容易く崩壊し始めた。或いはすでに破裂を待つだけの水風船であり、きっかけは何でもよかったのかもしれない。
 仏間に死体がある生活は人心をひび割れささくれ立たせる。冷え切りよそよそしかった家族関係は、ひりひりと死と怒りと暴力に支配されるようになった。どちらがまともかは晶には分からないが、晶には樋田はすみが死んでからの方が家族が自然な振る舞いをしているように見えていた。家族の頭数が削れ死体の数が増えるごとに、倫理の箍と良識の抑圧が蕩け消えていくごとに、少しずつ呼吸がしやすくなっていく。樋田家で起きたのは惨劇ではなかった。ただ樹上の果実が腐り落ちるように、自ずからそうなった。
 二人目は松尾眞由璃だった。いつものように松尾遥斗と松尾眞由璃が泣き喚き言い合いをしおもちゃを取り合う物音が聞こえていた。火の付いたような松尾眞由璃の泣き声がふっと途切れる。それきりだった。晶はそれから松尾眞由璃の姿を見ていない。樋田ユカリと松尾あかねが庭に穴を掘り何かを埋めているところを、晶は二階のバルコニーから見下ろしていた。世話のされていない鳥小屋のようなにおいがした。
 三人目は樋田まおだった。晶は樋田まおの亡骸を目の当たりにしたとき、心のどこかでしかたがないのだと思いながら悲しくてどうしようもなくわあわあと泣いた。心が二つに引き裂かれるようだった。あれほど華やかで美しかった樋田まおは元の造形も分からないほど頭蓋を砕かれ顔は潰れ腫れ上がっていた。樋田まおの亡骸は、権東一樹が客間に寝かせた。権東一樹が寝起きしている部屋だった。
 四人目は松尾あかねだった。樋田まゆを殺したと権東一樹が松尾あかねを糾弾した。だがその頃、樋田家は家という檻の中で骨肉相食むことへの忌避感を失っていた。みなうすらぼんやりとそういうものだとそれを受け入れ、目の前で松尾あかねが縊り殺されるのを眺めた。遺体はそのまま食卓の傍らに捨て置かれた。
 五人目は松尾健司だった。松尾健司は樋田はすみが死んだ頃から食事を摂らなくなり、枯れるように死んでいった。ある日晶が部屋を覗くと布団の中でかさかさになっていた。樋田ユカリは枯れ枝のようになった松尾健司を細かく分けてごみに出した。晶が理由を問うと、樋田ユカリは「この男は家族じゃないから」と答えた。樋田ユカリの言うことは、この家で絶対であった。たとえ非合理的であろうと。
 ある朝、庭からものすごい音がした。庭の真ん中に松尾遥斗が落ちていた。樋田ユカリが縁側からのろのろと庭に出て松尾遥斗の肩を揺さぶる。華奢な頸が変な風にぐらんぐらんと揺れていた。樋田ユカリはぼんやりと上を見上げて「二階から落ちたんだね、かわいそうに」と溜息をついた。そうなのか、と思った。だが樋田ユカリの視線の先には何もなかった。雨の降りだしそうな曇り空だけがあった。
 樋田ユカリと連れ立ち屋内に戻ると、居間に権東一樹がぶら下がっていた。晶は揺れるそれを見ているふりをしながら横目に樋田ユカリを窺い見た。家の中でまた家族以外が死んだので、樋田ユカリの機嫌が損なわれるのが怖かった。だが樋田ユカリはほうと軽やかな溜息を一つついて、松尾健司の解体に戻っていった。

 晶が知るのはそれだけで、誰にも嘘をついたことはない。だが信用されたこともない。唯一日車だけが「犯行を目撃したのは権東一樹の件だけなのか」とひとりごちていて、それを聞いたとき晶は日車を変わった人だと思った。日車は晶の証言を「齟齬なく矛盾なく混濁なく、しかし意味不明」と評した。晶は日車のその言葉が好きで、今も時折口ずさむ。
 お役に立てずにごめんなさいと殊勝気に項垂れる晶に日車は「八歳の肉親の証言など重視されない」と言った。見かねた職員が「気にしなくていいよ、って」と耳打ちしてきた。目の前の日車の陰鬱な無表情も、耳元で囁かれる声も、昨日のことのように思い出せる。頻繁に反芻する記憶の一つだ。
 久坂は樋田家で起きたことを蠱毒のようだと言った。晶はそのとおりだと思っている。怒りと嫉妬と羨望と苦痛と屈辱を食い合い肥大した何かにみな飲み込まれた。晶はその理由が知りたい。


 *


 久坂は隣席の立花が身を乗り出し晶と話しているところに口をはさむ隙がなく閉口していた。立花は久坂がよく出入りする出版社のアルバイトの若い女だった。久坂が晶を食事の席に誘うのに、中年男一人が相手では晶が後込みするだろうと取材助手という体で連れ出した。立花はタダで酒が飲めるとあればどこにでも喜んでついてきたし、陽気で人懐こく晶ともあっという間に打ち解けた。
 場所は繁華街の若い女性も立ち入りやすい雰囲気の居酒屋である。立花と談笑する晶は楽しそうで、これといった変哲もない若い女性に見えた。彼女が想像しがたい過去を背負っていることを忘れそうになる。立花はといえば隣の卓の客が振り向くほどの大きな声で笑い、晶がグラスを半分も空けないうちにサワーのジョッキを二度追加注文していた。久坂は立花に酒を飲ませてやるために連れてきたわけではない。横目で「少し控えろ」と合図すると立花は「久坂さん全然飲んでないじゃん!」と久坂のグラスを覗き込んだ。
 それから立花は晶の鼻先を指差しけたけたと笑う。
「めっちゃウケる、晶さんヒグルマさんの話ばっかりするじゃん。どんだけ好きなの」
 晶は肩をすくめてグラスのふちを指でなぞる。
「好きというか……大学とバイト先の往復ばかりしてるから、私の人生には日車さん以外の面白いことがないんです」
「いやーっ、かわいそうっ!」
 プチトマトあげるね! と立花はサラダボウルを晶のほうに押し出す。晶は苦笑してボウルからプチトマトを摘まみ口に入れた。晶の白い歯に小さなトマトがぷつんと押し潰される。
 立花がメニューに気をとられている隙に久坂はタブレットに表示された写真を晶に見せた。半分山に飲み込まれたような音無家の写真だ。音無由希子とのやりとりを話しても晶はあまりぴんと来た様子がなかった。写真を見せ「行ったことは?」と聞くと、晶は黙って首を横に振った。
 久坂は音無家の周囲で取材を行った。集落の古老たちは口が軽かった。ある者は音無由希子をオトナイ様には不適格だと腐した。音無由希子は聞き分けがいいばかりで力が足りない、音無ユカリがオトナイ様を継ぐべきであった、とまるでそれが昨日のことであるかのように新鮮な不満を吐露した。一方で、音無由希子がオトナイ様でよかったと言う者もいた。音無ユカリは山神の囁きを聞き人を導くには性質が悪かった、と鼻を鳴らす。
 つまり今から四十年以上前に、音無ユカリは音無由希子と並び立って次期オトナイ様候補となり、諸々の理由を鑑みた結果後継とはなれず集落を飛び出したらしい。それを聞いた晶は「はあ」と曖昧な返事をした。
「それで、もうずっと帰っていなかったんですよね」
 久坂はその問いに対して首を横に振る。
「いや、樋田ユカリは一度、音無家に帰っている。一人女の子を連れていたようです。年代的におそらく松尾あかねか樋田はすみのどちらかだと思います」
 隣家の者がそれを見ていた。おそらく樋田ユカリは娘を次代のオトナイ様候補として実家に連れて帰ったのだろう。そして素気無く追い返された。帰りのバス停で娘を激しく叱責折檻する樋田ユカリを集落の女たちが止めたのだと言う。
 久坂は「こんなの事件とは直接関係ないし、だから日車弁護士抜きで話したかったんですけど」と言い訳がましく前置きする。
「樋田ユカリ――おばあさんは本当に霊能者で、跡継ぎを探していたのかもしれない。だから娘たちを全員家に置いていたんじゃないかな」
 聞くなり晶はふっと笑った。
「それって――めっちゃ面白いですね」
 小馬鹿にした声音を隠しきれないまま晶は言う。馬鹿げているのは承知である。だが馬鹿げているのは久坂の仮説ではなく、実際にそう理解せざるを得ない行動をしていた樋田ユカリである。
「え、晶ちゃんって霊能者なの? 霊感ある?」
 ドリンクとフードの注文を終えた立花がへらへら笑いながら会話に割って入ってくる。隣席の会話に混ざり低く換気扇の音がした。
「あたしそういうの詳しいよ。これ、これねえ、海外の超能力者がやるテスト」
 立花は紙ナプキンをごっそり取るとその表にペンで記号を書き入れた。丸や四角のシンプルなマークを書き、それをテーブルに伏せる。
「これでカードのマークを当てるの。晶ちゃんやってみてよ」
 おい、と久坂は立花を制止しようとする。だが晶が青褪め、眦が切れそうなほど目を見開いているのを見てとどまる。晶さん、と声をかけると、晶は卓上に伏せられたナプキンを見ながら「これ……やったことある」と呻いた。どこで、と久坂が聞くと晶は強張る手で口元をおさえる。
「祖母に……祖母の部屋で」
「それで、どうでした」
 晶は伏せられたナプキンを一枚指差し「星」と言うとそれを裏返した。立花が書き殴った汚い丸が天井を向く。晶は暗く笑った。
「祖母は、私を、役立たずだと」
 言葉を失う久坂をよそに立花は「はあ!?」と荒っぽい声を上げる。
「意味わかんねえ! こんな超能力者ごっこで!? なにそのババア! あ! 晶ちゃんのおばあちゃんにごめんね! でも頭おかしいよ!」
 喚きながらレモンサワーを飲み干す立花に少なからず救われる。それは晶も同じであったらしく、晶は「そうですよねえ、やっぱり記憶違いかも」と首を傾げて笑んだ。
 久坂は慎重に言葉を選びながら晶に質問を重ねる。
「以前、晶さんは叔母の樋田まおには不思議な魅力があったとおっしゃっていましたよね。ひょっとすると他の家族が、そういう……霊感みたいなものを持っていたりはしましたか」
 晶の双眸が伏せられる。口を付けられないグラスが何度も傾けられた。溶けた氷が薄くなった飲み物の中でくるくると踊っている。時間が深まったせいか酒場の喧騒がいっそう耳に障った。久坂が「ないならばいいんです」と言いかけたときに、晶は浅く息を吸った。
「――伯母の松尾あかねはいつも何かに怯えている人でした。手首に数珠をしていて……なんというか、見えない何かから隠れるようにびくびくしていて……」
 久坂は思わず身を乗り出す。点と点が線となるような、取材をしていて最も高揚する瞬間だった。
「松尾遥斗は、見えないお友達がいました。たしか名前は……とりっぴいって呼んでたと思います」
 言ってから晶は唇の端に冷ややかな笑みを浮かべて首を横に振る。
「でも、私の家は……ヘンだったから。何かに怯えたり、見えない友達がいたり、ストレスでそういう症状が出る人もいますよね」
 久坂は心ここにあらずのまま「そうですね」と生返事をする。次の取材先のことを考えていた。松尾あかねのパート先、松尾遥斗の通っていた保育園と小学校。もう十二年も前の話だが、何か事情を知っていて話したくて仕方がない人は見つかるだろう。
「それで樋田まおさんは――」
 樋田まおの名を出した久坂を晶は睨んだ。印象的な双眸に宿る重い感情の正体と行く先が分からず、久坂は言葉を飲み込む。晶はゆっくりと囁いた。人の声のざわめきの中、晶の囁き声だけが妙にはっきりと聞こえる。
「私は叔母が好きでした。きれいで優しくて、私をかわいがってくれました――久坂さんは、私がまおちゃんのことを好きなのは、不気味な力のせいだと言いたいんですか?」
 冷や水を浴びせかけられたようになり、久坂はテーブルの上で拳を握った。すみません、と絞り出した声が掠れている。久坂がどれほど晶のプライバシーに迫るようなセンシティブな質問をしても淡々と答えてきた晶が初めて見せた怒りと不快感だった。だが久坂は、晶を傷付けたことよりも、晶が怒りこれ以上取材を受けてくれないのではないかということに意識を奪われた。ジャーナリストのさがであり、もう少しで何か核心に触れられそうな焦りがあった。
「それに、山の中の崩れかけた家なんか、派手好みの祖母がほしがるわけがない」
 晶の言葉を聞き、久坂は話題転換のためにタブレットの画像フォルダをスクロールした。古びた絵巻物を撮影した画像を表示する。
「今は当代のオトナイ様の意向であまりおおっぴらに活動していないみたいなんですけど、昔はすごかったみたいですよ。ほらこれなんか音無家からかなり離れた山にある神社に奉納された絵巻物で、オトナイ様と山神様の姿を描いてる。これは江戸時代の中頃のものみたいなんですけど、ここ数代でも有名政治家に助言を与えたりして、正直かなり儲けていたみたいです」
 タブレットに表示された画像には、丸っこく描かれた人物が二人膝を突き合わせて座っている姿が描かれている。そのうちの片方の人物の耳元に天狗が口を寄せて何かを囁いていて、それを見守る大勢の人間が驚き慄いている。拙い線で描かれた絵は、描き手の意図と裏腹に霊験よりも滑稽味ばかりが際立つ。
 久坂はおそるおそる晶の反応を窺い見た。晶はタブレットをじっと見つめると、中央の二人の人間を拡大する。華奢な指先が絵の中の女を指し示す。
「じゃあ、これが私のご先祖様なんですか?」
 先程の怒りは鳴りを潜め、穏やかな物言いであった。久坂は元の話題を蒸し返される前に身を乗り出し晶の手元を見る。
「ああ、いえ、晶さんのご先祖様はこっち」
 神社の掃除をしていた老爺がそう教えてくれた。晶は怪訝な顔をし、画像に顔を近付けた。
「どうかしましたか?」
 晶は眉をひそめたまま「いいえ」と答えた。画像から顔を離し「すみません、なんでもありません。こんな古い絵が残っているんですね、なんだか不思議な感じです」と笑う。店員にグラスを替えてもらった立花がラムコーク片手に身を乗り出しタブレットを覗き込んだ。久坂は思わず「こぼすなよ」とタブレットを庇う。
「え、これ変ですよ! 久坂さん気が付かないんですか! だめじゃん!」
「うるせえな酔っ払い、水飲んで寝てろ」
「うわ、ひっど。晶ちゃん聞いた!? こんなおっさんの取材受けちゃだめだよ!」
 立花はタブレットの液晶を指先で何度も叩く。
「晶ちゃんのご先祖様は天狗の声を聞いている方でしょ? じゃあこっちであってますよ。久坂さん、ちゃんと取材してきたんですか?」
 そう言われ、久坂は画像を見直す。確かに久坂が「これがオトナイ様」と教えられた人間ではなく、その向かいに座る女の耳元で天狗が囁いている。
「いやでもこっちがオトナイ様だって言われたんだけどな……」
 久坂は首を傾げる。装束や出で立ちを見ても久坂が教えられた人物の方が霊験灼然と描かれているような印象を受ける。どちらにせよだるまのようなころころとした絵柄で見分けもつかないが。
「古い絵だから伝承もごっちゃになっているのかもな。一応機会があったら確認してみる」
 そう言うと立花は晶に向かって「だって、久坂さんのこと許してあげてね」と猫撫で声を出した。晶は笑って「許しますよ」と冗談ぽく言った。久坂は晶の機嫌が悪くないことを見計らって、本題を切り出す。
「実は、取材の内容を記事ではなくて番組でまとめようと思ってるんです」
「ああ、そうなんですね」
「それで、その中で一部晶さんへのインタビューシーンを入れたいと思っています。もちろん姿は見えないように隠して」
 それを聞いた晶は苦笑する。
「上手く話せませんよ」
「あ、そのへんは全然、上手いこと編集するんで」
「よかった」
 あっさりと晶は言うので久坂は拍子抜ける。「え、いいんですか」と思わず聞くと、晶は首を傾げて「いいですよ」と言う。物言いたげな久坂の表情に晶は察したように「ああ」と眉を上げる。
「日車さんは今忙しいので、あまり心配をかけたくないんです。あとで伝えます」
「……ありがとうございます。あんまりさくっと決められたので、少し驚きました」
「だって誰も観ないでしょう?」
 久坂はそれに苦笑いを返す。
「……観てもらえるよう努力します」
「あ、すみません、そういう意味じゃなくって……」
 晶は腕時計に視線を落とし「すみません、私明日一限なんで、そろそろ失礼します」と頭を下げた。お金を置いていこうとする晶を久坂は押しとどめる。何度も頭を下げ「ごちそうさまでした」と店を後にする晶を見送る。晶の姿が見えなくなった途端、立花が久坂を睨んだ。
「ズルい大人」
「これも仕事だ」
 おまえは飲みすぎだ酒代は自分で出せと久坂が言うと、立花は「奢ってくれるって言うから来たんだし。奢ってくれないなら今から走って晶ちゃん追いかけて動画なんかやめとけって言うから」としなびたポテトを口の中に放り込んだ。
「おまえ記者志望だったか?」
「いや、グラフィックデザイナーです」
「記者にしろ、向いてるぞ」
「絶対悪口じゃんそれ。――というかこの店、なんか虫いません?」
 立花が眉をひそめて周囲の羽虫を払うような仕草をする。久坂は喧騒の中に耳をそばだてるが、やたら重い換気扇の音が耳に障るばかりだった。