樋田ユカリは半年前に刑務所を満期出所している。仮釈放がなかったのは事件が世間に与えた影響が大きかったと判断されたためか、服役中の態度が悪かったからかは定かではない。
 久坂は樋田ユカリと連絡をとることができた。電話で話した声音は、ただの疲れ老いた女に聞こえた。鵲市とも遠く、現在音無晶が通う大学からも離れた都市の公営住宅で、樋田ユカリは一人暮らしをしている。久坂の取材の依頼を樋田ユカリは簡単に了承した。おそらく経済的に困窮していて謝礼金に期待しているのだろう。樋田ユカリに再就職のあてがあるとは考えられず、なんらかの公的扶助を受け生活していることは想像に難くない。
 約束の時間に久坂は樋田ユカリの住まいを訪ねた。コンクリートの壁に鉄製のドアが等間隔についた公営住宅の共有廊下は牢獄めいて見える。押したインターホンは旧式な音を立てて部屋の主を呼びたてた。緊張する久坂をよそに細く開けられたドアからこちらを覗き込む女性は拍子抜けするほどに普通であった。声音から受ける印象ほど老いてはおらず、強い印象を受ける大きな目と尖った顎は報道で出回った若い頃の写真の面影を濃く残している。
「記者?」
「はい、久坂功太と――」
「いいから、入って、早く」
 急き立てるように室内に招かれる。がらんとした玄関にはサンダル履きが一揃いだけ無造作に置かれている。勧められた部屋は擦り切れた畳敷きで、窓にはサイズの合わないカーテンがかかっていた。部屋の真ん中に家具量販店で買ったような折り畳み式のテーブルがある以外は、何もない部屋だった。掃除はされているようだが部屋自体がどこか埃っぽく、空気の質感がざらついている。
「このたびは取材の依頼を受けていただき――」
「挨拶はいいわよ、あたしが挨拶の必要な上等な女に見える?」
 この態度だ。この態度が司法と世間の不興を買った。十二年の服役を経てもそれが矯正されることはなかったらしい。久坂はそれに是とも非とも答えられず「すみません」と苦笑いだけを返した。
 樋田ユカリは久坂の顔と、鞄を順に見る。六十を越えた女とも思えぬ圧のある目付きで睨まれ、久坂は身を強張らせた。久坂は取材の一環で海外の治安の悪い地域にも、日本の反社会的勢力の会合にも顔を出したことがあるが、それとは別種でも同じくらいの威圧感があった。内臓の内側を手のひらで撫でられるような、嫌な感じであった。死期を見通すと言われればそういう目つきの気もした。久坂は晶の「家族はみな樋田ユカリを恐れていて、樋田ユカリに愛されたがっていた」という言葉を思い出す。彼女の言うことは、嘘でも大袈裟でもなかった。
 久坂は鞄から謝礼の封筒と菓子折りを取り出す。樋田ユカリは鷹揚な仕草でテーブルを顎で示した。久坂は箱と封筒をテーブルに置き、それを見届けた樋田ユカリは問われずとも滔々と事件のことを話し始めた。久坂は慌てて録音機器を起動する。
 樋田ユカリの淡々とした語り口は晶のものと似ていたが、晶よりも記憶がはっきりしているようだった。話す内容が当時の資料や報道とほとんど乖離せず新鮮みに欠けるところも晶の話しぶりに似ていた。話し終えた樋田ユカリはだるそうに「それで、あとは何が聞きたいの」とテーブルに寄りかかった。視線が抜け目なく封筒の厚さを測っていた。だが久坂も取材費が潤沢というわけでもないので、おそらく樋田ユカリが期待するような金額は入れられていない。あの中身を知られて臍を曲げられる前に、聞きたいことは聞いてしまおうと思った。
「樋田ユカリさんは、犯行は権東一樹が行ったものだと主張していましたよね。その主張は今も変わっていませんか」
 樋田ユカリは煙草に火をつけながら頷く。
「それでは、判決は不当であったと?」
 白い煙が吐き出され、久坂の手元に流れてきた。
「さあ、でもあたしが十二年ぶち込まれて、みんな満足したならそれでいいんじゃない?」
 そうですか、と久坂は同情しているような声を出した。久坂は晶が心底慕っている日車という弁護士のことを思い出す。愛想には欠けるが仕事には真面目な男であるようだった。彼が樋田ユカリのこの言葉を聞いたとき、いったい何を思うのだろうか。
「樋田ユカリさんは、以前占いができるということで話題になったと伺っています。それは――」
「占いは占いよ。統計と話術と、あとは客の顔色を読んでそれっぽいことを言えばいいわけ。あんたはそういうの信じるタイプなの? 若いのに」
「ああ、いえ、一応確認を」
 半分開け放たれた襖の向こうは薄暗い廊下であった。その向こうからかすかに虫の羽音のような音が聞こえてくる。部屋は古く煤けているが不衛生には見えない。だが水場回りで虫がわいているのかもしれない。久坂はなんとなく嫌な気分がしてそれから意識を逸らした。
「樋田ユカリさんが、三女の樋田まおさんに特別目をかけていたというのは――」
「あんたそれ誰に聞いたの?」
 気だるげな声が緊張感を帯びた。久坂は努めて冷静に「当時から記事になっていました」と答えた。樋田ユカリは久坂の胸ポケットに煙草の箱が入っているのを見て「あんたも吸ったら」と煙を吐く。
「まおは頭もよかったし、野心もあった。顔も綺麗でね、あたしの若い頃によく似てた。他の姉妹は駄目ね、愚鈍で……男が悪かったんだわ」
「あなたの後継者たり得ると?」
 何気なさを装った久坂の問いに、樋田ユカリは横目に久坂を睨む。久坂は己の膝の裏がじっとりと汗をかくのを感じていた。
「驚いた、あんた案外馬鹿じゃないのね。記者はみんな馬鹿だと思ってたわ」
「ということは、樋田まおさんは――占い師としての素養があったのですか」
「ないわよ、そんなの。ただ目端が利いたから可愛がっていただけ。でももう死んじゃったしね、しかたない」
 しかたない、という言葉の冷ややかさに久坂の背筋が総毛だつ。久坂は冷たい指先でポケットから煙草の箱をとる。一言断ってから煙草に火をつけると、一酸化炭素とニコチンが血流に乗って幾分か気分を和らげてくれる。
「当時八歳の樋田瑠海さんは――」
 彼女の名前を出した途端、樋田ユカリは伏せた目になんらかの感情を揺らめかせた。それが何かが分かる前に、樋田ユカリはゆるゆると首を横に振った。
「あの子には……悪いことした」
 樋田ユカリの口から悔悛の情が吐き出されたことに久坂は安堵する。どうかそうであってほしかった。樋田ユカリが樋田瑠海に対して悪罵を口にするようであれば、久坂はこの取材をこれ以上どういった感情で続けたらいいのか分からなくなる。
 樋田ユカリは短くなった煙草をインスタントコーヒーの空き瓶に投げ捨てた。次の一本を取ろうとする樋田ユカリに、久坂は自身の煙草の箱を差し出す。樋田ユカリは淀みない動作で煙草を摘まみ上げた。薄い唇に咥えられた煙草に赤い火が付く。
「あんた、瑠海にも取材してるの? 手が早いのね」
 久坂はそれには答えなかった。
「もしあの子に会うことがあったら伝えといてよ」
「……なんですか」
樋田ユカリの目が久坂の目を覗き込む。虹彩の暗い大きな目を、久坂は音無晶に似ていると思った。煙草を咥えた唇がかさかさと弧を描く。
「もし許してくれるなら、またいっしょに暮らしましょうって」
 久坂はそれに何と答えたか覚えていない。

 久坂は樋田ユカリの取材の帰途、新幹線での座席を確保し録音を聞こうとした。簡易テーブルに駅弁を広げ、割り箸を割る。突然、イヤホンから雑音が流れ出し、久坂は眉を顰めた。ファイルを何度か再生し直し、それでも冒頭から最後までノイズしか録音できていないことを確認して溜息をつく。
 内容については特段目新しい情報はなかった。話した内容は最低限メモをしている。それはいいとしても、録音機器を新しく買う必要があるかもしれないのが億劫だった。


 *


 荷物をまとめる手を止めた晶が「日車さん、少し外を歩きませんか」と言ったのは、退勤ラッシュが収まるくらいの時間であった。忙しいとそれを遠慮しようとした日車の言葉を「行ったほうがいいですよ」と清水が遮る。
「日車さん、朝から席を立っているのを見ていないんですけど。血栓できますよ」
 それは大袈裟だろ、と日車は反駁しようと清水の方に体を向ける。前傾したままであった腰が伸ばされぼきんと音を立てて軋んだ。それなりに大きな音がしたようで、晶はぎょっとして目を剥く。
「……本当に、動いたほうがいいですよ。私が帰るついでに」
 晶は歩いて数分ほどのコンビニの名前を挙げた。そのへんまで送ってください、と晶は言った。そこまで言うならと渋々席を立つ日車に清水が「いってらしゃい」と手を振る。おまえは? と問うと「私は週に二回ホットヨガしてるんで」と返された。
 外はすでに暗く、人通りも少ない。繁華街ではないのでこの時間ともなれば出歩く人はほとんどいない。家路を急ぐ人影がぽつぽつと見られる程度であった。晶は自転車を引きながら日車の隣を歩く。閑静な夜の通りに車輪の音ばかりが目立った。
「意外と暗いな。いつもここを通るのか」
「でもいつもは自転車でさっと帰っちゃうのであぶないことはないですよ」
 そうか、と日車は晶の自転車の籠に視線をやる。頑丈そうな帆布の鞄に講義の資料とノートが詰められていた。
「二審、もうすぐですね」
 ぽつ、と晶は硬い声音で呟いた。そうだな、と日車は平坦に答える。
「終わったら少し楽になりますね」
 日車は曖昧に返事をしながら溜息をついた。晶が何を言いたいのかが薄々分かるからだ。晶、と名前を呼べば、晶は重い荷物を載せた自転車を転ばさないように日車の方を見た。
「おまえは頭もいいし、努力も出来る。選択肢は多い。おまえの将来をどうこう言う権利は俺にはないが、俺みたいな弁護士になるのは勧めない」
 己の行いを間違っているとは思わない。信条を変えるつもりもない。だが、己を慕う学生に己と同じ道は勧めたくはない。日車はその程度には己を客観視出来ているつもりだった。日車が自転車の籠の中を見ながら言うと、晶は声を上げて笑った。静かな夜に高い笑い声が響き、晶はぱっと片手で口を押さえる。バランスを崩した自転車に振り回され、晶は二、三歩よろめいた。
 冗談を言ったつもりはないが、と晶を睨むと、晶は「すみません」と肩をすくめた。
「日車さんみたいになるの、無理ですよ。私にはというか、大抵の人には無理ですもん」
 日車さんって自分のヤバ度に無頓着ですよね、と晶はまた堪えきれないように笑いだした。
「女子大生がみんな高い目標と明るい自己実現を目指してるなんて勝手な思い込みじゃないですか。少なくとも私は――消極的な消去法で先のことを決めてます。同じ地獄なら、日車さんのいる地獄の方がいいかなって」
 日車はそれに何と答えるか迷った。
「……人を勝手に地獄に落とすな」
「天国に行くには、目の前におろされた蜘蛛の糸に咄嗟に縋りつけるくらいの抜け目なさはないと」
 晶の視線の先でコンビニの明るい照明が夜闇を照らしていた。晶は少し笑って歩調を緩める。
「だって日車さんなら地獄の沙汰も弁護してくれそう」
 その言葉が日車の胸元につかえる。おそらくそれは日車の理念に対する最大の賛辞であった。だが日車は、それを己が彼女に言わせたのではないかと後ろめたさを感じる。
 正しさは仕組みであるほうが気楽であった。善人も悪人も好ましい相手もいけ好かない相手も富める者も貧しい者も彼方も此方もまとめて俎上に上げられる。彼女の尊敬と好意を真に受ければ、それを簡単に塗り潰す質量の憎悪と怒りの行く先がなくなる。日車の仕事は晶のような人々を掬い上げ制度に組み込むことであり、日車が晶に救われていては道理に反する。
「そんなこと言うために連れ出したのか」
「いえ、それは普通に日車さんの健康が心配だったから」
 晶は子供っぽく忍び笑った。
「いやだな、二審。私の方が緊張しちゃいます。日車さん、また理不尽に恨まれるんですよ」
「おい、まだ判決は決まってない」
「まあそうですけど――あ、コンビニ着いちゃった」
 晶は残念そうにそう言うと自転車に跨る。
「それじゃあ、おつかれさまでした。お気をつけて」
 日車はそれに「おまえもな」と答える。晶は微笑んで自転車を漕ぎだした。晶はあっという間に夜の闇に溶けて消えた。さっと帰る、と言っていた晶の言葉を思い出す。日車はその場で踵を返し、清水に何か差し入れでも買っていくかとコンビニの方に足を向けた。


 *


 実家を見に行きませんか、と音無晶から連絡があったのは樋田ユカリの取材の翌日のことであった。久坂は布団の中でその電話をとり、内容を聞いた途端殴られたように目が覚めた。
 晶の言う「実家」が鵲市七遺体事件の現場であった樋田家であることは明らかで、久坂が知る限り事件以降建物の内部を取材した記事はない。え、いいんですか、と慌てる久坂に晶は「見に行きたいものがあって。でも、私一人では心細いので」と申し訳なさそうに言った。久坂は「中を撮影してもいいか」「晶さんにもカメラを向けていいか」「なんらかの媒体で公開してもいいか」を自身でも卑怯に感じられるほど矢継ぎ早に彼女にぶつけた。晶は幾分迷う素振りを見せ「いいですよ」と細く答えた。
 当日現場に現われた晶はTシャツにスニーカーで、取材ではいつもある程度きちんとした服装をしていた彼女にしては珍しくラフな格好をしていた。晶は久坂の視線に苦笑し、Tシャツの裾を引っ張る。
「家を離れてから、一度も入っていないんです。だから多分中は埃がすごいですよ」
 晶はそう言うと、久坂を見て「服が汚れたらすみません」と肩をすくめる。久坂は自身の着古したシャツを見下ろし「いや、全然大丈夫です」と笑った。
「ずっと入っていなかったんですか」
「はい、一応管理は日車さんがしていてくださって、今も一応祖母の持ち物ではあるんですけど……でももう住めないですし、売るのかな、わかんないですけど」
 晶は鞄からごわごわになった茶封筒と家の鍵を取り出す。鍵には警備会社の電子タグがついていた。
「肝試しというか、そういう人が侵入しようとするみたいです」
「……大変ですね」
 やっていることはその手の輩と変わらない久坂は居心地悪くそう答える。
「持て余してるんです。久坂さんうちの実家で肝試し配信でもしますか」
「え、いいんですか!」
 思わず声音に喜色を滲ませる久坂に晶は「さすがにそれはだめです」といたずらっぽく笑った。久坂は「あ、そうですよね、すみません」と表情を強張らせる。久坂はたまに彼女の冗談のラインが分からない。
 樋田家は住宅街にあったが、家々の密集するエリアからは少し離れていた。樋田家は区画の端にあり、区画の向こうは団地が切り出されたときに残された雑木林が鬱蒼と茂っている。唯一の隣家は更地になっていて、それが元からそうであったのか事件後にそうなったのかは明らかではない。だが、おそらく事件後のはずだ。
 久坂は雑草と蔦に覆われ飲み込まれそうな家屋をぼんやりと見上げる晶の横顔にビデオカメラを向ける。晶は久坂が撮影をしていることに気が付き顔を背けた。
「ここから撮るんですか」
「顔は消すんで大丈夫です」
 晶はやりにくそうに玄関ドアに鍵を差し入れる。鍵はそれほど抵抗なく回った。ドアが開いた瞬間警備機器の警告音が鳴る。晶はセンサに電子タグを翳し警報を切った。玄関の三和土には色とりどりの女の靴が散乱していて、その隙間を縫うようにいくつもの男の靴の足跡が残っている。晶は迷いなく土足のまま上がり框に足をかけた。久坂もそれに倣いながら遠慮がちに廊下に上がった。
「どんな気分ですか」
 久坂は晶の背中にそう声をかける。晶は掠れる声で笑み交じりに「ただいまって感じ」と足元に呟いた。それから久坂の方を振り返る。
「久坂さん、私は祖母の部屋で探し物があるんですけど、久坂さんはどうしますか」
「あー……とりあえず全室を順に見るところを撮らせてもらってもいいですか。それから探し物の場面を撮らせてください」
「そんなところまで撮るんですか」
 呆れた声を上げられ、久坂は「すみません」と半笑いで恐縮して見せた。久坂は懐中電灯のスイッチを入れ、晶にも一つ渡す。電気が通らず窓も塞がれた室内は昼でも真っ暗であった。
 晶はライトを片手に玄関脇の襖戸を開ける。拍子に桟からふわふわと埃が舞う。晶は口と鼻を手で覆いながら「ここは松尾の人たちが寝起きしていた部屋です。その隣が客間」と言う。生活感の残る六畳敷きの和室は、部屋の隅に子供のおもちゃが投げ出されたまま埃だらけになっていた。部屋の真ん中に寝乱れた布団が敷いたままになっていて、久坂はそれを撮影しながら目を逸らす。松尾健司は布団の中で亡くなっていたはずだ。晶は「撮りますか?」と身を引き、淡々とした足取りで廊下を渡る。
「ここは居間」
 古びたカーペットは元の色がわからないほど変色していた。床には黒い染みと鑑識用のテープやチョークの跡が生々しく残っている。奥に続くドアは開け放たれたままだ。ドアの枠が歪んで閉じなくなっている。そこにロープがかけられていたからだと、見た者にありありと想起させた。
「奥は台所と風呂場と、あと仏間です。見ますか?」
 仏間は晶の母が長く寝かされている場所であったはずだ。久坂が頷くと晶は閉まらないドアを通り奥へ進んでいく。突き当りの襖戸を開け「仏間」と晶は呟いた。久坂は仏間の中を手持ちのライトで照らし、次いで晶にカメラを向けた。
「お母さんがここで亡くなられていたんですよね」
「はい――あ、いえ、亡くなったのは別の場所かな。運ばれてここに」
「その……この部屋、特に気密性も高くないような感じなんですけど、においとかは」
 久坂の問いに晶は「うーん」と首を傾げた。
「結構しましたよ」
「……それに対して、家族の方は」
「でも死体ってにおうものでしょう? しかたないじゃないですか、そういうものだと思ってました」
 久坂は言葉を失い、晶の横顔にビデオを回し続ける。晶はレンズの方を見て笑うと踵を返した。
「あとは、玄関の方に戻って二階に上がると祖母の部屋と、母と私と叔母の部屋があります」
 久坂は諾々と晶の後をついて歩く。軋む階段は晶が昇った後にスニーカーの足跡が残っていた。久坂はそれを撮影しながら階段を上がった。晶は階段を上がって右手のドアを開ける。壁際に箪笥やプラスチックケースが並んでいて、衣服や靴が入っている。その量とバリエーションから女性が複数人寝起きしていたということが分かる。
「お母さんと叔母さんは仲が良かったんですか」
「……いいえ。顔を合わせると喧嘩ばかりでした。叔母は何度も祖母に母と部屋を分けてくれと頼んでいました」
「叔母――樋田まおはそれなりの収入を得ていましたよね。どうして他に部屋を借りるなどしなかったんでしょうか」
 晶は首を横に振る。髪についた埃がライトの光を反射してきらきらと光った。
「私のことを心配していたんだと、私は思っていましたけど……本当は違うのかも」
 晶の溜息の形に埃が渦巻く。晶は振り向き向かいのドアを開け放つ。他の部屋が狭い和室に人間がぎゅうぎゅうに押し込まれていた痕跡を残すのとは違い、この部屋だけはゆとりと文化の気配が残っていた。八畳の和室にがっしりとした作りの茶箪笥が置いてある。晶はまっすぐに茶箪笥に向かった。見に行きたいものがある、と彼女は言っていた。
「何を探しているんですか」
「何かあるかと思って」
 晶は茶箪笥の抽斗を上から順に開けていく。
「祖母の部屋には入るなときつく言われていたので、こうして祖母の持ち物を見るのは初めてです」
 晶は抽斗の中身を見分した。手に取った印鑑ケースや書類、写真の束、宝飾品の小箱を、晶は容赦なく足元に落としていく。久坂はそれを呆然と眺めているしかなかった。普段の晶の整然とした様子からは考えられない荒っぽい振る舞いであった。久坂が考えていたのはそれに対する違和感よりも、映像として視聴者に不快感を与えないかどうかだった。抽斗の中から記号入りのカードを見つけた晶は苦笑気味にそれを久坂の方に掲げて見せた。五枚のカードはばらばらと床に落とされる。
 次いで紙束を取り出した晶はそれをライトで照らす。久坂は晶の手元をアップで撮影する。紙束の一番上は帳面の切れ端であった。そこに鉛筆で家系図が描かれている。何かと見れば樋田ユカリとその縁続きの者の名が鉛筆の薄い線で繋げられていた。音無由希子の名もあった。樋田ユカリの名の下に、あかね、はすみ、まおの名がある。あかねの名は斜線で、はすみの名は縦棒で消されている。瑠海の名も縦棒で消されていた。晶はその紙切れも床に落とした。
 帳面の切れ端が力なく床に落とされたのを見た久坂は咄嗟に「実は樋田ユカリに話を聞いてきました」と晶に告げた。晶は紙束から顔を上げずに「そうですか」と答える。
「元気でしたか」
「ええ、元気そうでした」
「それはよかった」
「おばあさんは……あなたに悪いことをしたと」
 また共に暮らそうと言っていたことは告げられなかった。晶は久坂の言葉を鼻で笑う。或いは手元の紙面を見て笑ったのかもしれない。晶は雑誌や新聞の切り抜きを久坂に見せる。紙やフォントの感じからかなり古いものであった。紙面には大きな印刷で「千里眼美少女 またもお手柄」「神の眼力の真贋はいかに」と無責任な煽りが踊っている。写真に写る着物姿の女は、若い頃の音無由希子であった。
 晶は笑ってそれを床に落とした。ばさばさと散らばる紙片の中、切り抜かれた記事の一枚の写真が目につく。まだ幼い音無由希子が着物姿で伏し目がちにしている写真であった。その背後で、おかっぱ頭の少女が何とも言えない目付きで音無由希子を睨んでいる。大きな目。尖った顎。
「ばっかみたい」
 晶は笑声混じりにそう言った。久坂は床に散らばる紙片を撮影し続けていた。考えていたのは、おそらく、これでは画面の大部分にぼかしをかける必要があるということだった。