終
配信動画初回の撮影のために会議室を借りることにした。晶の身元につながる画面上の情報は少ない方が晶も安心して取材に応じられるだろう。久坂は貸し会議室にかけた予約の電話を切りながら、ふと思い至ることがあった。
久坂は音無晶のことを知らない。
事件のことは聞いた。家族のことも。だが久坂はこれまで晶自身のことを知ろうとしてこなかった。事件の取材のためには必須の情報ではない。加えて現在の晶のことは一切記事にしない約束であった。だが、晶自身の異様な証言、叔母への発言に対する激しい反応、祖母の持ち物に対する染み出るような怒り、看過するには立て続いた。音無晶は何を隠しているのか。誰を庇っているのか。それとも何者かに脅迫されているのだろうか。ジャーナリストの勘が「音無晶を調べろ」と告げる。
久坂は思い立つなり晶の通う大学に向かった。晶の所属している学部の、顔の広そうな生徒に声をかけて情報を募った。だが誰に聞いても「顔は知ってるけど話したことがない」「同じ講義とってるけどめちゃくちゃ真面目に受けてるから声かけらんない感じ」という答えが返ってきた。
唯一、男子学生のグループに声をかけたときに「同じコースだから飲み誘うけど、いつも断られるんだよな」「なんか金ないらしいよ、苦学生だって」「え、マジか、知らなかった。迷惑だったかな」と言い交わしているのを聞いた。晶が勉強とバイトばかりしているというのは事実であるらしい。
埒があかないので久坂は晶が十八歳まで生活していた児童養護施設に電話をかけたが、当然「所属児童に関する個人的な質問には答えられない」と素気なく電話を切られた。ならばと施設から通える範囲にある公立学校をあたり当該施設から登校している生徒を捜し当てる。中学二年生の少女は「音無晶のことを聞かせてほしい」と申し出る久坂に胡乱気な目を向けたが、謝礼を支払うと言えばおずおずと話し出した。
音無晶は主張の強いタイプではないが、施設内では一目置かれていた。一線を引かれていたと言ってもいいかもしれない。それはやはり巻き込まれた事件の異様さが原因であった。晶は積極的に徒党を組むこともなければ、かといって孤立し虐められているわけでもない。少女は「私は晶さん、結構好きだったよ。優しいし、宿題とか見てくれるし。それに、晶さんがいるといじめっ子がおとなしくなるから」と言った。久坂は最後の言葉に「それはなぜ」と問う。晶はいじめの現場に割って入るようなタイプにも素行不良の児童を束ねるようなタイプにも見えない。少女は「わからないけど、雰囲気かな」と首をかしげた。
久坂は少女以外にも何人かの児童に取材を行ったが、目新しい情報は出てこなかった。しかし皆口を揃えて晶がいる間は施設が落ち着いていたと言う。晶が施設を出てからは、少しずつ荒っぽい児童が入所するようになり、他の施設と変わらない程度にはトラブルが起きているらしい。
――考えていることがある。荒唐無稽な仮説だが、一応辻褄は合う。樋田ユカリは託宣の能力を持ちながら音無由希子に音無家を追い出された。或いは、追い出されたと一方的な怒りを感じていた。だから己の血を分けた娘が音無家に欲されることを望んだ。そして家族を集め、殖やした。久坂は管理の悪い養鶏場のように部屋に人間が詰め込まれていた痕跡の残る樋田家を思い出し怖気を震う。
晶は己の家族が歪であった根源を、あの家に探しに行ったのか。そして掠れる鉛筆で描かれた血縁の細い線と祖母の執着の行方を目の当たりにして「ばかみたい」と嗤った。久坂はそのときの晶の心境を思うと胸に苦いものばかりがこみ上げる。
久坂はそんなことを頭の片隅で考えながら晶との撮影当日を迎えた。白い壁の会議室には長机とパイプ椅子が並んでいる。久坂は長机を一部どけて撮影機器を置くスペースを作った。ホワイトボードを背に長机とパイプ椅子を二脚設置し、それらにビデオカメラを向けた。画角に椅子が二つともおさまることを確認しているところで、会議室のドアが開けられる気配がした。晶が久坂を見つけ、微笑む。
「こんにちは、久坂さん。何かお手伝いしましょうか」
「いえ、大丈夫です。そこに座っててもらっていいですか」
久坂はレンズの向く先の椅子を指し示す。晶は言われるままに椅子に座った。
「今日は、日車さんはいらっしゃらないんですか」
「はい、日車さん今日は公判なので」
「ああ、あの盛岡の?」
そう、と晶は苦みを飲み下すように強張った笑みを浮かべる。久坂が「どうしました」と尋ねると、晶は「いえ」と短く答えた。久坂は何気なさを装って言葉を継ぐ。
「日車さんは、晶さんをとても可愛がってくださっているんですね」
晶の双眸がすいと久坂を向く。久坂は努めて録画中の液晶画面だけを見た。液晶を見ていてさえ晶がカメラのレンズではなく久坂自身に視線を送っているのが分かる。そうですかね、と晶は曖昧な返答をした。
「日車さんが晶さんを特別目をかけてくれるのは、何か理由があるんですか」
樋田まおには、他者の好意を己に向ける力があった。それは生来の性的魅力に由来するのかもしれず、樋田ユカリから受け継いだ異能かもしれない。樋田はすみの娘である晶には託宣の力がないと樋田ユカリは判断した。その名は家系図から消されていた。だが本当にそうか。
晶は首を横に振る。
「日車さんは、こういう状況にあるのが私でなくても同じことをします。正しい人だから。私が日車さんを特別好きなんです。ずっと追いかけてる」
「――なぜ?」
「日車さんは、私の正しさだから」
久坂は液晶の中の晶を見つめる。晶は本当に「役立たず」なのか。施設で晶の周囲だけ奇妙に凪いでいたのは。日車が晶に温情をかけるのは。樋田まおの力の話に激しい拒否反応を見せたのは。樋田ユカリの「あの子には悪いことした」の真意は。――己は。己はどうだ。
音無晶には樋田まおと同じ力があるのではないか。
「晶さん、」
久坂はカメラを晶の表情にズームする。
「あなたにも、不思議な力があるんですか」
ふつ、と耳の奥で妙な気配がした。しゅわしゅわと舌の付け根でラムネが溶けるような感覚があり、急速に世界がひらがなになっていく。あ、と小さく呻くとその音が脳の中でわんわんと反響した。目を閉じ、それをやりすごす。しばらくして目を開けると、発作のような感覚は嘘のように過ぎ去っていた。
会議室に白い布を被った人影がひしめいている。白布の下で何かがぽそぽそと何かを呟いていた。一つ一つの音は小さいが、部屋中にいるのでざわざわと空気が揺れる。枯れ葉を揺らす細枝のようなそれらは天井に届くほど細長い体を折り曲げ、瘦せこけた黒い手を久坂の肩にかけ、耳元でかわるがわる何かを囁く。意味は分からなかった。分かってはいけないのだとうすぼんやりと理解した。
「私にですか? まさか」
晶は明るく笑ってそう言う。久坂は落胆と安堵を同時に感じながら「いや、そうですよねえ」と苦笑した。久坂の頬を幾重もの白い薄布が撫でる。矢継ぎ早に耳元に囁かれる、病葉の擦れ合う音より幽かな音が心地いい。
「あったらこんなに苦労していませんよ。まずは期末テストの答案を予言しないと」
久坂はそれを聞いて笑った。大学生らしい答えだった。音無晶は何の変哲もない大学生だ。久坂はカメラの調整を終え、晶の隣に座る。
「じゃあ、晶さん、顔は隠しますが一応レンズの方は見ていてください」
「もう撮影始まってるんですよね」
「実は晶さんが入ってきたときからカメラ回ってます」
「あ、ひどい」
くすくすと晶が笑うのと同調するように白い布の木立が揺らめく。事件のあらましをカメラに向かって話しながら、久坂はひしめく人影が己の周囲に殺到するのを感じていた。こちらに向けたはずの液晶が見えなかった。
ひととおり話した後、久坂はカメラを止めた。晶は「これで終了ですか」と眉を上げる。
「ええ、とりあえず、このくらいで」
久坂は撮影データを確認しながらそう答えた。晶は十二年も前の事件の被害者であった。事件は解決済みで、樋田ユカリは罪を償い出所している。わざわざ蒸し返し報道する必要もあるまい。需要も見込めない。久坂は己がどうしてこの件に固執していたのか分からない。若いライターが言うように、取り憑かれていたのかもしれない。
晶は首を傾げる。
「久坂さん」
「はい」
「知りたいことは、知ることができましたか」
久坂は何と答えるべきか分からず途方に暮れる。晶は口の端に笑みを乗せた。
「私は、世の中には見る必要のないものも少しはあると思いますよ」
白い何かが久坂の周囲を取り囲む。我先にと耳元に体を屈め呟く。久坂はぼんやりと宙を見ながら頷いた。晶は会議室の隅に置いていた鞄を取り上げる。ドアの方に向かいかけ「あ」と小さく声を上げた。晶は軽い足取りで久坂の前に立った。昏い双眸が久坂を見つめる。
「私がこんなことしなくても、日車さんはいつも正しい」
その言葉の意味を、久坂は測りかねた。晶は儀礼的に笑みを見せ「それじゃあ」と会釈する。
「おつかれさまでした」
ひそひそひそさわさわさわ、と会議室に低く囁きと衣擦れだけが残された。
久坂は会議室を片付け、鍵を返し帰途につく。四、五体の白い人影がゆらゆらとついてきて、思い出したように久坂の耳元に何かを囁く。奇妙な生き物が付いてきていると思った。だが、そういうものだと思った。
*
耐え難い現実に、都合の悪い真実には目を瞑ればいい。ならば、目を瞑る気力さえない持てないほど追い詰められ打ちのめされたならどうする。晶は現実を塗り潰し感受性を削り落すことを選んだ。人間は周囲の情報を集める受容器の集合体にすぎない。感知しないものは存在しないものと同義だった。晶はそれを、己の家族で学んだ。
樋田まおが悲しんでいるのを見たくなかった。樋田まおが好きだったから。理由はそれだけだ。八歳の、己が何者かも知らない、何が出来るかも知らない、愚かな少女の願いは最悪の形で成就した。
死体があるから樋田まおが泣く。だから家族全員が死体を「分からない」ようにした。加減を誤ったのだろうか、それもともとからそういうものであったのだろうか。見るべきものを見ず感じるべきことを感じず倫理の箍と良識の抑圧を蕩かした家族は容易に死と暴力に魅入られた。元から壊れていたのだ。きっかけは、きっとなんでもよかった。
死にゆく家族と家中にひしめく白い人影を見て、晶はいったいどこから間違えていたのだろうと思った。
晶は自転車を漕ぎながら、頬にぬるい風を感じていた。最近有線でよく聞く曲を口ずさみながらバイト先に向かう。今日はバイトはなかったが、大江圭太の二審の日であった。日車は常と変わらない様子であった。それでも二審で無罪はあり得ないことは晶にも分かる。日車はいわれのない怨念を受け、曲がらぬ信念に少しだけひびが入る。晶は日車に会いたい。何か慰めの言葉をかけたい気もした。他の誰が日車を恨もうと己だけは日車の正しさを知っている。真新しいぬめる傷口を見たい気もした。見たくない気もした。日車が心にかけるのは己の事件のことだけでいい。日車の美しい後悔と自責は、永劫己だけのものであってほしい。
晶は日車のようになることを求め、なれる道理もなく、焦がれ切望した。なれぬのならばせめてその傍で、揺るがぬ理念の行きつく先も、弾性のない信念が破断する様も、どちらも見たい。指針なき己の手本にしたい。音無晶には日車寛見が必要だった。
公判の結果がどうであったのか、晶は先ほどから何度もスマホでニュースサイトを更新しているが、それらしいニュースはなかった。日車からの連絡もない。時刻的にはすでに日車が事務所に帰ってきていてもおかしくないはずであった。
晶は事務所の入ったビルの、正面玄関から見えない位置に自転車を停める。事務所のドアの鍵は開いていた。重いガラス戸を晶は両手で押し開ける。血のにおいがした。
「――日車さん?」
暗いままの執務室で低い息遣いと人が身じろぐ気配がする。晶は冷たい指を壁に這わせた。ぱちん、とスイッチが軽い音を立てた。室内が白い蛍光灯の光で照らされる。床には引きずるような血の足跡、窓際のデスクに日車がよりかかっている。その背後に、死体で作った黒いてるてる坊主のような、奇妙な生き物が覆いかぶさっている。ぬるつく空気に晶の周囲の白い人影が慄き声もなく霧散する。こいつらはひどく臆病で、どうやら晶と似たような力を持つ人間の前では姿を眩ませる。だから今まで誰にも露見せずにいた。
だが日車は晶の視線の動きだけで晶が何を見ているか、それがどういう意味かを理解する程度には聡い男だった。暗い怒りを湛える三白眼が、ぎょろりと晶を睨む。晶は保身に考え至る前にただ天井を仰いだ。
「日車さん……日車さんはこっちに来ちゃだめだったのに」
泣き笑いのような顔をして、晶は肩を落とす。知られたくなかった。だが、知っていてほしかった。これまで日車の前で、これらがこういう動きをしたことはない。理由は分からねど、よくないことが起こったのは明らかだった。
低く、溜息の音がする。
「――晶」
「どうして私っていつもこうなんでしょう。ちゃんとやってるつもりなのに」
日車は寄りかかっていたデスクから体を起こす。ぐしゅ、と湿った音がした。
「晶、やったのはおまえか」
暗く沈んだ声が耳朶を打つ。その声に滲むのは怒りか、絶望か、落胆か。晶の嘆息は喉の奥で引き攣り行き場を失う。音無晶は樋田まおが好きだった。優しく美しい叔母が悲しむところを見たくなかった。日車寛見が好きだった。ただ傍にいられさえすればよかった。それだけだ。
晶は足元に鞄を落とし、淡く微笑む。
「教えてください、日車さん、これって私が悪いのかな」
カンカンカンカン、と槌が激しく打ち付けられる音がした。