かささぎ死滅回游短編1



 大宮駅の改札口をぼんやりと眺めていた。傍らのベンチに座る日車はコーヒーの紙カップを片手に通勤ラッシュの雑踏に目をやっている。晶は手にした温かいカップの飲み口を開けた。ぱきん、と軽い感触があった。
 日車はコーヒーに口をつけながら、傍らに設置された彫像の丸みを帯びた表面に手を置いた。親指が細かな凹凸を探るように彫像の表面をなぞる。晶はそれを横目に見てから改札口に視線を戻す。東京が壊滅状態にあるにもかかわらず、隣県の主要駅は通勤通学の人間で溢れかえっていた。首都が未曾有の大打撃を被ってさえ、決まった時間に決まった路線を利用しているらしい。人混みの中には昨日見かけた顔が多かった。
「万能ではないです。時間はかかるし、人の能力を超えたことをさせられるわけじゃない」
 晶が独り言のように囁くと、日車は「そうか」と脚を組んだ。黒い革靴の爪先に濃い色の染みができ、革の表面が波打っている。
 日車の視線の先に男が倒れていた。力ない半眼が宙に向けられている。口の端からつうと泡まじりの唾液が垂れ、冷たい床に滴っている。その周囲を避けるように人々が歩き去っていった。行き交う人は誰一人、男に視線を向けすらしない。
「一度に影響を与えられる人数の上限は?」
「さあ、試したことがないので。でも、人数が多いほうが――楽ですよ」
 日車は怪訝な顔をする。雑踏の中、一人の若い女が床に倒れた人間を見てぎょっとしたように目を剥いた。だが周囲の人間がそれに一瞥もくれずに先に行ってしまうのを見て、女はそれ以上歩調を緩めることはなかった。女の耳元で白い人影が何事かを囁くと、女はふっと憑き物が落ちたような顔をして去っていく。
 駅の外に消えていく女を見送り、晶は日車に向けて「ね」と笑った。日車は片眉を上げて肩をすくめた。なんとなく上滑りするような反応であった。晶の腹の底にうそ寒いものがよぎる。
「人間って、そういうものでしょう」
「そういうものか」
「普通は。だから日車さんみたいな空気読まない人は天敵です」
 晶は甘いコーヒーに口をつける。香ばしいコーヒーの香りと添加されたフレーバーの香りが鼻先で混ざり合った。日車は靴の爪先で蹲る男を示す。
「あのまま殺しても誰も反応しないのか」
 恬淡とした問いに、晶は眉をひそめる。問いかけ自体に不快感を抱いたわけではない。だが日車とはこんな話題を共有したくなかった。
「どうでしょう。それには時間が足りていないし、人の出入りも激しすぎるかも」
 晶は座っていたベンチから立ち上がり、日車の傍らに座る。日車は目だけを動かし晶の方を見た。
 晶には他人とは違う「できること」が二つある。ひとつは、他人に意にそぐわぬ行動を強要すること。もうひとつは、他人の意自体を塗り替え行動と感情を歪めてしまうこと。晶は経験上、前者を行使したときにその場に痕跡が残ることを知っていた。それは名状しがたい感覚で、視覚とも嗅覚とも性質が異なっている。ただそこにあるということだけが分かる。そして、大江圭太の二審以降、日車にその痕跡が残されている。
 日車自身のものではない。当然晶のものでもない。会ったことのない誰かのものだ。それは冷たく、複雑で、苦く、痛みを帯び、金属臭と血臭を纏い、昏く、重い。これを残した知らない誰かが、日車の常識の枠を少しだけ拡張した。晶はそれを救いのように思いもし、許しがたくも感じた。
 晶は日車の目もとに手を伸ばす。日車のこめかみのあたり、触れられるわけでもなく、熱くも冷たくもない。そこにあるのが分かるだけのそれが意識の端に絡みついた。
「人は思いのほか精緻なバランスで成り立っているので」
 目の前の男が慣れたはずのささやかなひと押しで容易く一線を踏み越えたように。晶は唇の端で暗く笑う。
 床に這う男に躓いた中年男が突然唸り声をあげ、猛然と倒れた男に掴みかかる。雨に降られた蟻の群れのように雑踏がわっと統制を失う。何にも気が付かず歩き去る者、突然の乱闘に慌てふためく者、嫌悪感を示す者、喜色を滴らせる者、ざわめきは反響し合うように強くなり、やがて誰かが遠くで悲鳴を上げた。
「慎重にやらないとこうなります」
「ああ、おまえの家族みたいに」
 日車は面白そうに肩を震わせる。晶は無感情に「そうです」と答えた。
「気分を害したか?」
 笑声の残滓を滲ませながら、日車は晶の顔を覗き込む。晶は静電気のような短く烈しい怒りを感じてはいたが、それは日車の言葉に対してではない。日車がそれを言ったこと自体に対して、或いは日車にそれを言わせた何者かに対して、加えるならば日車が自壊することを受け入れるに至る理不尽な世界に対して、晶は怒りを感じている。
「どちらかといえばそうです」
 アンケートみたいだな、と日車は眼前の喧騒に視線を戻した。駅員が集まり倒れた男を介抱している。
「悪かったな、好きな子ほどいじめたくなるタチだ」
「スベってますよ」
「スベったな」
 日車は空になって久しいカップを片手で握り潰す。大きく骨張った手の中でカップが形を失っていくのを、晶はじっと見つめていた。日車さん、と晶は日車の手の内から目を離さぬまま口を開く。
「これからどこに行くんですか」
「死滅回游」
 聞き慣れぬ言葉だった。だが不吉な音だ。晶は「はあ」と曖昧な返事をする。日車はふと眉を上げ「言っていなかったか?」と言い、上着のポケットから手帳を取り出した。白いページに延々と何かを書き付け、それを破って晶に手渡す。死滅回游の字と、後に続く八の総則に晶は目を通した。
「泳者は術式覚醒後――」
 晶が口中で呟くと、日車は無言で自身の胸元を指差した。晶は目を瞑り、背を丸めて紙片に額を押し付ける。
「……最悪」
「そうでもない。総則を無条件に他者に強制するシステムは興味深い」
 システムの外から鑑賞するだけならそうかもしれない。だが渦中に放り込まれることは想定したくもない。白く痺れる頭で端正な字をなぞるように見るだけの晶をよそに、日車は捻り潰したカップをゴミ箱に放り込んだ。次いで一口だけ中身の残った晶のカップも取り上げゴミ箱に入れる。
「行くぞ」
「――どこに」
「東京」
 なぜ、という言葉は喉のあたりにつかえて出てこなかった。晶は生まれついての術師だ。死滅回游に参加するメリットを何一つ持ち得ない。晶が何も言えずにいる間に、日車はベンチから立ち上がり駅の出口に向かっていた。
 晶はこのまま改札を抜け、下りの新幹線に飛び乗り寮の自室に帰りつく己を思い描いてみもした。思いつく限り最良の選択肢を持ちながら、晶はどうしてかそれを選べなかった。手帳の切れ端を握り締め、雑踏に紛れようとする日車の背中を追った。
「――どうやって東京まで行くんですか」
 晶は報道で東京の惨状を知るばかりだが、東京への出入りが困難であることは承知している。大宮駅の構内に貼られたポスターが、現在あらゆる交通網が東京との県境で断絶していることを利用者に告げていた。
「車か徒歩だろうな」
「徒歩!?」
「五時間くらいだ」
「え、意外と近いんですね」
「関東は狭いな」
 日車はそう言いながらタクシープールに足を運ぶ。晶は諾々とそれに従った。日車はプールの先頭に並ぶタクシーの後部座席に乗り込んだ。晶は開け放たれたままのドアを眺めしばらく迷ったが、ため息まじりに日車の隣に座る。
 老齢のタクシー運転手が、慣れた動作でメーターに手を伸ばす。
「お客さん、どこまでです」
「東京まで」
「あー……東京は今行けないですよ。ご心配なのは分かりますけど……」
 運転手は申し訳なさそうに言った。日車は晶の方に視線をやり「歩くか? 五時間」と唇の片端を上げた。晶は肩をすくめる。
「運転手さん、東京まで」
 晶が囁くと同時にタクシーはがくがくと揺れながら急発進する。晶は助手席のヘッドレストにかけられた広告に写る笑顔の女性を眺めながら「便利な足として使うために連れてきたんですか?」と鼻を鳴らした。
 日車はタクシーのドアに寄りかかりながら何か考えるように宙を眺める。それきり黙り込んでしまったので、晶はぼんやりと車窓の景色と手元の紙片に視線を行き来させていた。
 何気ない景色は徐々に非日常を帯びていく。人の気配が絶え、緊急車両やフルスモークのバンとばかりすれ違うようになっていく。
「いや」
 突然の短い答えだった。日車の手がぬうと伸ばされる。緩く握った拳の、硬い指の背が晶の頬を撫でた。常と変わらず無愛想で静かな手つきで、だが晶を気遣い必ず一定の距離を保ってきた日車が衒いなく晶の体に触れたことに、晶は複雑な気分になる。日車は晶の知らない生き物になってしまい、しかしそれでも確かに日車であった。
 日車の指が晶の頬を滑り落ち、首筋に当てられる。冷たい指に体温を奪われた。日車はしばらく晶の首筋に指先を当てたままにし「動揺していないな」と低く呟いた。晶はそれを聞いて痙攣のように笑った。
「そうですね、大抵こうです。別に冷静なわけではないですよ。何が何だか分からなくなってるだけ。だんだんとそういうものだと受け入れてしまうだけです。生まれ持った性質かもしれませんし、自分で自分を呪っているのかも」
 引き攣る笑声はやがて溜息に変わる。
「私の正しさは日車さんだけです」
 晶は己自身に言い聞かせるように小さく囁く。日車は朝の日差しが差し込む白っぽい車内に似つかわしくない暗い顔をした。
「俺はいつも正しいか」
 晶は広告の女の、くっきりとした二重の目に爪を立てた。インクが剥がれて爪の間に入り込む。
「日車さんはいつも正しい」
 無心で女の目を削り取りながら、晶は譫言のように繰り返した。
「同じ地獄に落ちるんだろう」
 いつか言った言葉を投げ返され、晶は眉根を寄せて笑った。
「ええ、でもこんなガチ地獄は想定していなかったです」
 晶にとって、日車は特別だった。特別な人間で、大切な存在だった。それはきっと日車にとっての晶もそうで、二人はもっと上手く小狡く立ち回り支え合い傷を舐め合う、そういうささやかな地獄を共有し得たはずだった。誰かの手の内で終わりのない殺戮を繰り返すような地獄ではなく。
「日車さん、そんなに壊れきらないと、私の憧憬を受け入れられませんでしたか」
 晶が目を細めて問うが、日車からの答えはなかった。日車の手はウインドウの縁に乗せられ、指が一定のペースで窓の開閉スイッチのあたりを叩いている。かりかりと引っ掻き続けていた広告の厚紙に穴が空いた。晶は指先についた削り屑を吹いて落とす。
「そんなに壊れちゃったのに、素直に傍にいてほしいって言えないんですか」
 晶は日車の緩んだネクタイを掴んで強く引く。日車はかすかな感情を眦に浮かべていたが、穏やかに凪いだ表情をして晶を見返す。晶の冷えた指先が捉えどころのない情動で震えた。
「誰かに日車さんを壊されるくらいなら、私が壊しておけばよかった」
 見も知らぬ何者かに、大切なものを雑に弄ばれた。晶はそれが何より腹立たしい。己ならば、もっと丁重に、もっと精緻に、誰にも気付かれず、本人にさえ気取られず、静かに、美しいままに、幸福に、壊すことができたのに。
 日車は昏い目を晶に向けると少し笑った。以前の笑みに似ている気がした。
 そのとき車が急停車し、晶は助手席の背もたれにしたたかに体を打ち付けた。運転手はサイドレバーに置いた手をぶるぶると震わせながら「お客さん、東京は行けないですよ、お客さん、」と繰り返す。晶は自身の肩をさすりながら呻いた。
「よっぽど東京が怖いんですね」
「どうにかなるか?」
「三日くらいかけて東京は怖くないよって理解らせてあげるとか」
「……歩いたほうが早いな」
 さっさとタクシーを降りる日車のあとを、晶は慌てて追った。
「あのタクシー借りればよかったのに」
 日車に追いついた晶が走り去るタクシーを横目に言うと、日車は「ああ」と視線を上にやる。
「思いつかなかったな。別にいいだろう、急ぐわけでもないし。東京観光と洒落こむか。何か見たいものあるか? 壊されていなければだが」
「ディズニーランドかな。行ったことがないので」
「それは千葉だ」
 晶は空虚な笑みを浮かべる。そうしていると、何もかも平穏にさえ感じた。砕けたコンクリートの破片を蹴りながら、晶は日車の傍らを歩く。破片が地面を転がるたびにからからからと乾いた音がした。
「総則、おかしいと思わないか」
 不意に日車がそう言う。参加者に殺し合いを強いる総則を何もかもおかしいと思っている晶は、日車が突然あまりにも当然のことを言うので胡乱な顔をした。日車は晶の表情を気にせず先を続ける。
「永続を謳っているのに泳者は減る一方だ。最後の一人はどうなる」
「さあ」
「真面目に考えろ。管理者の経験があるだろ」
「え? ……ああ、まあ、確かに」
 似たようなことをした気もする。晶は口元に手をやり首を傾げた。
「――このことに気が付いた誰かが結界の外から泳者を定期的に供給する総則を追加したいと考えるじゃないですか。そうしたら、人が減る前に急いで得点を集めなければないから、それを誘発するため、とか」
「悪くない」
「でもこれじゃあ強いアホがいたらすぐに終わっちゃいますね」
「避けたい事態だろうな」
 それからぽつぽつと死滅回游と総則の話をした。別に楽しくはなかった。だが日車は総則をかなり読み込んでいるようで、論理立って内容を理解していた。死と混沌の気配を把握しながら喜色さえ浮かべて結界を目指す日車が、その理性と狂気の狭間が、晶には恐ろしかった。だが日車はずっと昔からそういう人であったかもしれない。
 おーい、ちょっと、と声をかけられ、晶は声の方向に顔を向ける。警察官の制服を着た男が誘導灯を二人に向かって振っていた。
「ここから先、入れませんよ。危険なのでお帰りください」
 警察官の背後で簡易なバリケードが道を塞いでいた。日車が何も言わぬまますいと前に出るので、晶は警察官の耳元で黒い人影に囁かせる。警察官はぎくしゃくした動きでバリケードを除け二人を先に通した。
 人が死ぬのはあまり見たくなかった。正確には、日車が誰かを死なせるのはあまり見たくなかった。
 晶は眠たげな目を宙に向ける警察官を後目に、己自身を宥めるように肩をすくめる。
「人死には少ないほうがいいですよ」
「俺の母親もよくそう言っていたな」
「いいお母さんですね、私の祖母の教えは食事の前と殺人の後は手を洗えでした」
「いい祖母じゃないか」
 晶は居心地の悪いやりとりの不毛さに喘鳴のように笑った。日車も低く笑うので、晶はどうしようもなくなってしばらく笑っていた。誰もいない静まり返る東京に、二人分の笑い声だけが妙に響く。
 道すがら、砕かれたアスファルトや道路標識が打ち捨てられていた。何が起きたものか、削り取られるように崩壊した建物もある。晩秋の日差しを反射してきらめく総ガラス張りのビルが、ケーキのように切り分けられていた。切り口からぱらぱらと落ちるガラスの粉が日の光で白く雪のように光っていた。
 晶は積極的に他者を害する力は持っていない。強固に己を守る力もない。晶は鉄筋のビルさえ破断する大きな力が己に向いたときのことを考える。痺れるような恐怖を覚え、晶はその恐怖を檻の向こうの獣を眺めるような気分で感じていた。
 やがて道の先に異様な黒い壁が見える。晶はそれを見上げた。首が痛くなるような高い壁だった。立ち尽くす晶を日車が招き寄せる。晶は求められるままに日車の正面に立つ。日車は晶の頭に手を置いた。親指が眉のあたりを撫でる。かつて晶が幼い頃、そういうことがあった気がした。記憶違いかもしれなかった。
「死んだら一生気に病んでやる」
 日車が心底楽しそうにそう言うので、晶はそれなら日車の前で悲惨な死に方をしてもいいと思った。