十一月三日
晴れ 二〇.二度 一〇.六度
――被告人は二〇〇六年八月二十一日に東京都在住の女性に暴行を加え、全治六ヶ月の重傷を負わせた。また制止に入った男性三名にそれぞれ重軽傷を負わせた疑いがある
ジャッジマンの宣言を聞いた楠木は被告人席の手摺に力なく寄りかかった。青褪めた唇が戦慄く。声にならない呻き声はおそらく「なんで、でも、」だった。
「ジャッジマンはこの場にいる人間の全てを知っている。君に出来るのは、ジャッジマンから無罪を勝ち取ることだけだ」
すでに二人の男が頭蓋を割られ床の染みになるのを楠木は目の当たりにしていた。その手順も、仕組みも、顛末も一通り目にし、ついでとばかりに復習もさせられた上で、楠木には己の助かる道筋が見えていないようであった。手摺を掴む手の甲は白く強張り、困惑と恐怖を浮かべた双眸が忙しなく領域を眺める。
「あ、あの、私、あの人たちに追われていただけで、あなたの邪魔をするつもりも、攻撃するつもりも、全然なくて……」
引き攣る喘鳴を交えながら途切れ途切れに楠木は弁解する。日車は証拠の茶封筒を片手に楠木に視線をやった。
「申し開きはそれでいいのか」
ああ、いや、ちがう、と楠木は肩を縮こまらせて被告人席で身を折る。手摺に置いた手が痛々しく震えていた。木製の手摺に楠木が額を打ち付ける音が鈍く響く。日車が淡々と先を促すと、楠木はうんざりするような時間をかけて上体を起こした。
「わ、私は――職業が女子プロレスラーなので……怪我はさせてしまったけど、わざとじゃなくて……試合中の事故でした」
楠木は震える声でそう言った。暗い表情を俯かせている。楠木にしてみれば反芻したくない記憶の一つであっただろうか。
日車の手元にある証拠は一葉の写真であった。女が一人白いマットに倒れている。華やかなコスチュームは血で汚れ、舞台化粧を施した顔は見るも無残に腫れ上がっている。額が割れ、とめどなく血が流れていた。腕の関節は騙し絵のように捻じ曲がり、折れた歯と鮮血がマットの上に点々と落ちている。
日車はその写真を楠木に示した。楠木は小さく呻くと目を閉じ顔を背ける。
「頭部裂傷、眼底、頬骨を骨折、右前腕を骨折、脱臼、靭帯の損傷、歯は三本折れている。目撃情報によれば被告人はレフェリー他男性スタッフの制止を振り切り被害者への殴打を行っている。被害者は回復後も右腕の痺れを慢性的に訴えており、事故で収めるには執拗な暴力を振るわれたと言っていい。これは事故ではなく、故意の暴力行為による障害事件と見做すのが相当だ」
カン、と木槌の乾いた音が響く。楠木がびくりと肩を震わせる。
――有罪、拘禁、没収、但し執行猶予
ジャッジマンが粛々と宣告した。領域が解かれ、縋る手摺を失った楠木は崩れるように冷たいアスファルトに膝をつく。周囲は乗り捨てられた車が列を成す路上であった。人の気配を失った東京の街並みで、高層ビルのガラスだけがきらきらと陽光を反射している。一時停止の標識が折り曲げられ、弱い風が吹くたびにキイキイと鳴る。
執行猶予、と日車は口中でジャッジマンの宣告を繰り返す。日車もそれほどこの術式を使い込んでいるわけではないが、はじめて聞く判決であった。かつかつと硬い足音をたてながら近づいてくる日車に、楠木は両腕で顔を庇うようにして体を丸める。
「どうなるんですか、私」
「さあな、俺にも分からない」
目の前に立つ日車の姿を見上げ、楠木は眉尻を下げる。
「殺さないで」
「死にたくないのか、この状況で」
死んだ方が楽なんじゃないのか、と日車は口の端を歪めた。戯れのように刻まれた呪詛で殺し合いを強制されている。愉快な状況とは言い難かった。それでも楠木は力ない双眸を虚ろに日車の背後に向け「死にたくない」とぼんやりと呻いた。
「なんでもします」
楠木は掠れる声で言う。日車は楠木の目の前で膝を折り屈んだ。腕の向こうで楠木が呼吸を引き攣らせる気配がした。日車は右手で木槌を弄ぶ。
「なんでもすると言ったって、何が出来るんだ」
日車が言うと、楠木は腕の間から困惑気な目で日車を見る。楠木はしばらく黙り込んでいたが、日車が返答を待つ様子であるので泣きそうな顔をした。
「……高いところのものを取ったり」
「命乞いを本気で考えた結果がそれなら頭が悪い」
楠木はのろのろとその場で立ち上がった。日車もそれに倣い立ち上がる。楠木は怯えて背を丸めていたが、決して小柄ではない日車と目線の高さが変わらない。日車が「確かに高いところのものは取りやすそうだ」と言うと、楠木はわずかに表情を緩める。
「他には?」
楠木は「他に?」と再び表情を強張らせた。楠木は震えながら定まらない思考を巡らせた後、引き攣る顔に追従の笑みを浮かべる。
「わかんないんです、私、何ができるんでしょう……」
それを聞いた日車は辟易として溜息をつく。こちらの生命を脅かす気もない今にも泣き崩れそうな女をなぶって喜ぶほど落ちぶれてはいない。ここで殺さずとも、誰かが片を付けるだろう。日車は黙ってその場で踵を返す。背後で緊張の糸が切れた吐息の音がした。
その場を立ち去り歩き出す日車の後ろを、スニーカーを履いた足でアスファルトを遠慮がちに蹴り出す音がついてくる。日車はしばらくそれに聞こえないふりをしていたが、そのうち堪りかねて足を止める。日車が止まると楠木も止まった。
「どうしてついてくる」
すみません、と楠木は眉尻を垂れた。日車は「謝罪を求めたわけじゃない。理由を聞いている」と冷ややかに続ける。楠木はぎゅうと目を閉じた。
「一人だと、怖いので……」
「俺のほうが怖いだろ」
ひゅ、ひ、と楠木は出来損ないのしゃっくりのような呼吸を漏らす。日車の言葉に笑って見せたかったらしい。
「他の人よりは、少しマシかなって」
「ならもっとマシな奴を見つけろ」
再び歩き出す日車の背後で先ほどよりも速いテンポの足音が付いてくる。不意打ちのように日車が振り向くと、楠木は数歩蹈鞴を踏んだ。前回振り向いたときより距離が近い。
「し、執行猶予って」
楠木の声が裏返った。楠木はもう一度言い直しながら、日車の表情を窺う。
「罪にはなるけど、罰を受けるまで時間があるってことですよね」
日車は黙ったまま楠木の顔を見返す。楠木は嗚咽のような呼吸を漏らした。
「このままだと、死ぬってことですか?」
「さっきも言っただろう、分からない」
楠木はその場で吐きそうな顔をした。
日車はまじまじと目の前の女の所在なさげな姿を見る。己の術式の輪郭を知るために、執行猶予の宣告を受けた人間の行末は知っておいて損はない。だが結界内で誰かと連れ立つ気力もない。日車は額に垂れた髪を掻き上げる。その仕草を見た楠木は何を思ったのかまた「なんでもします」と呻いた。
「高いところのものを取るのは間に合っている」
唇を噛んで言葉を探す楠木と向かい合ったまま、日車は手の内で木槌を握り直す。楠木はぎょっとして後退った。二人は込み入った路地裏にさしかかるところであった。衛生的とはいえない隘路は、たった数日人の往来が絶えただけで饐えたにおいが濃く充満していた。
物陰から現れたのは四人組の男であった。男たちは怯えた視線を交し合い、誰が一番最初に日車と楠木を傷つけるかを押し付け合うような素振りを見せる。日車は大股で男たちに近寄ると、そのうちの一人の脳天に躊躇なく木槌を振り下ろした。
ぼぢ、と耳慣れぬ音ともに男の頭部が破砕する。残った男の一人は早々に悲鳴を上げ逃げ出し、一人は全身に脳漿を浴び声もなくその場にへたりこんだ。一人だけが、女ならば命を奪えると考えたのか楠木に掴みかかろうとした。楠木はさし伸ばされた男の手首を掴み、地面に引きずり倒し、肩と肘の関節をねじり上げた。湿った硬い地面に腹這いになった男が苦しげに呻く。日車はそれを見て「めそめそしている割には動けるのだな」と思った。
日車は、悪罵を口にする男と、男の背の上の楠木を見下ろす。
「それで、どうするんだ」
日車の背後でコガネがポイントの加算を告げる。楠木はそのコミカルな声音を聞いて顔をひきつらせた。
「どう、って……」
弱々しく呻く楠木の前に日車は屈み視線を合わせる。
「カウントを取ったら勝負がつくわけじゃない。殺すか、殺されるかだ」
総則を読んだんだろう、と日車が問うと、楠木は力なく首肯する。へたりこんでいた男はいつの間にか姿を消していた。薄暗い路地でもはっきりとわかるほど楠木の顔は青ざめている。
「なら、どうする」
「……殺さないと」
楠木は小さく呟き、男は喉の隙間から命乞いを絞り出す。楠木は男の動きを拘束した完全に優位な状況にありながら、親に叱られる幼子のような顔をした。
「こわい」
ぽつりと囁かれた言葉に日車は鼻を鳴らし、男の頭蓋を砕く。楠木の腕の中で男の首からドボドボと血が噴き出した。楠木は悲鳴を上げるでもなく、数秒前まで生きていた男の肉体を視界に入れぬように強張る動きでそろそろとそれから離れた。冷えていく体がどさりと地面に落ちる。
日車は血で汚れた木槌を投げ上げ、くるくると弧を描きながら落ちてくるそれを受け取る。落下する木槌は奇妙に手に馴染んだ。何度目か投げ上げた木槌が宙でぱっと消えた。
「なんでもすると言ったな」
楠木の上着には血飛沫が跳ね、そういう柄のようになっていた。
総則に目を通してから引っ掛かっていたことがある。法と倫の及ばぬ遊技盤の上であってさえ、果たして現代日本に生まれ育った人間がたやすく殺戮に手を染めることが可能なのか。人並みに生に執着し、人並みに他者を傷付けることを厭い、人並みに死を恐れる楠木を、死滅回游の総則はどれほど効率的に追い詰めるものであろうか。
「君が、自らの意思で人を殺めるところが見たい」
日車は唇の端に笑みめいたものを浮かべる。楠木はしばらく呆気にとられ立ち尽くし、それから消え入りそうな声で「がんばります」と唸った。
日車は乾きかけた血のこびりついた手を楠木に差し出す。
「日車だ。日車寛見」
楠木は日車の手をおずおずと握る。身の丈に応じて大きなてのひらは、だが節が目立たないすんなりとした姿をしていてやわらかい。楠木ははっとしたように己も名乗った。日車は楠木を領域に取り込んだ時点で名前は把握している。
「私にできるでしょうか」
楠木は日車の手からなすりつけられた手のひらの血痕を眺めながら言った。
「できなかったところで、術式を剥奪されるか、執行猶予が切れるか、いずれにせよ俺には興味深い」
そうですか、と楠木は両手で顔を覆う。
「わ、私……人を殴るのだって怖かったのに……」
日車はその様子を呆れながら眺めた。
「そんなんでどうしてプロレスラーなんかしていたんだ」
浅い呼吸の音がした。
「……家族を養いたくて」
「孝行で善良だな、なおさら結構」
体格がいいからスカウトされたけど、人前に立つの苦手だし、華がないし、今の若い子背が高くて可愛い子いっぱいだし、派手な技も使えないし、全然向いてなかったんです、でもこれしかできることもなくて、弟には大学まで行ってほしかったし、と恨み言のようになっていく楠木の言葉を日車はうんざりしながら手で制した。
「もういいだろ、どうせ興行なんか楽しめる世の中ではなくなったんだ」
日車が言うと、楠木は憑き物が落ちたような顔をして日車の顔を見つめた。日車は己の顔を穴の空くほど見つめられるのが居心地悪く、踵を返す。背後で楠木がとぼとぼとついてくる気配がした。
「じゃあ私、失業しちゃいましたね」
黙々と歩いている途中で突然投げかけられた言葉は、声量こそ小さかったが安堵の滲む声音であった。日車は振り返りすらせず「そうなるな」と応じた。
「日車さんは……仕事のしやすい世の中になりましたか」
楠木は俯きがちに歩きながらぽつんとそう言う。日車の喉元に苦いものがこみ上げた。それを飲み下し「そうかもな」と答えたあとに、なぜ楠木が己の職業を知っているのだと眉をひそめる。
「どこかで会ったか?」
日車はかつての仕事を思い出す。やはり楠木に覚えはなかった。楠木は無言で己の左胸を指差す。日車は自身の胸元に手をやる。指先にひやりと金属の感触があった。楠木は「それってあれですよね」と言葉を続ける。
「代紋ですよね。日車さん、や――、ぼ――、は――、ご――、…………任侠の方ですか」
日車は指先で向日葵を象ったバッジを指先で弄んだ。
「まあ……ヤクザな商売と謗られることはあるが、本物と間違えられたのは初めてだな」
言葉の意図を捉えあぐねて胡乱な顔をする楠木に向けて、日車は上着の襟を引っ張って見せる。
「弁護士だ」
「弁護士さん」
楠木は目を丸くした。
「……弁護士って人を殺してもいいんですか?」
「言わんとするところはなんとなく分かるが、人を殺してもいい職業はない」
「あ、はい、すみません」
楠木は肩をすくめ「弁護士さんだったんですね」と吐息のように呟く。日車は楠木の態度が軟化したのを感じた。
「弁護士の佐々木さんって知ってますか」
ありふれた姓である。それだけで特定はできないだろう。楠木は「前に親切にしてもらったんです」と曖昧に笑った。弁護士は比較的に社会的信用度の高い職業かもしれないが、この状況で職業一つで他人を信用するのは賢明とは言えなかった。
「弁護士が善良とは限らない」
日車の言葉に楠木は上着についた染みをいじりながら神妙な顔をした。
日の傾きかけた秋晴れの空に大きな鳥がふっと現れては消える。十月三十一日を境にこれまでせせこましく築き上げてきた常識の砦はたやすく打ち崩されてしまった。楠木も異形が我が物顔で飛び交う空を見上げて「どうしてこんなことになってしまったんでしょう」と呟いた。日車は「日頃の行いが悪かったんだろうな」と気のない返事をした。それに返答はなかった。かすかすとした溜め息だけが返ってきた。
通りの先を悲鳴とともに男が駆け抜けて行く。そのあとを女が喚きながら追いかけていった。騒がしいな、と日車が言うと、楠木は浅く頷いた。喚きあう男と女はチェーンのファストフード店に縺れながらなだれ込んでいく。路面のガラスが爆風とともに吹き飛んできた。
二人は手近にあった小奇麗なマンションに避難する。万全のセキュリティを施したオートロックのエントランスドアは圧倒的な暴力の前には無力だった。住人のために磨かれたガラスドアはきらきらときらめきながら粉々になって崩れた。エントランスは人の気配がないにも関わらず、空調が行き届き照明が灯っていた。
エレベーターに乗り込む。整然と並んだボタンを前に日車が「好きな数字は?」と言うと、楠木は怪訝な顔で日車を見る。楠木が何か答える前に日車は八階のボタンを押した。築浅マンションのエレベーターはなめらかに上昇する。
八階のフロアには焦げ茶のドアが整然と並んでいた。日車は一室の前に立ち、電子ロックのドアを指差す。
「君、壊せるか?」
楠木は分厚いドアを見つめて「……無理ではないでしょうか」と遠慮がちに答えた。堅固なセキュリティのためのドアが素手で破れたら意味をなさない。だが日車は自身の領域を構成する力を肢体に流し込むことで常軌を逸した膂力を得られることをすでに明らかにしていた。
「泳者ならできるはずだ」
日車に促されるまま楠木はドアの前に立った。金属のドアノブを握る。押し開けようとしても当然のようにドアはびくともしない。楠木は困惑したように日車を見た。
「腹の立ったことでも思い出してみろ。悲しかったことでもいいぞ」
日車が言い終わる前に、ドアノブが破裂音をたてて砕けた。電子ロックもろとも破壊されたドアが力なく開く。日車はドアと、呆然と手の内のドアノブの残骸を見下ろす楠木を順に見た。
「ストレスが溜まっているんじゃないか」
日車の言葉に楠木は「そうなんですかね」と眉尻を下げた。日車は彼女を死滅回游に巻き込まれた非術師かとも考えたが、その可能性は消えた。おそらくは己とはまた毛色の異なる術式持ちであろうとあたりをつける。
楠木は手の内で破壊された頑丈な金属部品を見つめて表情を強張らせたが、泣きも喚きもしなかった。そういう尋常でなさをいちいち取り沙汰し感情を漣立たせる段階は、二人ともとうに乗り越えていた。
日車はドアを押し開け室内に入る。楠木が背後で「えっ、ひとんち、いいんですか!?」と声を上げた。もはや東京で居住権を主張するのも馬鹿馬鹿しかった。玄関は石張りで広々としている。何足か置かれたままになっている靴を見ると、日車と同年代の男の独り住まいであったようだ。知らない誰かの自宅のにおいがする。楠木が後ろ手に壊れたドアを閉めた。
「ドアを壊して入るの、ドラマみたい」
誰に言うでもなく楠木が呟く。日車はそれに「次は蹴破るか」と答える。楠木が控えめに笑った。室内の安全を確認する日車を後目に楠木は使用感のないキッチンをしげしげと眺めている。背の高い鏡面仕上げの冷蔵庫に楠木の姿がぼんやりと映っていた。
日車は冷蔵庫を開ける。最新式の冷蔵庫であるのに酒と調味料、飲みかけの清涼飲料水が放り込まれているだけであった。洒落たカウンターにはガラス製のキャニスターに詰められたパスタといくつかの果物が置いてある。
「冷蔵庫は空のくせにパスタと果物だけ飾ってある。住人の人となりが窺えるな」
日車の言葉に楠木は「どういう意味ですか?」と問う。日車は「いけ好かない男だ」とだけ答えた。
楠木はシンク下から大きな鍋を取り出す。汚れた手で顔を覆い、こすりながら日車を見上げた。
「……日車さん」
呼ばれた名に、日車は眉をひそめて楠木を見下ろす。楠木はシンク下に屈んだまま鍋を抱えていた。
「あの、もしよければなんですけど……」
ぎゅう、と楠木の胃袋が蠕動する音が鍋の中に反響していた。日車は「ああ、」と呻いた。思えばあれから食事らしい食事を口にしていない。
「飯にするか」
楠木が疲れ果てた顔で「しましょう」と溜め息をついた。
湯を沸かし、乾麺を茹で、キャビネットの奥から見つけたパスタソースで和える。子供でも作れるパスタを皿に盛り、瀟洒なローテーブルに置いた。温かい食事はささくれだった神経を多少なりとも落ち着ける。食べている最中、楠木はぽつぽつと他愛のない話題を日車に振った。内容は取るに足らないものばかりであった。間を繋ぐように楠木はささやかな話題を提示したが、特段話が好きなわけでも上手いわけでもないようだ。
「日車さんはいつ結界内に入ったんですか」
「昨日。君は」
「私は……最初から結界内にいたので」
「不運だな」
日車の言葉に楠木は苦笑する。苛烈な条件付きで同行を認められたにしては、楠木の態度は落ち着いていた。新鮮な死体とその製造過程を眼前で開陳された衝撃と恐怖は落ち着き、怯えながらも目の前の男との協力関係を本人なりに模索しているように見えた。一方的に庇護を求めるよりは建設的だが、打算的だと言えばそのとおりだ。その立ち回りは証拠から得られた情報の印象よりも理性的に感じられる。
楠木は特段粗暴にも、かっとなって暴力に訴える傾向があるようには見えない。日車はジャッジマンが述べた罪状と提出した証拠のことが常に頭の片隅にちらついていた。もっと彼女の暴力性を警戒すべきか、日車は判断しかねていた。
楠木は空になった皿に向かい手を合わせた。皿を片付けようとし「でも、別にこのままでも誰も困らないんですよね」とソースで汚れた皿に向かって呟いた。それはただ事実の確認であったかもしれず、日常への哀惜であったかもしれない。日車は自身の皿を見つめる。
「洗う必要はないな」
「……皿洗いは嫌いです」
そうか、と日車は皿を片手にバルコニーに続く窓を開けた。初冬の夕暮れは早く、すでに空は薄暗くなっている。靴下だけを履いた足に、タイル張りの床の冷気がじわじわとしみた。日車はバルコニーの手すりから階下を覗く。楠木も肌寒さに上着の前を掻き寄せながら日車の隣で路上を見下ろした。朝も夕も人通りの絶えない大都市がゴーストタウンの様相であった。
日車は皿を手すりからひょいと投げ落とす。楠木が「うぇ?」と間の抜けた声を上げ、手すりに取り付き地上を見下ろす。薄暮の地面に向けて白い皿が落ちていき、あっという間に小さくなったそれはアスファルトにぶつかり粉々に砕け散り思いの外大きな音を立てた。
「……皿洗いは面倒くさいですけど、そこまでしなくてもいいじゃないですか」
「しなくてもいいが、別にしてもいいだろう」
人を殺し、建造物に侵入し、冷蔵庫を勝手に開けて、パスタを茹でる人間が、皿を八階下に投げ落としてはいけない理由はない。楠木は目を丸くしたまま割れた皿を見下ろしていた。楠木は室内に戻り、ローテーブルから皿を取る。ベランダに立ち、遠い地面を眺め、手すりのふちに皿を乗せる。そのまま何度か手を離す素振りを見せては思いとどまることを繰り返していた。
楠木の手から白い皿が落ちていく。一瞬の後、陶器の割れる音がした。楠木の白い喉から歓喜とも恐怖ともつかない高い声が漏れた。楠木は室内に戻ると、元住人がカウンターに並べていたワイングラスを手に戻ってくる。楠木の思いつめたような表情は、日車を見るとふっと緩んだ。
「これ、落としてみていいですか」
日車は黙って立ち位置を譲る。楠木は造りのいい薄手のワイングラスを群青色に変わりゆく空に透かした。安物ではないだろう均一で薄いガラスが淡く夕日を内に湛える。日車が疎いだけで、価値のある食器なのかもしれない。楠木はグラスを空に向けてそっと放り投げた。グラスは表面に暮れなずむ冬の空の冷たい光を反射して白っぽく光る。歪な放物線を描くそれは間もなく落下軌道に乗り、音も気配もなく地面に落ちていった。耳を澄ませると小さな鈴を転がすような高く華奢な音が鼓膜を打つ。楠木は呆然と路上を見下ろしていた。青褪めていた頬に血の気が差している。
「八階から食器を投げ落としてはいけないのも、人を殺してはいけないのも、突き詰めれば同じことだろう」
日車は諭すように囁く。楠木は眉根を寄せる。その表情が困惑なのか嫌悪感なのか日車には判じかねた。
「俺は色々とどうでもよくなった」
楠木は日車の顔を横目に見て、暗い路上に点々と散らばる白い陶器の破片に視線を戻す。そうなんですか、と答える楠木の声音は、酒の席で先輩に過去の武勇伝を語られたときの日車の「そうなんですか」に似ていた。露骨な関心の薄さが、或いは日車の己でも説明のつかない妙な琴線に触れたのかもしれない。
楠木は「寒いんで、戻ります」と室内に戻っていった。階下から誰かの悲鳴が聞こえる。日車は温度を失う指先を上着のポケットに入れ、自身も室内に戻った。