十一月四日



曇りのち雨 十六.四度 十三.〇度



 楠木が結界の内側に閉じ込められてから初めてまともな睡眠をとることができたのは、己が他者を殺すところが見たいと言う男と交代で睡眠時間を確保したからであった。はたしてそれが外敵とどちらが危険度が高いのか楠木にはよく分からなかった。少なくとも日車は敵意を向けてくる泳者を肩についた虫を払い落すのと同程度に躊躇なく殺してしまうことを除けばまともに見えた。それが異常だと指摘されればその通りだが、この場では誰もが一片の瑕瑾なくまともではいられない。
 東京が崩壊してから二日以上、路地裏を徘徊し無人となった店舗の商品棚の隙間で浅い眠りを断続的にとることで凌いでいた楠木は疲れ果ててはいたが、それでも日車に全幅の信頼を寄せ安眠を得ることは出来なかった。夜中に何度か目を覚まし、見知らぬ住人の気配を寝具に染みついた生活臭から感じ取りながら、楠木は室内に視線を巡らせた。照明をつけない室内に日車が俯いたまま座っていた。眠っているのかと様子を探ると、どうやら起きてはいるようであった。己が眠る前に楠木は日車が眠る様子を眺めていたが、死んだように眠る男だと思った。眠るように起きていて、死んだように眠っている。日車は約束の時間に起き、部屋の隅でACの広告が延々と流れるテレビをぼんやりと眺めている楠木に「目が覚めたら逃げているかと思った」と言った。楠木はそれに「私が寝ている間に置いていかないでください」と答えた。
 何度目かの鬱屈とした覚醒で、楠木はのろのろとベッドの上に身を起こす。日車はキッチンの真新しいエスプレッソメーカーで入れたコーヒーを片手に楠木に会釈する。楠木はそれに会釈を返した。ベッドサイドの時計が正しいなら、時刻はすでに昼中である。楠木は冷たい床に足を下ろす。ベッドに座ったまま、回らぬ頭を抱える。
「……おはようございます」
 信用しきれない相手とはいえ挨拶くらいは必要であろうかと楠木は呻く。日車は低くそれに応え、楠木に小さな青い箱を示した。封の切られた煙草の箱だった。
「吸ってもいいか」
「どうぞ」
 楠木は縺れる髪の毛を纏めながら答える。日車は銀色のオイルライターを手にする。半覚醒の楠木の前で日車はオイルライターを矯めつ眇めつしていた。見かねた楠木は日車の手からライターを受け取り、ホイールを指で弾く。白っぽい火花が散った後、オイルの燃焼するにおいを漂わせながら小さな炎が上がった。無言で差し出される火を、日車もまた無言で眺めていた。
「君は喫煙者か」
 突然の問いに楠木は眉を上げる。
「昔は。でも健康のために二十歳でやめました」
 煙草を勧められたときの逃げ口上だった。日車は笑うでも指摘するでもなく「そうか、健康的だな」と言った。
「きっかけは?」
「喫煙の? 禁煙の?」
「喫煙の」
 楠木はそれを問われ、ライターの蓋をしめた。ぱきん、と硬い音がする。遥か昔、年上の人間に囲まれながら煙草に火をつけ、自分も大人になったような錯覚を得た日のことを思い出そうとする。うっすらとした感情だけが思い出されたが、確かな記憶は辿れない。
「家族が吸っていたからですかね、自然と」
 日車は煙草の箱の蓋を開け、紙巻き煙草のにおいを嗅ぐ。人好きのしない三白眼が天井を見た。
「俺は周囲に吸っている人間がいなかった」
 だから触れる機会を逃してきた、と日車は言う。
「父親も吸わなかったんですか?」
「昔は吸っていたらしい。結婚してやめたと聞いたことがある」
 楠木はその言葉に同じ泳者である日車との目に見えない隔たりを感じる。些細といえば些細だが越えがたい。闘犬のように殺し合いを強要されるのは、己のような取るに足らない人間ばかりであると思っていた。この場に、生き残るべき価値のある人間が紛れているのは不公平ではないだろうか。
 楠木はベッドから立ち上がろうとマットレスに手をつく。指先に触れる振動は己のものではなかった。日車さん! と声を上げるより先に寝室のドアが向こう側から破砕した。木片とガラスが吹き飛び、日車が顔を手で庇う。楠木はドアを破った見えない何かが真っ直ぐに己の方に飛んでくるのを感じた。それは腹のあたりに触れ、感じたことのない力で楠木の体を押し出した。己の体が勢いよく吹き飛ぶ。腹より背中が痛んだのは、マンションの白い壁と窓ガラスを突き破ったからだ。楠木は普段見るより近く感じる空に瓦礫とガラスの破片が舞っているのを見上げた。
 不思議と恐ろしくなかったのは、壁ごと吹き飛ばされ宙を舞う今の状況が、あまりに現実離れしていたからだ。ぼんやりと「漫画みたい」と思った。己の中の恐怖のインデックスにそういう項目がなかった。推進力を失うのと同時に楠木の体は八階下の地面に向かって落下を開始する。楠木は重力に引き寄せられながら、己はどんな走馬灯を見るのだろうかと考えた。だが楠木の体は何かを考える暇もなく物のように硬い地面に叩きつけられただけだった。どす、と重い音と共に全身を衝撃が貫く。これが死ぬということか、と思った。案外呆気なく、安心した。
 楠木は指一本動かせずに空を見上げていた。絵にならない曇天が冷え冷えと広がっている。雨が降ってきたらどうしようかと思った。己の死体が雨曝しのまま朽ち、我が物顔で往来を闊歩する怪物の餌になるところを思い描いた。楠木は己が死んだものと思っていて、朧な意識でお迎えを待っていた。しばらく時間が経ったように感じ――或いは気を失っていたのかもしれない――それでもなおお迎えはなかった。楠木は天国でも地獄でもどこからでもいいから誰か来てくれないかと焦燥感に駆られる。役所の窓口で己の番号札だけがいつまでも呼ばれないときと同じやるせなさだった。
「なんだ、生きているのか」
 白い曇り空を背景に楠木の顔を覗き込んだのは日車だった。黒い上着を着ている姿は死神めいてはいた。
「生きてるんですか」
「そう見える」
 楠木はアスファルトから体を起こす。手をついた先に昨晩投げ落とした陶器の破片が落ちていた。少なくとも己はパスタプレートよりは丈夫らしい。
「さすがプロのレスラーだな」
「……レスラーだって八階から落ちたら死にませんか」
「今、俺は冗談を言った」
 わかりにく、と楠木は口中で呟く。わずかに血の味がした。日車は楠木に靴と上着を差し出す。靴はマンションの玄関で脱いだものであった。上着は血で汚れたものではなく男物のジャケットだった。楠木は立ち上がり、黙ってそれを受け取り身に着ける。幸いにも元住人はそれなりに背の高い男であったらしい。ポケットの中に飲食店のレシートが入っていた。楠木はそれを丸めて捨てた。
「あの部屋にオレンジがあったでしょう」
 楠木が言うと、日車は「あったな」と頷く。
「起きたら食べようと思ってました」
「取りに行くか? 少し汚れているが」
 皮を剥けば食えるだろう、という言葉を楠木は「あ、やっぱりいいです」と遮る。日車のその言葉であの小奇麗な部屋が、闖入者が、どういう状況になったかをおおよそ理解した。楠木は顔を手で覆い深い溜息をつく。
「私まで、どうなっちゃってるんですか」
 知らず語尾が震えた。その問いに楠木の求める回答も慰めもなかった。日車は楠木をちらと見て「鼻血が出ている」とだけ言った。楠木は手の甲で鼻を拭う。手の甲についた血が赤いのだけが救いだった。
「場所を変えるか」
 日車は楠木の返答を待たずに歩き出す。楠木は踵履きにしていたスニーカーの爪先をアスファルトに軽く打ちながらその背中を追う。
「私が死ななかったの、日車さんの執行猶予と関係がありますか」
 縋るような問いかけに、日車は無情に「ないだろうな」と言い切った。日車は楠木のように人や怪物の気配に神経を使いながら路地から路地へと渡るようなことをしなかった。乗り捨てられた車の間を縫うように大通りを歩く。楠木にはそれが自信と不遜の表れであるよりも、消極的な破滅願望と希死念慮に見えた。
「日車さん、こんな大通りを堂々と歩いてもいいんですか」
 楠木の問いに日車は「片側二車線の車道を歩ける機会はそうない」と答えた。楠木は「はあ」と返事をしたが、それは声というよりも溜息に近い。楠木は日車の後ろを諾々と付き従いながら時折益体もない話題を振った。それで分かったのは日車が東京周辺に居を構えているわけではないことと、見積もりより遥かに若く己とそれほど年齢が離れていないことくらいだった。
 他意なく「意外と若い」と独りごちる楠木に日車は「よく言われる」と応じた。
「大人っぽいって意味ですよ」
「三十六歳に大人っぽいもないだろ」
 楠木は苦笑する。小学校に入学したばかりの頃、六年生がひどく大人に見えた。中学でもそうだった。十代のうちは、ニ十歳になれば大人になれる気がしていた。だが今はどうだろうか。己が三十六歳になったとき、この男のようになれるだろうか。大人になるということは、年をとるということと同義とは限らない。おそらくは。
「君は若く見えるな」
 世辞のようにも聞こえたが、目の前の男がそういう陳腐な世辞を口にすることもないだろう。楠木はそれを額面通りに受け取る。数日前に事務所の意向で染め直したばかりの髪を指先に巻きつける。
「見た目が浮ついているから?」
 日車は一瞬眉根を寄せ「多分そうだ」と言った。適当に誤魔化されるより不快ではなかった。
 前を行く日車の歩みが止まったので、楠木も足を止める。日車は背の高いフェンスを見上げた。フェンスの向こうには合成ゴムを敷いた狭い校庭がある。いかにも都会の小学校の様相だった。
「学校は好きか」
 その問いに大した意味のないことをそろそろ楠木も理解しつつあった。楠木は「あんまりいい記憶はないです」と答える。日車は「ならここにするか」と言う。何が「なら」なのか分からなかったが、楠木はそれに対する反論も特に持ち合わせていなかった。
 楠木は固く閉ざされた門扉の上端に指をかけ、体を引き上げる。もとから運動神経は悪くない自覚はあったが、その動作がいつもより滑らかに行われた。良い兆しではないと感じる。昨日まで善良な一般人であったかもしれない泳者たちが、とり憑かれたように暴力に溺れている。その理由を楠木は分からずにいたが、身を以て理解しつつある。楠木は己の身体能力と五感の向上、得体の知れない高揚感と万能感を噛み砕いて飲み下した。
 楠木は少し迷いながら門の下の日車に手を伸ばす。日車は鉄面皮にわずかになんらかの表情を浮かべ、門柱を足場にしながら楠木の手を取った。門扉の上に日車を引き上げながら楠木は「なんか泥棒みたい」とぼやく。日車は門扉の上でバランスをとり、着地点を見定めながら「白昼堂々だな」と答えた。日車のコメントは楠木の意図からは外れたものであることが多いが、それでも何かを返してくれるあたりは律儀だった。
 校舎の内部には当然のように人の気配はない。常であれば児童の声が響き渡っているであろう廊下はがらんとして薄暗く感じる。廃校と異なるのは廊下に色とりどりの巾着や手提げが残され、翌日には児童が登校しそうな様子であることだ。東京の機能停止はハロウィンの夜に勃発した。十一月一日からもこの学校に通うはずであった児童たちが全員無事であることを願うばかりだ。
 楠木は開け放たれたままの教室のドアから室内を覗いた。教室も、そこに細々と並ぶ机と椅子も、記憶より遙かに小さく感じられた。まるでドールハウスのようだった。
「小学四年生の頃かな、担任の先生に楠木さんが手を挙げると目立つねって言われたんです。授業中に、みんなの前で」
 ひどくないですか、と楠木は苦笑交じりに雑談を振った。
 担任は若く小柄な女性だった。優しく、可愛らしい人で、楠木は彼女のことが好きだった。担任がその女性になってから授業を受けるのが楽しく、積極的に挙手発言をするようになった。楠木は当時からクラスで一番背が高く、担任は決して揶揄したつもりはなかったのだろう。元気よく手を挙げる楠木の手は、きっと誰よりも高く上がっていた。それだけだ。だが幼い楠木の心は予期せず傷ついた。
 それ以来、楠木は授業中に発言するのはやめた。小さな教室で目立たぬように、首を竦め顔を伏せた。小学校を卒業してからもそうだ。
「――それはいい思い出か」
 日車の問いに楠木は眉尻を下げた。
「……よくはないです」
「俺たちくらいの歳になると小さい頃の楽しかった記憶ばかり残っていると言うだろう」
 沈黙に耐えかねただけの雑談に筋の通った会話を続けられ、楠木は鼻白む。鼻で笑って流してくれればそれでよかった。特に続けたい話題ではない。
「みんな大人ですね。私はいやなこと思い出してばっかりですけど」
 楠木はまた別の話題を振ろうとしたが、その必要はなかった。廊下の突き当りを、こちらに曲がってくる者がいる。ばらばらと好きな方向を向いた細い手足で蜘蛛のように床を這う異形であった。楠木は咄嗟に隠れる場所を探そうとする。日車は悠々と廊下の真ん中に立っていた。
「君はあれを殺したことがあるのか」
 楠木は廊下の端に身を寄せる。
「な、ないです……どうやったらあんなの殺せるんです……」
 楠木が声をひそめて言うと、日車は楠木の方に歩み寄ってきた。日車の背後で呪霊がこちらを見ていた。穴のような双眸が暗く恐ろしい。日車は楠木とすれ違いざま、事も無げに告げた。
「驚くべきことに、あいつらは殴ると死ぬ」
「――え、なん、うそでしょ?」
「まあ、がんばれ」
 日車は楠木を呪霊の方に軽く押し出す。楠木はつんのめるように二、三歩たたらを踏んだ。呪霊が金切り声を上げ楠木に襲い掛かってくる。縺れる脚が廊下のフックにかけられた内履き袋を弾き飛ばす。
 楠木は恐怖に竦む体に鞭を打つ。日車の言葉を信じるならば、あの化物は殴れば死ぬらしい。本当か、という疑念を楠木は振り払う。日車を信じようが信じまいが、今の楠木に出来ることは多くない。やぶれかぶれに一歩を踏み出すと、ふっと恐怖が薄らいだ。自暴自棄になったのかもしれない。化物を相手に暴力を振るうのは、デビュー戦で先輩を相手に試合をするよりマシだった。容赦なく他人を撲殺する弁護士よりも理解が容易い。
 楠木は蜘蛛のように素早く這い寄る呪霊の脚を踏み台に跳ね上がり、牙の並ぶ顔面に膝蹴りを入れる。白っぽい肉が飛び散り、塵になって消えた。楠木は膝に残るぬるい温度とぶよぶよとした感触に顔をしかめる。
「言い忘れていたが、蹴りでも死ぬ」
「……ああ、はあ、え?」
 淡々とそう言われ、楠木は何と答えるべきか分からず間の抜けた返事をした。日車ははじめて呪霊を相手取った楠木を労うでもなく、値踏みするような視線を向けた。楠木は日車の眼差しの鋭さに居心地悪く身を竦める。
「……これはポイントにはならないんですね」
 ぼそぼそと呟く楠木に日車は鼻を鳴らした。
「人間を殺さないとポイントは得られない」
 それだけ言い残し日車は踵を返す。教室の中に入る日車のあとを楠木はふらふらと追った。にんげん、と口中で反芻する。喉奥にざらざらしたものがせり上がる。
 日車は教卓に立っていた。少し汚れた黒板に短いチョークを立てる。暗色のスーツと堅い風貌がその姿に違和感を抱かせない。楠木は最前列の机の前に所在なく立った。
「中学のときに――」
 日車が突然そう切り出したので、楠木は本当に授業でも始めるつもりなのかと目を丸くする。
「クラスの募金箱から金が盗まれて、クラスの一番困窮した家庭の子が犯人だと責められた。俺は何の根拠もなく人を責めるのはよくないと思ったし、そう言った」
 日車は黒板に意味のない線を書き連ねていく。楠木は小さな机に寄りかかり眉根を寄せた。
「どうなりました」
「いやがられた」
 楠木は「でしょうねえ」と眉尻を下げて苦く笑う。
「それで、真犯人は見つかったんですか?」
 日車はチョークをチョーク入れに投げ入れ、指先の白墨を払った。
「見つかった。その子だった」
 楠木は「わあ」と情けない声を漏らすにとどめる。笑い話かと一笑に付すには、日車の表情は暗澹としていた。楠木は白い天井を見上げる。
「……壊しちゃいましょうか」
 楠木の言葉に日車は暗い双眸を楠木に向けた。楠木は口の端に笑みになりきらない表情を浮かべる。
「いやな思い出ごと、教室も」
 日車は「別にいやな思い出というわけじゃない」と黒板によりかかった。後頭部が黒板に当てられ、ごつんと低い音がする。楠木は己の発した言葉に記憶を刺激され、ぽつぽつと益体のない話をした。
「ほら、昔の歌の。盗んだバイクで走り出すやつ」
「……夜の校舎窓ガラス壊して回ったのはその歌じゃない」
「あれ、そうでしたか?」
 どちらにしろ好きな曲というわけでもない。ひょっとすると歌手本人が歌っている歌を聞いたこともないかもしれない。楠木は己がなぜその歌を知っているのか記憶を辿る。
「高校の予餞会で国語の先生が歌いがちな曲ですよね」
 日車は考え込むような顔をした。
「そんな経験はないが、不思議なことに言いたいことは分かる」
 特に国語の教師というところ、と日車は言う。楠木は小さな机の上に立った。楠木の長駆では頭が天井につきそうだった。楠木は日車を見下ろし、次いでぐるりと教室を見渡した。あの頃世界の全てに感じられた教室は、切なくなるほど狭く貧弱だった。
「高校の卒業式で、先輩たちが泣いてて、同級生も泣いてて、びっくりしました」
 日車は楠木を見上げて「なぜ」と先を促す。
「だって……卒業式ですよ。泣くほどですか?」
「感極まるんだろう」
「みんな酔っぱらってるのかと思いました」
「治安の悪い高校だな」
 日車のコメントに楠木は肩を揺らして笑った。日車は「自分が送り出されたときはどうだった」と問う。楠木はそれに「あ、私高校卒業してないんで」と苦笑いを浮かべながら答えた。日車の物言いたげな顔に、楠木は天井に手のひらをあてながら首を横に振る。指先に細かい埃の感触があった。
「日車さん弁護士だからな、中卒は珍しいですか」
「そうでもない。依頼人にはそれなりにいる」
 楠木はそれをキツい冗談だと思い笑いかけ、日車が常の恬淡とした無表情であることに気が付き笑みを引っ込めた。何を言うか迷い、結局面白みもない陳腐な悔恨を口にする。
「今は、ちゃんと勉強しておけばよかったと思ってます。高校も卒業すればよかった――こんなだからこういうわけのわからないことに巻き込まれてるんでしょうか」
「俺はいやというほど勉強したがこのザマだ」
「あ、そっか」
 楠木は机の上から前転しながら飛び降りる。これくらいならば以前でも出来た。だが着地の衝撃が遥かに軽い。己が知らない何者かになりつつあるのが、楠木は恐ろしかった。
「俺も若い頃にもっと勉強しておけばよかったと思っている」
 日車が聞こえないほど小さな声で低く呟いた。楠木は眉尻を下げて笑う。
「いやってほど勉強したのに? 弁護士さんじゃないですか」
 感情を窺わせない日車の双眸は窓の外に向けられていた。視線の先には人の気配のない校庭があるばかりだ。日車の薄い唇から小さくかすかな溜息が漏れる。楠木ははじめて日車の制御されない感情の漏出を目の当たりにしたような気がした。
「この手の後悔は熱病だろう」
 そういうものか、と楠木は思う。国内最高峰の資格を持つ男にそんなことを言われては立つ瀬がなかった。