十一月五日



曇りのち晴れ 二十一.九度 十四.五度



 日車は小学校の保健室のベッドの中で目を覚ました。子供用の簡易ベッドは寝心地が良いとは言い難い。夜中に数度目を覚ました日車は楠木が逃げているのではないかと保健室内を見渡したが、楠木は養護教諭のデスクに座って子供向けの絵本や書架の資料を勝手に読んでいた。日車が危惧したのは楠木に逃げられることそれ自体ではない。楠木がいなくなると不寝の番をする者がいなくなることだった。
 死滅回游が開始し五日になる。初期から結界内にいた者は徐々に勝手を掴み、各々が最適化された動きを開始しているようだ。徒党を組む者もいれば、単独で動く者もいる。より警戒すべきは後者であった。危機的状況にあって集団を形成し協力関係を構築するのは人間の常である。それをしないということは、余程腕に自信があるか、すでに人間らしさを失っているかのどちらかだった。
 日車はベッドから起き上がる。楠木は日車に視線を向け「おはようございます」と小さく呟いた。日車はそれに応えながら保健室の小さな流し台で顔を洗う。人間生活のしやすさという観点では、公共施設や商業施設よりも民家が圧倒的に使いやすい。だがまだ濃く他人の生活の気配が残る部屋は落ち着かない。加えて手狭な場所では襲撃があった際に対処がしにくい。
 楠木はワックスをかけられたばかりらしい妙につやつやした床についた赤いラインを跨ぎながら日車に近寄る。眉根が緩く寄っていた。
「早めにここ出ませんか」
 遠慮がちに言われ、日車は鼻を鳴らす。昨晩、楠木が眠っている間に襲撃があった。五人組の男女で、日車はそのうちの二人を撲殺した。一人は死刑になった。逃げる二人はあえて追わなかった。殺した相手の持ち点に関わらず得られるポイントが変わらない総則上、泳者が高得点獲得者を狙う利点はない。逃げた二人が義理堅く斃された三人の仇討ちを誓うタイプでないならば、生き残った泳者によって日車の脅威が喧伝され共有されるほうが襲撃の煩わしさは減少するはずだ。
 日車が上着を手に取るのを見て、楠木はほっとしたように表情を緩める。楠木は保健室のひとつしかない出入り口のドアを開ける。死体が三つ積み重なっている。それを視界に入れた楠木の喉の奥からしゃっくりのような音がした。楠木は廊下に折り重なるそれをそろりと跨ぎ、両手で顔を覆いながら「頭おかしくなりそう」と呻いた。日車は「もうおかしくなっているんじゃないか」と言おうとしたが、あまり面白い冗談ではなかったのでやめた。
 事実として、楠木は泳者でありながら不審なまでにまともであった。己の変化に怯え、死を厭い、失われた日常を渇望している。それは日車という強者に庇護されているがゆえの安易な憂愁かもしれず、楠木自身の特性かもしれない。日車は、命の危機に瀕し正当防衛的に殺人への心理的抵抗感に盲目になる楠木が見たいわけではない。刻一刻と術式剥奪への期限が迫る中、楠木がどう身を処し己の良識と折り合いをつけるかが見たかった。他者の命を奪い長らえるくらいならば潔く死を選ぶのか、或いは己の延命のために他者を犠牲にするのか、それはどのような自己正当化の末に行われるのか、日車は管理者の意図に関心が尽きない。
 そしてそれを考えるたびに、日車は己の所業の正当性のなさに思いを馳せ、自嘲と自虐に至る。
 薄いグレーの廊下にねばつく血液の足跡が一つつく。楠木は己の靴を見下ろし呻き声を漏らした。
「日車さん、もう少し、こう、きれいに――」
「文句があるなら自分でやるか」
「あ、いえ、……なんでもないです」
 楠木はスニーカーの底を床に擦り付ける。赤黒い掠れた線がひかれた。
 午前中の白っぽい光が差し込む校内は平穏そのものであった。呪霊が蠢き死体が積み上がっていることを除けば。
 日車は小さな体育館を見つけて足を踏み入れる。バスケットコート一つが入るか入らないかというような狭いホールをぐるりと見渡す。木目の床に色とりどりの規則不明のラインがひかれている。日車は片付けられず床に転がるバスケットボールを拾い上げた。両手の間を行き来させたあと、楠木に投げ渡す。楠木はボールを受け取ると「最初に断っておくと、私バスケ部ではなかったです」と申し訳なさそうな顔をした。一言目にそう言わせるほど頻繁にかけられる言葉なのだろう。
「ついでにバレー部でもなかったです」
「よく聞かれるのか」
「いやってほど聞かれます」
 楠木はゴールに向かってボールをアンダースローした。ボードに当たったボールは大きな音を立て、床に落ちる。だん、だん、と床をボールがバウンドする音が体育館に響いた。
「日車さん、スポーツ好きですか?」
 楠木の問いに日車は「まあ人並みに」とあたりさわりのない返答をする。
「私はそれほど」
 楠木の言葉に日車は片眉を上げた。
「プロのアスリートだろう」
「プロレスはプロレスですよ。格闘技ではなくてパフォーマンスです」
 楠木は足元まで転がってきたボールを拾い上げる。楠木は片手でボールを頭上に投げた。投げた方と逆の手でボールを受け止める。
「スポーツで勝って、負けて、嬉しいとか悔しいとか、あんまり」
 楠木はそう言って苦笑いを浮かべた。
「負けて死ぬわけでもないし、意味ないじゃんって思ってたんです。でも今になれば……負けても死ぬわけじゃないから楽しいんですね」
 浮ついてさえ見えるパフォーマンス用の外貌に反して楠木は時折厭世的なことを口にした。浮世への恨み言というよりも、諦念に似ているように思う。日車は肩をすくめて見せた。
「早々に陶酔しのめり込みわけがわからなくなった方が楽だろうな」
 楠木は日車の何気ない言葉にぎょっとしたように目を剥く。それから逃げるように目を伏せ、顔を背ける。
「――日車さんは」
 日車は楠木の手からボールを奪うと体育館の隅に放る。
「俺が楽しんでいるか聞こうとしているのか?」
 半開きの楠木の唇から漏れ出す吐息はボールが弾む音にかき消される。日車は木槌を楠木の頭部に向けて振り下ろす。楠木は避けも受けも出来ず立ち尽くしていた。日車は楠木の頭が割れる直前で木槌を消す。ひゅ、と引き攣る呼吸の音が聞こえた。
「俺に一発入れたら答えてやる」
 楠木は口内で言い訳めいた言葉を繰り返していたが、日車が木槌を構え直したのを見て眉尻を下げた。
「集中しろ、全身に力を巡らせろ。俺のが見えるな、同じようにやれ」
 楠木は肩幅に足を開き、深呼吸する。楠木の全身を覆う影は白く濁り、寒い冬の日の機械油のように粘着質な動きをしていた。制御しきれぬ力がぼたぼたと重く滴る。表出した力を上手く扱えないでいるのか、それとももとからそういう性質を携えているのか、日車には判別がつかない。
 日車はまだ楠木の術式を知らない。おそらくは楠木自身も掴みかねている。
「必要とはいえ、女性を殴るのは気が引けるな」
 ひとりごちる日車の言葉に、楠木は眉根を寄せて目を逸らす。
「やっぱり知りたくないっていうのはアリですか」
「ナシだ」
 楠木の足元で床板が炸裂する。飛び散る木っ端から楠木は顔を庇う。日車は楠木の動きを見ていた。呪力の量は他の泳者と遜色がない。危機への身のこなしも悪くはない。呪力の操作を身につけ、術式を扱えるようになれば、問題なく他者を害することが出来る。当人が望んでいるかは別として。
 日車は木槌を振るいながら楠木の抵抗を引き出そうとする。急所に当たりそうになった攻撃は木槌を消すことで致命傷を避ける。楠木は空を切る木槌に圧倒されじりじりと後ずさりながら「日車さん、ほんとに弁護士!?」と喚いた。
「鈍器を振り回す弁護士は見たことがないか?」
「見たことないです!」
 悲鳴じみた楠木の声は木槌が木の床を貫く音でかき消される。小さな体育館で楠木はあっという間に壁際まで追い詰められた。背中が壁につき、楠木の顔が青褪めた。
「ロープブレイクはないぞ」
 演劇めいて大槌を振り上げる日車に、楠木は眉を寄せた。日車は楠木がどう出るか観察する。楠木はその場で跳ね、体育館に作りつけられたバスケットゴールのリングを掴んだ。楠木は腕力で体を引き上げ、弾みをつけて日車の頸に下肢を絡める。勢いよく床に引きずり倒されながら、日車は咄嗟に己の頸と楠木の大腿の間に木槌を差し入れた。高所から勢いをつけ床に倒され背中を打ち、息が詰まる。加えて脚で頸を締め上げられ、日車は一瞬意識が遠ざかった。辛うじて意識を保ったのは、頸と脚の間に捻じ込まれた木槌のためだ。
「わ、私だって、男性とはいえ素人相手にこんなことしたくなかったですよ!」
 楠木は引き攣った声を上げながら日車の頸を締め上げる。台詞の割に容赦がなかった。日車は拘束を外そうとするが、腕力では脚力に対抗するのは難しい。
 これまで相手にしてきた泳者に締め技を使う者はいなかった。厄介だな、と日車は思う。殴る蹴るなら呪力で防御出来ても、血流の遮断による失神は防ぎにくい。日車は拘束を外すことを諦め、木槌の柄を伸ばす。伸びた木槌の頭が楠木の体のどこかに当たったらしく短い悲鳴とともに拘束が緩んだ。
 日車は楠木の大腿から抜け出る。冷たい床に腰を下ろしたまま楠木を見ると、楠木は床に仰向けになったまま高い天井を見上げていた。もうしまいか、という日車の問いかけに返答はなかった。無防備に晒された厚い胸が大きく上下している。しばらくして楠木は日車に何かを言いかけ、一言目を発する前に堪えきれないように笑いだした。
「小学校の、ひひっ、体育館ですよ!」
 楠木はごろりと俯せになり、身を丸めて笑いだす。日車はそれを横目で眺めながら「とうとう壊れたのか」と思っていた。
「い、いい大人が、小学校の体育館で! んふふっ、雁首揃えて!」
 小刻みに震える丸めた背中を見て、日車はネクタイを直しながら鼻を鳴らす。
「三十六歳、本気の体育だな」
 日車の茶々に楠木は笑い声とも泣き声ともつかない高い声を上げて床に突っ伏した。木の床に額をぶつける鈍い音がする。日車は楠木のよく分からない笑いの発作がおさまるのを待ちながら、この状況で涙が出るほど笑えるのは精神が強いのか、神経が弱くて参りかけているのか、どちらであろうかと考えていた。
 楠木はひとしきり笑ったあと、再びラインのひかれた床に仰向けになる。縺れた髪が広がる。楠木は膝を立て、腹の上で手を組み、天井を見上げながらふっと笑みをおさめた。
「ばかみてえ」
 ぽつり、とそれだけ言うと楠木はのそのそと起き上がった。床に座り暇を持て余している日車を見、決まり悪げな顔をして「すみません」と項垂れる。
「楽しそうで何よりだ」
「……いや、あの、……はい、ごめんなさい」
 日車は額に落ちてきた髪の毛を掻き上げ、立ち上がる。一瞬視界が灰色っぽくなり、眩暈に襲われた。
「体育の授業は好きだったか」
 日車の意味のない問いに、楠木はへらりと笑う。
「嫌いでした」
 そうか、と日車は呟く。
「俺は向かってくる泳者を残らず殺すが、それは己の行いが大したことがないと己に言い聞かせているにすぎない」
 日車は床に向けて零す。裁判官の死も、検事の死も、それらを齎した己の怒りも、虚しさも、取るに足らない茶番に過ぎなかったと反復をしている。それだけだ。楠木は日車の顔を、言葉の向けられた床を、武骨な鉄骨がむき出しの天井を順に見る。物事の経緯を知らない楠木には意味不明の言葉であっただろう。それでも楠木は何かを言おうとしたのか、唇の端に半端な笑みを浮かべた。
「あー……ウケますね」
「人の話を聞いていたか?」
 己の説明不足を棚に上げ鼻白む日車に楠木はまた「すみません」と首を竦める。楠木は顔を手のひらで拭いながら「やだな、汗かいちゃいました」と眉根を寄せた。日車がそれに「笑いすぎてか?」と言うと、楠木は「ちがいます」と唇を尖らせる。
「宿を借りるならお風呂がある建物がいいですよ」
 小学校の校舎には入浴設備がないことを楠木は昨晩もぼやいていた。日車は新旧の血液が染みついたシャツの袖口を見ながら「そうだな」と答える。楠木は顔をしかめ、言いにくそうに申し出た。
「ついでにどこかでシャツ替えませんか。正直そのシャツの日車さんに技かけるの……躊躇しました」
「その割には容赦のない締め方だったが」
 日車の言葉に楠木は恨めし気に日車を睨むだけだった。


 *


 池袋のビルにおさめられた紳士服の量販店は荒らされた形跡がなかった。楠木は店舗に侵入する際に性質の悪い泳者と鉢合わせることに怯えていたが、強制された殺戮の最中にあって着替えとしてスーツを選択する人間もそういないだろう。日車がそれを言うと楠木は怪訝な顔をして「日車さんもスーツ以外に着替えたらいいじゃないですか」と言う。
「そうはいくか、弁護士だからな」
「……そうなんですか?」
 容易に煙に巻かれる楠木を後目に日車は棚からワイシャツを取る。ついでに己と背格好の変わらないマネキンから暗色のスーツを剥ぎ取った。悪意に満ちた遊技盤において日車の身分と性分を保証してくれるのはスーツとバッジだけだった。日車は己の未練がましさに辟易しながら、スーツからスーツに着替える。日車が着替えている間に、楠木も店内を物色していたらしい。ネクタイを結び直す日車の下に戻ってきた楠木は上着の下に見覚えのないスウェットを着ていた。泳者の血と己の鼻血が染みついたパーカーは捨ててきたようだ。
 楠木は溜息混じりに裸のマネキンの足元に座る。投げ出された脚に、日車は先ほどの締め技を思い出し眉をひそめた。
「家の近所に、仲良くしてくれたお姉さんがいたんです」
 突然そう言われ、日車はネクタイを結ぶ手を止める。楠木の視線は明るい店内に向けられていた。
「五歳くらい上だったのかな、頭が良くて優しくて、ついでにすらっとしててリスみたいに可愛い人だったんです。すごく好きで、懐いてて、勉強教えてもらったりして、将来はお姉さんみたいになりたいって思ってて、だから私は中学までは結構勉強頑張ったりもしてたんです」
 益体のない思い出話だった。日車はネクタイを結び終え、大柄な男三人分ほどの距離を開け楠木の隣に座る。履き慣れた革靴が血液を吸い表面を波立たせていた。
「人を助けたいから医者になるんだって、貧乏だから塾とか行けなくて、でも努力して大学に合格して、それで、死んじゃったんですよね」
 不穏な結びに日車は楠木の横顔を盗み見る。視線に気が付いた楠木は日車の方を見て遠慮がちに笑んだ。
「新入生の歓迎会で、先輩にたくさんお酒飲まされて、そのまま」
 日車は「ああ」と気のない返事をする。そういう話はいくらでも耳にしたことがあった。今のようにアルコール中毒の恐ろしさが周知される以前の、武勇伝的に語られる酒の事故の話を日車はそれほど好いてはいない。
「私はあんなにすばらしい人がそんなどうしようもない理由で死ぬなんてって、なんか全部どうでもよくなっちゃったんですよね。というか、全部どうでもいいんだって思い込みたかったのかもしれないんですけど」
 楠木は「子供だったんですよねえ」と苦笑した。目元に苦い笑いを湛えたまま、楠木は日車に視線を向ける。
「だから、日車さんの言うことも、うーん、なんとなく分かる気がします」
 日車は「なんとなくですけど」と繰り返す楠木の顔を見る。分かるわけがないだろうと一蹴する気力も起きなかった。そもそも日車は己の心の在り処をいまだに掴めていない気もした。
「おまえさっきウケてただろ」
「いやそれは……あのときは一瞬何を言われたか分からなくて、つい」
 楠木は眉尻を下げて申し訳なさそうな顔をする。それから膝を抱え、膝頭に頬をつけた。
「ぜんぶ無意味ですよ。ぜんぶ無意味であってほしいじゃないですか。ぜぇんぶ無意味なら……別に何したっていいですもん」
 日車は明るい色の髪の向こうの楠木の横顔が、急に輪郭をはっきりさせたような気がした。
「おまえ急にショーペンハウアーみたいなこと言いだすな」
 日車が何気なく言うと、楠木は自信なさげな表情で日車を髪の間から窺い見る。
「誰ですかそれ、日車さんの知り合い?」
 冗談とも本気ともつかない言いぶりに、日車は歯列の間から息を漏らす。
「俺の高校の同級生で、隣の席だった」
「ショーパンナントカくん? マジですか? 苗字?」
「サッカー部だった」
「さすがに冗談ですよね?」
「今も年賀状のやり取りをしている」
「え、本当に?」
 日車は困惑する楠木を無視して立ち上がる。着慣れないスーツは膝裏の生地が突っ張るような違和感があった。後頭部の髪に指を差し入れる。伸びかけた髪は、近く切りに行こうと考えていた。それは叶わなかったのだが。
 楠木は置いていかれまいと慌てて日車の後を追った。日車は背後の楠木の気配に「全てが無意味なのに、人を殺すのは怖いのか」と意地の悪い問いを投げかけた。それほど間を置かずに「こわいですよ」と平坦な声が帰ってくる。
「犯罪者になったらどうなるのかなとか、しかえしされたらどうしようとか、考えますよ。いやですよ、人を殺すのは、大変なことでしょう、こわいですよ」
 日車はスーツの上着についたままの値札を指に絡めて引き千切る。それを白い床に捨てながら「まずは気に食わない奴から始めてみろ」と愚にもつかないアドバイスをした。背後から楠木の乾いた笑い声だけが帰ってくる。冗談を言ったわけではないのだが、と日車は思った。