十一月六日
曇りのち雨 二十一.一度 十六.八度
目覚めが比較的良かったのは、眠る前に風呂に入り衣服を替えたからかもしれない。楠木は半壊したビルのテナントから下着と衣服を失敬しながら、そのときだけは大量生産大量消費社会に手を合わせた。日本人女性の平均的体格から外れた楠木でも、細かい注文さえ持たなければ利用できる衣服が街中にいくらでもある。その状況がいつまで持続するのか死滅回游の果てを思いかけ、楠木は意図的に思考を逸らした。
繁華街の只中にある二十四時間営業のスポーツジムには小さなジャグジーとシャワー施設があった。楠木はそこで備え付けのボディーソープを使って全身を丹念に洗った。人工的な柑橘の香りを全身に擦り付けてなお、うっすらと血臭が纏わりつく気がした。ジムのスタッフルームに毛布やタオルを敷き詰めて眠った後でさえ、紛い物のオレンジの香りの向こうに違和感を得る。
楠木は毛布を押しのけ、部屋の隅でボリュームを絞ったラジオに耳を傾けている日車に会釈する。日車はラジオから視線を外し「起こしたか」と言った。気遣わしげにさえ聞こえる言葉は、淡々と無感情に告げられた。楠木は日車の真意を常に測りかねている。
日車寛見は弁護士を自称する男である。真偽のほどは定かではない。胸元のバッジは弁護士の身分を証明するものであるらしいが、それが本物である確証は楠木には持てない。己を弁護士だと思い込む狂人であるという悪趣味な想定が、荒唐無稽とも言えない状況である。それでも楠木が日車に縋ったのは、日車が「死んだ方が楽なんじゃないのか」と嗤ったからだ。少なくともこの状況を死んだ方が楽だと考える判断力を目の前の男が有していることが、楠木には重要だった。
日車寛見は奇妙な男である。楠木を殺そうとしたかと思えば、簡単に逃がそうとする。なんでもすると言う楠木に通り一遍の下卑た要求をするわけでもない。日車が楠木に要求したのはただ一つ「己の意思で人を殺すところが見たい」ということだけだった。日車はその言葉のとおり、楠木の動向を見守っている。楠木が呪力を引き出し、自在に操ることが出来るように指導してくる。楠木は日車の意図するところが分からないでいた。常軌を逸した要求と裏腹に日車の思考は論理的であるように、少なくとも楠木には感じられる。
楠木は体にかけていた上着に袖を通し、日車が聞いていたラジオの音量を上げた。ノイズ混じりの音声が響く。切れ切れとした音が、東京が原因不明の大災害下にあることを告げている。神妙な女性の声で粛々と読み上げられているのは行方不明者の名前だった。楠木はしばらくそれを聞いて「私の名前は呼ばれないですね」と欠伸混じりに呟く。
「日車さんは呼ばれましたか」
日車は短く「いや」とだけ答えるとラジオの電源を落とした。
楠木はスタッフルームのドアを細く開け、廊下の気配を探る。注意深く外敵がいないことを確かめようとする楠木の背後で日車が無遠慮にドアを押し開けた。勢いの付いたドアは廊下の壁にぶつかり鈍い音を立てる。
「術式を失うまでこそこそ逃げ回るつもりか」
日車は呆れたようにそう言った。そういうわけでは、と言い淀む楠木を日車は追い越していく。楠木は言いかけた言葉を喉のあたりに詰まらせたまま日車の後を追う。有線で全館に流れるアップテンポの洋楽が状況にあまりに似つかわしくなく滑稽だった。
無人のフロントに設置された固定電話は受話器が外れていた。コードが伸び切り床に落ちた受話器を日車が拾い上げ、本体に戻していた。楠木は冷蔵ケースのドアを開け、スポーツドリンクのボトルを取り、日車に手渡す。はじめは抵抗のあった行為が、今はもう何も考えずに行うことが出来る。
日車はスポーツドリンクを口にし、棚に陳列されていたプロテインバーの封を切った。
「健康的なのかそうでもないのか分からないな」
ぼそぼそとしたバーを齧りながら日車はそう言った。楠木はフロントの小さな椅子に座りながら同じバーを口にする。単調な甘みと味気ない食感が、今は精神に負担が少ない。楠木は染髪後に手入れを怠り、備え付けの業務用シャンプーにとどめを刺された髪の毛を売店にあった髪ゴムで纏めた。癖で右耳の上、生え際にある古い傷を指先で弄ると、日車がそれを見止める。
「どうした」
日車が自身のこめかみを指差しながら言う。楠木はそこにあるだろう傷跡を強く引っ掻く。
「これですか? 仕事で」
苦笑気味に答えると、日車は「過酷だな」とだけ言った。
「弁護士さんの方が大変じゃないですか」
かつて知り合った佐々木という弁護士はいつも忙しそうにしていた。楠木が言うと日車は口の中のものを咀嚼嚥下し、ボトルに口を付けたあと「そうでもない」と首を横に振る。楠木はそれ以上を追究しなかった。日車は事あるごとに己が弁護士であることを揶揄のように口にする割には、それについては口が重いような気がした。楠木はそういう気配には敏感だった。他者の背景に興味を抱かないのは、楠木の処世の一つだった。
「これ、凶器ありのデスマッチで後輩に一斗缶で殴られたんですよ。当たり所が悪かったのか血がどばどば出ちゃって、後輩は真っ青だし、コスチュームは汚れるし」
日車は一瞬眉をひそめる。泳者の頭を容赦なく割る日車が、楠木の些細な怪我の昔話で表情を歪めているのは少し面白かった。
「でもお客さんは盛り上がってたんで、まあいいかなって」
しばらくはスカーフェイスって人気も出たりして、と楠木は笑う。
「日車さん、プロレスって観たことあります? 女子プロ」
楠木の問いに日車は「いや」と答える。
「人によってはハマるみたいですよ。今はグラビアアイドルとか出てたりして、そのファンがいたり」
「そうだな、死滅回游が終わったら観に行くか」
楠木はそれを聞いて声をあげて笑った。ここを出られるなど、楠木は考えたことがなかった。冗談としては十分に笑えるが、もし希望を抱かせる励ましなつもりであるのならば笑えなかった。
「人気があったのか」
「私ですか? まさか。万年引き立て役ですよ」
楠木は苦く笑いながら答える。日車は食べ終えた菓子の袋を小さく結びごみ箱に捨てながら、楠木に意外そうな視線を向ける。
「目を惹く長身だろう。運動神経もいい」
楠木は手元のごみを無意味に弄びながら首を横に振る。楠木は自身の体格のことを話題にされるのが好きではなかったが、日車の言葉に不快感を抱かないのはそれに事実を指摘している以上の意図を感じないからだ。
「プロレスラーとして人気が出るのは、素面のまま自分の試合で観客に元気と勇気を与えたいとか言える人なんで」
「おまえそれ特定の誰かのことを言ってないか」
胡乱げな声を投げかけられ、楠木は「いやそれは内緒です」と肩を竦める。与えられた役割への没入が、楠木には決定的に欠けていた。日車の言葉を借りるならば、陶酔しのめり込みわけが分からなくなる才能が、楠木にはなかった。楠木はそういう周囲を巻き込むナルシシズムを冷笑しながら、何かを成すには絶対にそれが必要なことも理解していた。憧れ、欲しもした。
楠木はふと高校最後の運動会のことを思い出す。楠木のクラスは優勝し、クラスメイトはそれを跳ね回り涙を流して喜んでいた。普段は登校しない不真面目な男子生徒さえ、雄叫びを上げて仲間と肩を組み合っていた。楠木はそれを見て、ぼんやりと「これがスポーツの力ってやつか」と思いもした。楠木はその輪の中にいながら、上滑りするような疎外感を感じていた。楠木が考えるのは、ここで他の女の子みたいに跳ね上がって喜んだらただでさえ目立つ長身がさらに目立つなとか、大して貢献もしていないくせに喜んでいると思われたら嫌だなとか、喜びに水を差すようなことばかりだった。楠木は己が皆の興奮の輪の中に入れないからそう考えるのか、そう考えるから皆の興奮の輪の中に入れないのか、ずっと分からないままでいる。
デビュー当時は日車の言うように長身と身体能力の高さで注目された楠木は、インタビューで気の利いたコメントの一つも残せず、不意に向けられたカメラに媚態を示すことも出来ず、観客の期待に応えられなかった。人気は下火になり、多くの後輩が専門誌の紙面を飾る中楠木は忘れ去られた。それでもクビにはならなかったのは、皮肉なことに己が厭い続けた長身のためでもあった。
「向いてないんですよ、私は背がばかみたいに高いだけです」
「そうか、昨日の締め技は結構よかった」
「……ありがとうございます」
楠木はごみ箱に菓子の空き袋とペットボトルを投げ込んだ。
日車は大きな窓から路上を見下ろす。ところどころ崩落した路面は、このあたりが激しい競争地帯にあることを示している。楠木は日車の背後から同じ景色を眺め、眉尻を下げる。
「もう少し人のいない場所の方が安全じゃないですか」
日車はそれを鼻で笑って一蹴した。
「こんな場所で安全を求めてどうする」
無人のビルで律儀に乗客を待ち続けているエレベーターの呼び出しボタンを押す。ちかちかと瞬く電光掲示を見上げながら、楠木は「全然食べた気がしないですね」と口内の人工甘味料の名残を飲み下す。日車が「贅沢言うな」と素っ気なく答えた。
屋外は湿り気を帯びたうす灰色の雲が立ち込める天気であった。気の塞ぐような空模様に楠木は溜息をつきかける。日車が迷いなくどこかに向かいだしたので、楠木は大股でその後を追った。
「どこに行くんですか」
「別に決まってない」
はあ、と楠木は曖昧な返事をする。死滅回游の総則に明確な上がりは示されていない。求められてるのは泳者どうしで殺し合うことだけだ。それ以外の目的を持つことを指示されていない。楠木は結界の中で、安全な場所を探し、脅威から逃げ、飯を食い、眠ることだけを繰り返している。動物みたいだ、と楠木は思う。恐ろしいのはそれ自体ではなく、それに己が順応しつつあることだ。瑣末事にかかずらわず己の命のことを考えていればいい時間は、居心地が悪いということはない。日車と益体のない駄弁を弄している時間だけが、楠木を人間たらしめている。
路上に捨て置かれた乗用車の陰に呪霊が蹲って楠木のほうを見上げた。楠木は思わず「うわ」と声を漏らす。呪霊はちらと楠木を見た後、再び俯きアスファルトの上の砂粒を痩せた指先で弄り回していた。害意のない呪霊は泳者より安全だ。
「線路でも見に行くか」
日車の堅い雰囲気の無表情と落ち着いた声音は、それだけで彼の発言が思慮を重ねた末のもののように感じさせる。楠木が日車なりの考えがあってのものかと「どうしてですか」と尋ねると、日車は「意味は無い」と答えた。楠木はそれをちょっと笑った。
「いつもならひっきりなしに電車が走る線路が、もう何日も使われていないんだろう」
「そうですね」
「見に行くか」
「っすね」
どうせやることもないのだ。楠木は地理に疎い日車にかわり「駅はあっちですよ」と崩れた道を指さす。観察した限りでは、駅とその周辺は常に激戦区だった。泳者と強大な呪霊が徘徊している。楠木は倒れた道路標識を跨ぎながら「死にたくない」と呻く。日車は曇った空を見上げていた。何者かの影がビルの影から現れ、消えていく。
「人はいつか死ぬものだ」
「今日じゃなくたって」
日車は変わらず大通りの真ん中を悠々と歩く。楠木は何者かに補足されはしないかと気が気ではなかった。時折、路地や物陰から泳者の気配がした。息を殺しこちらをやりすごしているのは、もはやこの周辺では暗色のスーツの男は脅威と見做されているからだ。他の泳者と協調し情報を交換し合う泳者はスーツの男には容易く手を出せない。楠木は己がそのお零れにあずかっているようで居心地の悪さを感じた。
かつて均整の取れた駅の庁舎であった建造物は、崩れ、形を変え、捻じ曲がり、朽ち果てていた。たった数日でいったい何があったのだろうと楠木は呆然と有機的に形を変えた駅を見上げる。日車も同様に顎を上げていたが、何を思っているかまでは楠木には分からなかった。
「さすが東京の駅は芸術的だな」
日車の言葉に楠木は片眉を上げる。
「今のは冗談ですね」
「いや、当て擦りだ」
「どう違うんです……」
楠木は出入口を覆い尽くす蔦に手をかける。少し触れただけでぼろぼろと崩れるそれに中が窺える程度の穴をあける。そっと中を覗くと、人通りの絶えなかった駅の構内はがらんとしていた。売店の明かりだけが目立ち、商品棚には強奪の跡が見られる。変わり果てた駅の姿を目の当たりにし呆ける楠木を後目に日車が蔦を足で蹴り破る。楠木はぎょっとして覗き穴から身を引いた。ばりばりと音を立てて崩される障害物を見て、楠木は肩を落とす。
「中は思いのほか綺麗だな」
通勤のような気軽さで駅に入っていく日車を楠木は追う。常に人込みで己の行く先も見つけられない構内が、今は通路の果てまで見渡せる。日車さあん、と黒い背中に向かい名を呼ぶ己の声が間抜けに響いた。
「駅の中から線路向かうのやめましょうよ……」
四方からざわざわと奇妙な気配を感じ、楠木は身を縮こまらせる。日車は手近な改札口へと足を向けながら楠木の言葉を黙殺した。
楠木は泣き言混じりに改札を押し開けようとする。まだ電源の通ったままの改札が激しい警告音を鳴らす。勢いよく閉じた改札に腿を打たれ、楠木は呻いた。
「何やってるんだおまえは」
改札を乗り越えた日車に言われ、楠木は気恥ずかしさに赤面する。
「どうせ私はいい歳して改札もまともに通れない女です」
「そこまで言ってないだろう」
「毎朝Suica使ってるのに、いまだに改札で緊張する女ですよ」
「まあそれはちょっと分かる」
混雑している時間に改札を止めてしまったときの焦燥を思い出し嫌な気分になりながら、楠木は改札を飛び越える。タイルをスニーカーで踏んだ瞬間、耳元でみしみしと妙な感じがした。ひぐるまさん、と囁いたときには日車はすでに右手に木槌を提げていた。
「おお、女だ……女か? 随分図体のでかい」
薄暗がりがずるりと蠢き、若い男が現れた。己より年下に見えるつるりとした顔に比べて、奇妙な威圧感のある男だった。男は白い顔に愉悦の表情を浮かべ、日車と楠木を順に見た。男はもう一人、同じ年頃の青年を従えていた。青年は常に男の表情を窺うような素振りを見せている。青年は楠木に視線を向け「あ、楠木じゃん」と急に無遠慮に指をさしてきた。知り合いか、と日車が二人から視線をそらさないまま低く問う。いえ、と楠木は応じながら、記憶の箱を探っていた。
「なんだ、知った顔か」
男が面白そうに青年に顔を向けた。薄い唇の端に笑みが浮かんでいる。
「いや、あいつ女子プロ選手なんで。あ、女子プロって知ってます? 女同士で殴ったり蹴ったりしてるんですけど」
「知らん、面白いのかそれは」
青年は首を傾げ追従の笑みを浮かべながら「まあ」と曖昧な返事をした。楠木は奇妙な二人のやりとりを眺めているしかない。普段であれば容赦なく泳者の頭蓋を砕く日車が、眉を寄せて二人の会話に耳を傾けている。
「女力士かな、それであの女は強いのか」
男の問いに青年は声を引き攣らせて笑った。
「全然っすね! 人気ねえし、ババアだし、タッパだけあるからスター選手に派手な投げ技キメるだけで、発射台って呼ばれてる奴です。雑魚ですよ、雑魚」
楠木は聞き慣れたはずの嘲笑を耳にし、目蓋の裏がつうと冷えていくのを感じた。結界内ではその手の嘲弄と無縁のはずであった。油断していたのかもしれない。いつ傷付けられてもいいという諦念を忘れていた。楠木は震える息を吐く。右こめかみの古傷のあたりに、日車の視線を感じる。
「ああ言ってるぞ」
「……全部事実ですし」
作り慣れた諦念の笑みを上手く形作れたか判然としなかった。低く鳴る心臓が全身に巡らせているのは、おそらく怒りだった。大人なんだから、と抑え封じ見て見ぬふりをしてきた稚気に満ちた怒りが指を震わせる。衝動を止める法も倫理も他人の目もないことが、己を容易に怒りの感情に傾かせている。楠木はそれを怖いと思った。普段であれば愛想笑いでやりすごせる愚弄に腹を立てられるのは、その気になれば相手を殺せるのだという驕りのためだった。楠木はそれを考えながら、また己が激情に身を任せられずにいることもうっすらと認識していた。
男は面白そうに肩を揺らす。
「そうか、その女はおまえに任せる。殺すなよ、楽しみが減る」
青年が楠木をちらと視線を向ける。
「どうせなら他の選手が泳者だったら良かった」
カンカンカン、と鋭い木槌の音とともに日車と男の姿がかき消える。楠木は何もない構内を見渡す。遠くに階段だけがあった。青年はにやにや笑いながら楠木を舐めるように見た。すでに勝ったかのような素振りだった。
「抵抗しないんなら俺も何もしないけど」
楠木は溜息をついてその場に屈みこむ。白い床に塵が積もっていた。青年が無防備に近寄ってくる気配がする。狭い視界に青年の靴が現れた。
「リングでも雑魚なのにリアルでも雑魚なのヤバくねえ?」
首筋に笑い声が落ちてくるので、楠木は青年の足首を掴んで立ち上がる。青年は笑ったまま文字通り足元をすくわれ、棒立ちの体は綺麗な半円を描き、床に後頭部を強打した。何が起きたか把握できないまま床に仰向けになる青年の黒目がぐらぐらと震えている。楠木はそれをじいと覗き込んだ。青年は揺れる黒目で楠木を見下ろしながら口をぱくぱくさせる。たらたらと流れる鼻血が口の中に流れ込んでいた。床に広がる血が、青年の呪力に呼応するようにざわざわと形を変える。楠木は青年の鳩尾のあたりを勢いよく踏みつけた。呪力はこめず、全力でもない。他の女子選手にするのと同じストンピングで、青年は簡単に意識を失った。
楠木は無様に伸びた青年を見下ろす。目が覚めてしばらくは頭痛と吐き気に苛まれるかもしれないが、死んではいない。楠木は日車の要求のことを考えていた。このまま殺してしまってもよかったが、殺したいという強い気持ちもなかった。楠木は侮辱され殺意を抱くほど、己にも、己の職業にも、誇りを持っていない。まだ若い青年の血に汚れた顔を見下ろしていると、気が付くと背後に日車がいた。足元には先ほどの男の亡骸が転がっている。
「殺したのか」
見逃したな、と日車は事も無げに言う。楠木は「いや、まだ」と苦笑した。日車は男の亡骸を跨ぎ楠木の傍らに立ち、気を失った青年を見下ろす。
「とどめを刺さないのか」
「まあ……別にいいかなって」
「なぜ」
「こわい」
楠木の曖昧な答えに、日車はそれ以上何も言わなかった。そうか、とだけ言い、青年の頭に木槌を振り下ろす。青年の細い手足がびくりと跳ね、動かなくなった。
「気に入らない男だった」
「……そうですか」
スニーカーの爪先に見慣れてしまった脳漿が貼り付く。楠木はそれを白い床に擦り付けた。どちらともなくホームへ続く階段を目指す。ひんやりと続く階段の一段目に足をかけながら、楠木は傍らの日車に声をかける。視線は暗い階段の先だった。
「私、日車さんに嘘をついていたことがあって」
「なんだ」
「家族を養いたいって、あれ嘘です。もう家族ないんですもん」
すみません、と楠木は笑った。日車は淡々と「そうか」とだけ答えた。話が違うとその場で殺されるかと思った。それでも構わなかった。日車に殺される泳者はいつでも脳天を一撃だった。楽な死に方に見えた。