十一月七日
晴れときどき曇り 二十度 十四.八度
暗いホームに自動販売機の光が眩しい。光に誘われる蛾のように楠木がふらふらと自動販売機の前に立つ。黒く沈む影になった楠木の背中を日車は眺めていた。
楠木の曖昧な態度を見るにつけ、人間の複雑さを思う。スポーツ嫌いのアスリート。堂々とした体躯に似つかわしくない卑屈なほどに謙虚な態度。軽薄にさえ見える容貌と厭世と諦念を帯びた発言。苛烈な暴力性を示す証拠と死と暴力への嫌悪感。どこを切り取るかで人物像が異様に異なる。かつて日車はそういう人間の重層性を愛してもいたが、今となっては疎ましさも感じる。
楠木は自動販売機に小銭を投入した。規則的に点滅していた購入ボタンにランプが灯る。楠木の指がボタンを押す。がしゃん、と缶が落下する音がした。
「無益な経済活動だな」
日車が言うと、楠木はその場に屈み、自動販売機の取り出し口に手を差し入れる。清涼飲料水のカラフルな缶を手に、楠木は日車に向き合う。
「久しぶりにお金使いました」
「電子マネー派か?」
「……最近はもっぱら強奪派」
どうしようもない軽口に日車は肩を竦めた。駅の中で面倒事を片付けている間に、夜はとうに更けていた。駅のホームで身を乗り出し覗き込んだ線路の先は、暗く深い穴が口を開けているようだ。背後で明らかに楠木が尻込みする気配があった。日車はホームの縁から線路に飛び降りる。楠木が短い悲鳴を上げた。
「列車が来ることはないだろ」
「分かっていてもザワッとしますよ」
日車は暗闇を目指して歩く。ホームを楠木が並んで歩いた。日車の視線と同じ高さに、楠木のスニーカーがある。日車が「おまえ靴の裏大変なことになってるぞ」と言うと、頭上から「うわ見たくない」と泣き言が降ってきた。
線路の先から外気が吹き込んでくる。血のにおいをを雪ぐような涼しい風だった。やがてホームが途切れる。日車が戸惑いなく線路を辿り続けるのを見て、楠木は手すりを乗り越え線路に降りた。いつの間にか通り雨でも降ったものであろうか、線路はうっすらと濡れていた。晴れた空に白っぽい月が滲んでいる。
二人は並び、日車は上り線を、楠木は下り線を行くあてもなく歩く。
「これ、本当に列車は来ないですよね」
「来ないだろ」
東京がこのざまにならなければ、一生することのなかった経験であるかもしれない。ありがたがるつもりはないが、そうも考える。高架の下から瓦礫が突き崩される音がした。楠木が「みんな夜まで元気だなあ」と独りごちる。呪霊は夜に動きが活発になる。泳者は昼は他の泳者に、夜は呪霊に脅かされ、心身を消耗していく。
線路の先に巨大な土竜のような姿をした呪霊が蹲っている。月の光を受けて毛のない表皮がぬるぬると光っていた。呪霊は鼻を蠢かせ、目のない顔を二人に向けた。楠木はその醜悪な姿に小さく呻き、その場で軽く二、三度跳ねた。足元の大きな砂利が音を立てる。
「こういう事態に慣れてきているのが本当にいやな感じ」
ぽつ、と言うのと同時に、件の白濁し重たげな呪力が楠木の全身を緩慢に巡る。唸り声を上げこちらに向かってくる呪霊に、楠木は助走を付け、踏み切り、揃えた両足で蹴りを入れた。呪霊はもんどりうって吹き飛び、線路が歪む。塵になる呪霊をざふざふと踏み分けながら、楠木は日車のもとに戻ってきた。
「どうでした」
曖昧な問いだった。日車はその意図を汲もうとし、途中で面倒になった。
「よかった」
短くそうだけ答えると、楠木は眉尻を下げて笑った。右手の親指を立て、日車に立てて見せる。
「こんな思い切り跳んだり跳ねてたりしたら、他の選手の頭の上を飛び越しそう」
楠木は暗い空に向かって伸びをする。白い指先が空を掻いた。現状を受け入れるかのような言葉に日車は楠木の表情を盗み見た。楠木は面白がるような諦めているような、中途半端な表情を浮かべていた。
「特撮っぽかったな」
「あれ片足キックじゃありませんでした?」
楠木は首を傾げる。意識を失い抵抗できない青年を前に「こわい」ととどめをさすことの出来ない楠木が、巨大な呪霊には臆さず向かっていくようになった。思えば楠木ははじめから、呪霊への暴力には戸惑いがないようだった。
「人間を殺すのと、呪霊を殺すのと、何の違いがある」
日車が問うと、楠木は「全然ちがいますよ……」と気弱な声を漏らした。
「だって小さな頃から人を傷つけてはいけません、殺してはいけませんって教えられるけど、呪霊にドロップキックをしてはいけませんなんて教えられてないですし」
それに法律でも殺人は駄目って言ってるじゃないですか、と楠木は笑った。日車さん弁護士さんでしょ、とも加えられる。そうだな、と日車はぼんやりと答えた。投げかけるべき問いではなかったと思った。
「なぜ人は法を守らなければならないと思う」
日車の更問いに楠木は眉を上げた。延々と続く線路には青褪めた月の光が降り注いでいる。濡れた金属が冷え冷えとした光を帯びる。楠木はしばらく黙り込み歩き続ける足下を眺めていたが、ふと顔を上げた。
「みんな守ってるからじゃないですか」
日車は肩を揺らして笑う。
「驚いたな、当てるなよ」
楠木は目を丸くした。えマジですか、と軽い答えが返ってくる。
「人間が社会で共に生きるためのお約束だからな。相手が法を守るという最低限の了解があるから秩序が保たれ、自身も法を守る意味がある」
へえ、と気のない返事があった。
「誰も法律を守らない状況なら、おまえだって法を守る意味はないだろ」
「そうかな、そうかも」
「おまえが善良に法を守りたいと願っていても、泳者は構わず襲ってくる」
法律は人間が生み出した優れた制度であるが、人の手により作られた仕組みにすぎない。人に顧みられぬ法が人に影響を与えることはない。人の手により正しく運用されない法は無力で無益で無意味だった。
日車がぽつぽつとこぼした言葉に、楠木はふわふわした相槌を打つ。早々に興味を失うかと思ったが、日車の予想に反して楠木は歩きながら日車の話に静かに耳を傾けているようだった。だが熱心に聞いていた割に、返ってきたコメントは「日車さん弁護士っぽいですね」という気の抜けるものだった。日車はそれに「弁護士だからな」と答えかけ、口を噤んだ。その言葉が喉のあたりにつかえた。
やがて線路の先に水面のように揺らめく薄膜が見えた。近付き、手を当てると、ぶわぶわと奇妙に押し返された。膜の表面を見つめると向こう側が見えるような気もしたし、こちらが反射しているような気もした。どうやらここが結界の果てであるらしい。
結界を吟味する日車をよそに、楠木は上着のポケットに押し込んでいた缶飲料を取り出した。プルタブを引く高い音がした。聞き慣れた軽い音で、日車は疲れ果て無心で開ける缶コーヒーがある日々を思い出す。舌先によみがえる苦さがコーヒーの記憶なのか、他のことなのか、判然としない。
「俺は弁護士と言ったな、あれは嘘だ」
日車が言うと、缶に口をつけたまま楠木が「え」と声を上げた。無防備な声音が缶の中で鈍く響いている。
「自分の意思で二人殺している。今頃除名されているだろうな」
結界の外がまっとうに動いていれば、と日車は付け足した。楠木の反応を窺ったが、楠木は眉根を寄せただけだった。
「じゃあ元弁護士ではあるんですね」
「そうなる」
「よかった、自称弁護士の変な人だったらどうしようかと」
こんな状況で弁護士を騙る精神性は理解しがたい。二人殺している人間と比べてどちらが恐ろしいかを天秤にかけた結果、楠木にとっては前者の方が不気味であったらしい。それはそれで興味深い精神構造ではあった。
日車はスーツのポケットから名刺入れを出し、名刺を一枚出す。そこに印刷された事務所名と弁護士番号をざらりと眺め、日車は鼻を鳴らした。
「一応本物だった」
日車は楠木に名刺を差し出す。楠木はマナー講師が憤死するような気軽さで名刺を片手でつまみ上げ、街灯の光を頼りに表面に視線を滑らせた。
「へえ、弁護士さんの名刺ってはじめて見ました」
楠木は名刺をちり紙よりぞんざいに扱う。日車は財布もいらない場所で、ささやかな紙切れを後生大事に持ち歩いていたことが馬鹿馬鹿しくなった。
「珍しいなら全部やろう」
日車は楠木の手に名刺入れの中身をざらざらとあける。楠木は雑に投げ渡される名刺を落とさないように受け止めた。名刺の束をまとめ、指先でめくりながら「いらないんですけど」と唇をとがらせる。
「俺もいらない」
日車が言うと、楠木は何か言いかけたが、肩を竦めて名刺の束をポケットにしまった。夜は深くなり、空は墨を流したように暗い。二人は踵を返し、元来た道を戻る。
「何かあったらお友達価格でお願いします」
楠木の言葉に日車は胡乱な顔をする。
「何がお友達だ、俺たちは敵同士だぞ」
冷ややかな日車に楠木は苦笑いするだけであった。だが日車もあてのない道行を共にする女に連帯感めいたものを感じつつある。それを認め難くも思っていた。人の心の機微も、繋がりも、全てを投げ出し死滅回游の総則の在り様に希望を見出した。人は脆く弱く醜く、厳然たる規則だけがオートマチックに人を管理する仕組みに縋った。
楠木が唇に押し当てた缶を傾ける。口の中のものを飲み下し、楠木は暗い空を見上げる。
「弁護士、いいな。かっこいい」
「そうでもない」
そうなら人など殺してはいない。素っ気なく否定する日車を、楠木は謙遜か何かだと思った。
「でも少し前にやってたドラマとか、格好よかったですよ。あんなイメージ」
「フィクションだ」
うんざりするほどかけられてきた言葉だった。意図せず日車の声色は硬くなる。華やかなパブリックイメージと裏腹に泥臭い仕事だ。明晰な頭脳と咄嗟の機転で弁舌爽やかに他者を圧倒し勝利を掴む弁護士像は虚像だ。聴取、調査、書類作成、聴取、調査、書類作成、怒り、妬み、嘘、保身、自己正当化、責任転嫁、日車が日々接してきたのは、そういうものだけだ。
強張る日車の表情に、楠木は弁解じみた笑みを浮かべる。
「……でも、尊敬される仕事じゃないですか。私も尊敬――までは望まないですけど、人に感謝される仕事につけばよかったって思います」
日車はそれを鼻で笑った。
「尊敬も感謝もされない。勝てば忘れられ、負ければ恨まれる」
吐き捨てるように呟く日車に、楠木は眉尻を下げる。
「だから――いやになった」
言葉にすれば頑是ない子供の駄々のようだ。己に辟易する日車に、楠木は飲みかけの缶を無言で差し出した。日車は歩調を緩めないまま冷たい缶を受け取り口を付けた。人工的なフルーツの香りが鼻先に纏わりつく。刺すような甘さが舌に残った。甘ったるい清涼飲料水を、一度に飲み切れなくなったのはいつの頃だったろうか。
「いやになっちゃったかあ……」
楠木の選ぶ言葉は軽やかで、だが声音は神妙だった。変に真面目ぶられるより気が楽で、一蹴されるよりは誠意がある。楠木は話術が巧みではないが、ある種の気遣いは絶妙だった。日車は彼女のそういう態度を、案外大人だと感心もしたが、どこか痛々しくも感じた。
「父親が刑務所にいるんです」
突然そう言われ、日車は楠木の方を見た。楠木は常の曖昧な笑みを顔に乗せている。
「そのときに弁護士さんのお世話になりました」
日車は楠木が「弁護士の佐々木さんって知ってますか」と言っていたことを思い出した。
「何で」
「しょうもないんですよ。地元の先輩にそそのかされて密漁団に駆り出されて、とろいもんだから検問で一人だけ捕まっちゃった」
ばかですよねえ、と楠木は乾いた笑い声をあげた。
「実刑になったのか」
「酔って標識壊して執行猶予中だったみたいで」
ああ、と日車は呻く。
「期間は」
「一年二か月」
「……厳しいな」
腕の悪い弁護士だったのではないか。日車は頭の片隅で己だったらどう弁護するか考えかけ、眉を寄せてそれをやめた。
「恨んでないですよ。まあ父親は分かんないですけど」
そうか、と日車は低く答える。
「次があったらお友達価格で弁護してやる」
「え、ありが――いや縁起でもねえ」
日車は缶を楠木に返す。楠木はジュースを一口飲んだ。
「殺したのは裁判官と検事だ」
楠木は小さく噎せた。眉根が寄せられ、戸惑いがちな目が日車を見る。
「……撲殺ですか」
「そんなことを聞いてどうする」
「すみません、つい」
日車のもとにさきほどより軽くなった缶が戻ってくる。日車はそれを飲み干し、空になった缶を握りつぶした。楠木は日車の手の中でくしゃくしゃになった缶を見て、日車に向けて手を伸ばす。日車が缶を手渡すと、楠木は高架橋の下に向けてそれを投げ落とした。アスファルトにアルミ缶が落下する音は聞こえなかった。
「どうでしたか」
楠木は言う。日車は「気分が良かった」と無感情に答える。悔いはない。同情も受け入れない。検察の威信と保身のための行いが許されるのならば、弁護人の怒りと絶望ゆえの蛮行も許されてしかるべきだ。胸の片隅に引っかかる氷の針のような違和感には気付いていないふりをした。楠木の双眸がじっと日車を見ていた。居心地の悪い視線だった。八つ当たりめいて「なんだ」と言うと、楠木はついと目を逸らして「いやなにも」と答えた。
「弁護士さんでさえそんな扱いなら、もう世の中希望なんかないですね」
溜息交じりにそう言う楠木に、日車は自嘲気味に笑った。
「結界内の方がマシかもな」
「分かりやすいですもんね」
わかりやすい、と日車は心中で反芻する。生きることだけを目的に眠り食い殺すのは、野にある獣のようだった。ここでは弱い者から呆気なく死んでいく。個々の事情は考慮されず、丁寧な説明もなく、順応できない者は簡単に食い物にされた。これが人間の本性だなどと露悪ぶってみるつもりはなく、純然たる暴力による序列が組まれているだけで、ただ日車はそれに虚しさを感じた。そういうものに抵抗して弁護士になったはずだった。人間の感情から乖離した法律という制度を扱うには、人は弱すぎた。己も含めて。日車は溜息になりきらない息を吐く。
歩くうちに空は白みかけていた。青みを帯びた空を見上げ、楠木は「うわ、朝じゃないですか」とぼやく。ホームの姿が遠目に見える頃にはあたりは徐々に薄明るくなっていた。通常であれば始発電車が走り始める時間だった。
楠木はホームに上がると顔を両手で覆い「ねむい」と欠伸をかみ殺す。日車もホームに上がりながら「子供か」と呟いた。