十一月八日



晴れのち曇り 二〇.七度 十三.一度



 駅に入っている蕎麦屋の座敷で座布団を枕に横になっていた。暖色のやわらかな照明を浴びながら和紙状に型押しされたオフホワイトの壁をぼんやりと眺める。目は覚めたが起き上がる気にならず、横になったままスマホをいじっていた。日車の姿は見えなかったが、厨房の方で人の気配がした。楠木は起きたら日車が己を置いていってしまっていたらどうしようと思うことはなくなった。日車も楠木が逃げることを念頭に置かなくなっているようだった。信頼と言えば聞こえはよく、その実ただの馴致のような気もする。お互いがお互いを傷つけ、殺す可能性には見て見ぬふりをしている。そこまで考え警戒する余裕は、少なくとも楠木にはなかった。
 日車の名刺を片手に、その名前を検索エンジンで検索してみる。他にやる事もなかった。珍しい名字であるためか、すぐに弁護士会の名簿が引っかかった。楠木は日車を疑ったわけではなく、日車が弁護士ではなかったからといってどうということもないが、本当に弁護士だったのだなと思う。
 そのままだらだらと検索結果を眺めていた。弁護士会関連の結果がいくつかと、姓名診断のサイトが出てくる。それらをスクロールしていくと、ニュースサイトのコメント欄が引っかかった。
 何の気なしにページを開く。白い背景に黒い文字のシンプルなページに「この弁護士の名前は日車寛見ってヤツな。みんな覚えとけよ」というコメントが表示される。返信には「特定早いな」「こいつ前も同じようなことしてたよな」「某大卒だろ司法の大学派閥はマジで腐ってる」とお世辞にも好意的とはいいがたい反応が並んでいた。楠木は寝惚けた頭に冷や水をかけられたような気分になり、起き上がり枕にしていた座布団に胡坐をかいた。画面を隠すようにスマホに覆いかぶさる。見てはいけないものを見ている気分だった。
 コメントの元となったニュースのページのリンクをタップする。盛岡市母子強盗殺人事件一審は無罪に、というタイトルの事件名にはぴんと来なかったが、内容を読むうちに以前そんなニュースがあったことを思い出す。若い男が母と幼い娘を刺殺した事件だと記憶している。その事件のニュースを観たとき、根拠もなく「ひどいことをするヤツがいるものだ、厳罰が下ればいい」と思った。テレビの前の善良で無責任な小市民などそんなものだ。
 ニュースは被告人に証拠不十分で無罪の判決が下ったことを報せるものだった。コメント欄は同時期の同じようなニュースよりもコメント数が一桁多い。世間の関心が高いというよりも、炎上しているという印象を受けた。
 楠木は事件名で検索し直す。いくつかのニュースサイトはすでに閲覧不可能になっていたが、残った記事からでも事件の概要は窺えた。犯人は血の付いた凶器を所持していたことで逮捕されたらしい。やはりこいつが犯人ではないかと思う。
 たとえば父の弁護士が日車であったなら、父は刑務所に入ることはなかっただろうか。
 蕎麦屋の厨房から日車が出てくる。両手に青い丼を持っていた。起きたのか、と日車が言うので、楠木はスマホを卓に伏せて置き片手を挙げた。
「何ですか、それ」
 楠木は日車の手の中の食器に眉をひそめる。いつもは人をいとも簡単に殺める木槌を握る手に、焼き物の食器は不似合いに見えた。日車は靴を脱ぎ座敷に上がると丼を卓に置く。一つは楠木の目の前まで押して寄越された。丼の中身は半熟の卵がつやつやと輝く親子丼だった。ご丁寧に三つ葉まで飾られている。
「食材が残ってた」
「え、作ったんですか」
 楠木はまじまじと日車の顔を見つめる。日車はうるさそうな顔をして「いらないのか」と割り箸を割る。楠木は慌てて首を横に振った。あたたかい出汁の香りを嗅ぐと、急に腹が減ったような気がしてくる。楠木は胸の前で手を合わせると挨拶もそこそこに箸と丼を手に取った。多少味が薄い気がしたが、久しぶりの温かい食べ物は心身に沁みる。
「美味しい。お店の味」
「店の材料を使っているからな」
「蕎麦屋の丼ものって美味しいですよね」
 返答を期待しない独り言のような言葉に「カレーも美味い」と短い返事が返ってくる。楠木は丼から顔を上げ日車の方を見た後、そうですねと気の利かない返事をした。
 楠木は日車が「二人殺した」と言ったとき、特にその背景を探ろうと思わなかった。目の前で多くの人間を殺してきた男が、結界に入る前に二人殺したからと言って何ほどのものであろうか。人間生きていればそういうこともあるのかもしれない。楠木にとって日車の「二人殺した」は二という数字以上の意味を持ち得なかった。だが日車が本当に弁護士であったこと、裁判官と検事を殺したということが、急に生々しい実感を持つ。ニュースサイトのコメント欄に連ねられた卑近な憤りが、楠木に日車とかつてあっただろう日常を地続きにした。
「――盛岡の、母親と小さい女の子が殺された事件」
 日車の箸を持つ手が一瞬止まる。楠木はこの話題を続けるべきか否か迷った。だが日車は「俺が弁護した」と事も無げに言う。吐き出された言葉のかわりに口内に押し込まれた米飯は先の一口より少なかった。
「日車さんの名前で調べたら出てきました」
「そうか」
「もし日車さんが私の父親を弁護するとしたら、」
 楠木の言葉を遮るように日車は手のひらを差し出してくる。楠木は不意に突き出された手のひらをまじまじと見つめるほかない。ホワイトカラー特有のなめらかな手のひらは思いのほか大きい。
「仕事の話をさせたいなら三十分五千円だ」
 楠木は上着のポケットに入れた財布から千円札を数枚取り出し日車の手のひらに押し付ける。日車は手の上の紙幣を見て呆気にとられた顔をした。
「本当に払うのか――おい、四千円しかないぞ」
「お金下ろすの忘れてて……あ、待って、八百円ある」
 紙幣の上に小銭を落とそうとすると、日車は「いらん」と手を引っ込めた。
「じゃあ四千円分話聞いてくださいよ、ええと、二十……」
「二十四分」
「計算はやい」
「おまえが遅いんだ」
 日車は紙幣を卓の隅に置く。楠木は親子丼を慌てて食べ終え、箸を置いた。
「うちの親父が今刑務所に行っているって話を前にしたじゃないですか」
「したな」
「日車さんなら無罪に出来ました?」
 楠木の問いに日車は黙々と箸を進める。口の中のものをやっと飲み込むと、一言「無茶言うな」とだけ言った。
「無茶ですか」
「密漁で起訴されたなら現行犯で、継続的だったと認められたんだろう」
 詳しいことは知らないが、古い友人に唆されて半年ほどアワビやサザエが山積された軽トラックを運転していたらしい。ちょうど仕事中に検問で摘発された。小心者の父親は泡を食い、密漁団のボスが弁護士を派遣する前にあることあること洗い浚い吐き出してしまった。楠木がそれを言うと、日車は黙って肩を竦めるだけだった。
「でも日車さん、盛岡の事件は無罪にしたのに」
 だってあれなんか絶対アイツが犯人じゃないですか、と軽い気持ちで言い放ち卓に肘をつく楠木に、日車は冷ややかな視線を向ける。楠木は刺すような視線を受け、居心地悪く卓についた肘を下ろし膝の上で指を組んだ。
「あの事件は被告人が犯行現場の周辺で血の付いた凶器を所持していただけだ」
 楠木はぎゅうと眉根を寄せる。
「犯行現場の周辺に血の付いた凶器を持った人がいたらそれは犯人ですって」
「いや、犯行現場の周辺に血の付いた凶器を所持した人間がいたら、それは犯行現場の周辺で血の付いた凶器を所持した人間だ」
 それ以上でもそれ以下でもない、と言われ、楠木は「いや、そりゃそうですけど」と割り箸の袋を手慰みに細く折った。
「おまえが犯人なら、血の付いた凶器を後生大事に取っておくか?」
「どうかな、手放したいとは思うけど、見えるところにないと不安になるから持ち続けちゃうかも」
 楠木の返答に日車はふと眉を上げる。
「興味深い意見だな。だが凶器を処分する人間の方が多いだろ。被告人は凶器は拾ったものだと主張した」
「……それ、うちの親父がアワビ山盛りのトラックは拾ったって言い張ったら通用するってことですか」
「窃盗で逮捕される」
「ああ……そうですけど……」
 納得がいかない楠木に、日車は淡々と被告人の周囲の話をする。得体の知れないNPO法人、劣悪な環境、被告人の為人。楠木が思わず「そんなことまで話していいんですか」と尋ねると日車は「これくらいはワイドショーでも散々こすられた」と事も無げに言う。日車の言うことは理路整然として楠木には聞こえた。
「まあ、その人が血の付いた包丁持ってうろうろしててもおかしくないってのは分かりましたけどぉ」
「ついでに、犯行時刻にはコンビニの防犯カメラに被告人の姿が映ってる」
「え、じゃあ犯人別にいるじゃないですか」
「さらに言うなら、その法人の職員が一名、事件直後から行方不明になっている」
「そいつじゃん、犯人」
 楠木の言葉に日車は呆れた視線を向けた。
「楠木、おまえ人の話を聞かない奴だな。事件直後から行方不明になっている人間がいたら、それはただ事件直後から行方不明になった人間だ」
 日車の言いように楠木は眉をひそめる。
「手が出そうになりました」
「やめろよ」
 テーブルの上で拳を握る楠木に日車は淡々と応じる。何気ないやりとりが洒落になるようなならないような状況だった。ふ、と楠木は小さく笑う。いつの間にかこの境遇に慣れつつある。
「でもその人は無罪だったんだし、やってないってことですか」
「やったと断定するに至る確実な証拠がないと判断されただけだ」
「……やったんですか、やってないんですか」
「そんなこと、俺に分かるわけないだろ。神様じゃないんだ」
 楠木はぐちゃぐちゃになった箸袋を卓上に落とす。湿った袋は音もなく落下した。
「犯人かもしれないのに弁護するんですか」
「犯人だろうと弁護はする。それが司法だ」
 インターネットで悪しざまに罵られているのに? とは、思っても言えなかった。日車は鼻を鳴らす。
「おまえの父親だって弁護士はついただろ」
「その節はどうもお世話になりました」
 クソ貧乏でどうしようもない小悪党の親父に、と楠木は茶化して付け足す。楠木の軽口に日車は視線を上げる。
「善良な金持ちは犯した罪に対する罰が軽くなるのだとしたら、そんな理不尽はない」
 楠木は日車の暗い表情を見つめる。楠木が時折分からなくなるのは、結界内で誰よりも容赦なく人を殺す日車により訥々と語られる法と正義が、ひりひりと痛ましいほどに公正を拠り所とし弱い者に寄り添うことだ。父の件で世話になった弁護士も悪い人ではなかったが、何かの拍子に「でも国選弁護だから」と呟いていたことを思い出す。そのときの楠木には言葉の意味が分からなかった。今は少しわかる。
 楠木はテーブルに肘をつき、日車が丼に向かい手を合わせるのを眺めた。
「日車さん、実は真面目で優秀な弁護士だったりしました?」
 それを聞いた日車は唇の端を歪め、両の手のひらを天井に向ける。
「俺がか? このザマだぞ。判決に逆ギレして裁判官と検事を殺す弁護士が真面目なら、連続殺人犯だって聖人だ」
「うへえ、そんなことしたんですか」
「笑えるか?」
「あんまり」
 日車は楠木の返答を聞いて肩を竦めた。そんなものだ、と日車は言う。日車に弁護士としての矜持があるとすれば、司法にも守るべき権威がある。精査の上起訴したという事実があり、厳罰を望む世論があり、血の付いた凶器という証拠もある。世間の注目の高い裁判で無罪判決が出た被告人が次の事件でも起こせば非難の声は免れない。被告人を放免したのが日車一人ならば悪徳弁護士の謗りで済むが、司法への不審は国を揺るがす。それが良いか悪いかの意見はさておき、慮る事情は理解できる。十人の真犯人を逃すとも、一人の無辜を罰するなかれ。疑わしきは被告人の利益に。法曹界でそれらの言が繰り返し唱えられるのは、それをまっとうするのが極めて困難だからだ。
 独白めいた日車の語りを聞いた楠木は、話を聞いている間指先で弄んでいた傷んだ髪の毛を掻き上げた。
「でもその犯人……犯人じゃなかった人くらいは、日車さんに感謝してるんじゃないですか」
「有罪判決が出た途端、俺を殺したそうな目で見ていた」
「……それも、そんなもんですか?」
 日車は天井を仰ぎ白々と笑声をこぼした。
「そんなもんだ」
「ムカつく」
 思うままに吐き出した相槌に、日車は「生まれて初めて聞いた単語だ」というような顔をした。楠木はその顔にむしろ拍子抜ける。「え、だってムカつきません?」と重ねれば、日車は眉尻を下げて「……まあ、そうかもな」と呻いた。
「追い詰められた人間はそんなもんだ」
 楠木は卓上で拳を握る。
「私は金ないし馬鹿で性格もイマイチだし常に追い詰められてるけど、同じ状況で日車さんを逆恨みしないですよ……多分」
 なんでムカつかないんですか、と楠木は眉根を寄せる。そういうものだ、と許されれば、それはそれで馬鹿にされているような気もした。楠木はのろのろと席を立つ。
「飲み物でも探してきます」
 蕎麦屋の厨房は初めて入ったが、以前バイトをしていた飲食店と基本的なつくりは変わらない。楠木はそば茶の大袋を見つけ、火事のような火力のコンロで湯を沸かす。冷蔵庫に日本酒の一升瓶が並んでいるのを見つけ、カウンターから座敷を覗き込んだ。
「日車さん、日本酒飲みます?」
「酔っ払いの話し相手はごめんだ」
 はあ、すみません、と楠木は厨房に引っ込んだ。壁の貼り紙には従業員に向けられたもので「そば茶は急須に大匙二杯」と書かれていたので、急須に大匙三杯のそばの実と湯を入れる。席に戻ると日車はスマホで動画を観ていた。何を観ているのかと画面を横目に見ると、楠木が所属していた女子プロレス団体のプロモーション動画だった。楠木は思わず湯飲みを取り落としそうになる。
「……私ほとんど映ってませんよ、人気ないし」
「そうらしいな」
 日車は動画を止めてスマホを置いた。楠木は日車が再びスマホに手を伸ばすことがないようすかさず湯飲みを渡す。日車は湯飲みを受け取り口を付けた。楠木は席に戻る。湯飲みにはまだ口を付けなかった。人が飲めないほど熱いのが分かっていたからだ。日車が熱い飲み物が平気なのか、無理をして口を付けたのか、熱さもどうでもよくなっているのか、楠木には判断のしようがない。
「弟がいたんです」
 少し年の離れた、と楠木は言う。結界内でやる事といえば、食べるか眠るか殺すか喋るかくらいで、二人は暇に飽かせてよくとりとめのない話をした。バックグラウンドを共有しない二人の雑談の行きつく先は、結局身の上話くらいしかない。
「色々な人に聞かれるんで一応伝えておくと、身長は平均くらいでしたね。細身で、今風の男の子って感じ」
「……聞いていないが」
 日車が心底興味のなさそうな顔をするので、楠木は苦笑する。大抵の人間はそれを聞きたがるものだ。
「私は、弟にはまっとうな大人になってほしかったんです。いつまでも地元で小学生の頃の先輩の使い走りをしているような大人じゃなくて」
 そういう大人が楠木の周囲にはいくらでも吹きだまっていた。将来の展望もなく、安い仕事を転々とし、子供時代の力関係を引きずり、自分より弱い者に大きい顔をする。つまりは己の父親のような大人だ。弟は幸いにも両親にも己にも似ていなかった。頭もよく、優しく、どちらかといえばいじめられっ子であったが、楠木はいじめっ子であるよりずっといいと思っていた。
 楠木の微々たるファイトマネーとバイト代はほとんどが弟の学費に消えた。弟もバイトで生活費を稼ぎながらの大学生活は厳しかったはずだ。成績優秀とはいえずとも、それでも四年で大学生活を終えた。
「私にはなんにもないから、せめて弟にはって思ってたんです。弟さえまともなら、うちの家族はやり直せるって思ってたのかな」
 楠木はそば茶の水面に息を吹きかける。白い湯気がぱっと散り、黄金色の水面が波立つ。
「感動的な話だな」
 日車の心のこもっているのかそうではないのか分からない相槌に、楠木は笑う。
「でも卒業式の日に姿をくらまして、それきりです」
 つ、と日車の三白眼が向けられる。感情の伺えないその視線を受けるだけで、楠木はいつも問い質されているような居心地の悪い気分になる。
 弟の思うところは、楠木には分からない。恨み言のように大学に行けと強要する中卒の姉は、弟にとっては重荷であったのかもしれない。思春期の弟には、露出の多いコスチュームで見世物になる姉は恥ずべきものであっただろうか。弟のやりたいことはもっと他にあったのかもしれない。楠木が弟のためを思っていたのは真実で、見返りを求めたわけではない。将来は弟の世話になろうと考えていたわけではない。今、楠木が幸せならば、それはそれでいい。
 楠木は弟に、捨てるべきものを捨てられる大人になってほしかった。弟にとっては楠木も捨てるべきものの枠に入っていた。両親や閉塞的な地元やいじめっ子たちと同じように。
「――ただ、まあ、一言ありがとうくらいは言われたかったかな」
 楠木は一口お茶を含む。熱く、香ばしい。弟は姿を消し、父は収監され、母は帰ってこなくなった。楠木がやりたくもない稼業で身を粉にし心を砕いてまで維持したかった家族は、元からなかったように消えてしまった。
「ムカつく話だ」
 唐突に日車がそう言う。湯飲みはすでに空になっていた。楠木は適温になりつつある茶を喉の奥に流し込んだ。
「でも私がそう思っちゃったらおしまいだから」
「……そうだな」
「日車さんがかわりにそう言ってくれて、ちょっと嬉しいです」
 楠木の周囲の人間は「大学に行くような奴はそんなもんだ」と言った。あいつらは俺たちのことを見下しているんだ、と怨嗟を囁きながら楠木に「おまえはこっち側だよな」と肩を組んでくる。楠木はそういう人間のそういうところが嫌いで、上手く逃げられた弟を喜ばしくも羨ましくも思う。
「言っておくが、大学を出た人間だって最低限の恩義を感じる心くらいはある」
 日車は短くそう言い、楠木がその言葉の言わんとすることを飲み込む前に席を立つ。やっと己の失言に気が付き「ああいやそういうわけでは」と言い訳にもならない呻き声を口の中で繰り返す楠木を後目に日車は靴を履いた。使用感はあるがきちんと手入れのされていたであろう革靴は、今は血を吸いぶよぶよと波打っている。
「飯も食ったし体でも動かすか」
 ひゅ、と空を切る音がして顎先に木槌の頭が迫っていた。それを膝立ちのまま見ているだけの楠木にぶつかる寸前で木槌は止まった。日車が長柄ごしに呆れたように楠木を見る。
「何をぼうっとしているんだよ、避けるか庇うかしろ」
「いやあ……つい、癖で?」
「鈍いだけだろ」
 日車に倣い楠木は慌てて靴に足を捻じ込み蕎麦屋を出る。人のいない駅の飲食店街はがらんとしていて、体を動かすには最適かもしれない。楠木は冷たい石の床をスニーカーの爪先で叩き、顔をしかめる。
「もう少し床が柔らかいほうがよかないですか」
「おまえを殺しに来た泳者にそう頼むのか?」
 返す言葉もなく、楠木は日車に向かい合う。暗い色のスーツの立ち姿が筋骨隆々の大男より恐ろしいのは、楠木が日車の強さと容赦のなさを知っているからだ。その強さが絶望と自己嫌悪と自暴自棄によっていることもうっすらと理解しつつある。負の感情を原動力とする人間は己も周囲も蝕む。
 それでも楠木が日車と道行を共にするのは、楠木が日車の言動に一筋の救いを感じるからだ。楠木の周囲には「色々とどうでもよくなった」人間がいくらでもいた。どうでもよくなって、どうにもならない人間をいくらでも見てきた。それらに比べれば、日車は遥かに理性的だった。それが日車にとって幸いであるかは定かではない。絶望によってさえ剥ぎ取られない知性は、或いは不幸であっただろうか。楠木は時折、日車の薄い耳朶に「日車さん、本当は全然どうでもよくなってないでしょう」と囁いてみたいという強い誘惑にかられる。
 振り下ろされる大槌の柄を楠木は握る。奪い取れぬかと強く引いた瞬間、手の内の木槌がぱっと消えた。よろける楠木の脇腹を槌の柄がしたたかに打った。
 楠木の目にはいつからか日車の纏う薄衣のような力の気配が見えていた。自在に出力を変え、翻るように変形する力の気配は、なめらかで美しい。有象無象の泳者の中でもこれほど鋭く呪力を操る人間はいない。それほどの手本を間近で見ているというのに、楠木の呪力は相変わらず重く鈍い。楠木が力任せに日車のネクタイを掴もうとすると、日車はするりと楠木のリーチから外れる。
「おまえに掴まれるのは厄介だ」
「つ、掴ませてくださいよ、試合にならないじゃないですか」
 日車はそれを鼻で笑って一蹴した。身を伏せた足払いは避けられ、ハイキックは木槌でいなされる。デスクワーカーの動きじゃないだろ、と楠木は今更ながら舌を巻いた。逆袈裟に振り上げられる木槌を、日車の言うように前腕で受けたが死ぬほど痛かったので二度とやりたくない。
 低い姿勢から日車の間合いに体をねじこみ、両手で日車の両の手首を拘束する。これでは槌は振るえまい。日車は磔のようになったまま楠木の顔を見上げる。楠木はこれほど至近距離で日車の顔を見たのは初めてだった。暗いばかりの双眸には、濃い色の虹彩が鈍く融けている。
「楠木、違う出会い方をしていればよかったな」
 楠木は日車の手首を強く捻りあげる。日車の表情がわずかに歪んだ。
「こうでもなければ、口を利くことすらなかったですよ」
 日車の腹に膝蹴りを入れようとする楠木の後頭部に大槌が落下してきた。楠木は短い悲鳴を上げて後頭部を押さえる。
「いっ……たァ」
「呪力の運用がそのザマで、その力と頑丈さは人間じゃないだろ」
「ひ、ひぐるまさんに言われたくない……」
 頭がガンガン痛み、鼻血まで出てきた。楠木はよろよろと店内に戻り、おしぼりで顔を拭く。白いおしぼりに鮮血が滲み、どうしてか少し笑ってしまった。
 楠木は座敷にへたりこむ。日車が隣に座った。楠木はおしぼりで鼻を押さえたまま「また移動するんですか」と尋ねた。日車は少し考えた後「どうせなら普通は入れない場所に入り込むか」と楠木にスマホの画面を見せる。マップアプリが表示された画面には、ガラス張りの瀟洒な建物が映っている。劇場らしかった。
「いいんじゃないですか」
 鼻を押さえくぐもった声で楠木は応じる。楠木は卓上に置きっぱなしにしていたスマホを取る。スリープ状態を解除した画面には先ほどのニュースサイトのコメント欄が表示された。楠木は日車の目を盗みコメント欄に「言うほど悪徳弁護士じゃないかもしれないのでは」と投稿しようとしたが、何度やってもエラー表示が返ってくるばかりだった。