十一月九日
雨 十七.三度 十四.ニ度
日車が目を覚まし寝床を抜けると、楠木が死体を見下ろして歯を磨いていた。歯磨き粉の清涼感のあるミントの香りが日車のもとまで届く。楠木は頭部を割られた死体から視線を上げ、日車に向かって会釈した。日車はそれに会釈を返す。死体の脇で女が平気な顔をして歯を磨いている。現実味が濃いような薄いような奇妙な光景だった。
「よく眠れました?」
楠木は口を開けずに言う。日車が首肯すると、楠木は「死体と一つ屋根の下で……」と尻すぼみにぼやいた。日車は暢気に歯を磨いている奴に言われたくないと思ったが、別に指摘するほどのことではなかった。
雑居ビルに入った輸入雑貨屋で色とりどりの雑貨に囲まれて息絶える男を見る。年の頃は四十前後だろうか。遊び心のない暗色のスーツに退屈な柄のネクタイをつけている。身に着けているものは汚れ綻びていた。髭が伸びているのは伊達や洒落ではなく剃る時間も心の余裕もなかったのだろう。
生前の男はこの状況を受け入れ楽しんでいる様子ではなかった。目を血走らせ嗚咽を漏らし震えながら無闇に武器を振り回していた。楠木が悲鳴を上げ「話し合いません!?」と喚きながら逃げ惑う様子は面白かったが、いい加減騒々しいので殺した。楠木は息を切らしながら「どうも」と呻いた。楠木は己が誰かを殺めるのは厭うが、日車が殺す分には構わないことにしたらしい。それはそれで随分な精神性だと思った。
雑貨屋のバックヤードには人が睡眠を取れる程度の設備があった。ときに店主が泊まり込んで作業をしていたのだろうか。壁には海外の写真が何枚も飾られている。複数の写真に写り込んでいる女性が店主であろう。日に焼けた顔に白い歯が光っていた。
その手のものに疎い日車の目にもセンスのいい店に見えた。旅先で出会った美しいものを並べた店内は彼女が撮影した写真の色味によく似ている。だがその志に反して店の経営状況は芳しくなかったらしい。小さなデスクには請求書や督促状が乱雑に重ねられていた。
果たして店主は生きているのか。生きていたとして、店を失ったことを嘆いているのか。或いはこれ幸いと再出発を目論んでいるかもしれない。
楠木はトイレの手洗いスペースに歯磨き粉を吐き出す。髪の毛を汚さないよう手でまとめながら俯く姿が場違いなほどに女性らしい。大柄な楠木が小作りな手洗い場に身を折る様子は、水辺に集まる草食動物のようだった。壁に貼られた写真の中に、そんな風景があった。
口をゆすいだ楠木は日車に「この歯磨き粉、笹が入ってるらしいですよ」と言った。日車に示して見せたチューブにはパンダと笹のイラストが入っている。日車は胡乱な顔で「そうか」と答えた。
「味は?」
「……普通」
日車が手を差し出すと、楠木は日車の手にチューブを乗せた。ひんやりとした感触のチューブは指先で強く押すと簡単に形を変える。日車は狭い手洗い場で顔を洗った後にそれを使った。緑色のペーストは確かに少し青臭いような気もした。だがおおむね楠木と同じような使用感を抱く。洒落たボウル型の手洗い場は身嗜みを整えるのには向いておらず、浅いボウルから溢れた水が床を濡らしていた。
「行くか」
濡れた手を商品棚に陳列されたハンドタオルで拭きながら日車が言えば楠木は手近な棚から菓子の袋をいくつか取ってポケットに入れた。一つ投げ渡された小袋はカラフルなマーブルチョコレートだった。見た目の割に重く、ぺらぺらの包装の中でチョコレートの粒がじゃりじゃりと擦れ合う気配がした。
「劇場でしたっけ?」
日車はそれを肯んじた。別に芸術に執着があるわけでも馴染みの深い人生を送ってきたわけでもないが、なんとなく目についた。
「拠点にするのにいい場所とは思えないですよ」
独り言のように忠告のように楠木は言う。
「生き延びてどうするんだ」
日車が素っ気なく言うと楠木は力なく笑って「それもそうですけど」と溜息をついた。楠木が軽い足取りで死体を跨ぐ。死体を踏まないように爪先立ちになった楠木の足の下で、散乱した雑貨がぱきんと音を立てた。
「日車さんに似てませんでした?」
俯せの男の髪の毛が黒々としているのは血で汚れているからだ。己と年齢がいくつも離れていないだろう男の旋毛に血の這う地肌が目立つことに、日車は淡くいやな気分になった。年齢層の高いこの業界ではいつまでも青年扱いであったので、そこを一歩出れば己がすでにそこそこいい歳であることを失念しそうになる。幼い時分には三十代後半は十分に大人で十分におじさんだった。みな堂々として強く何でも出来るように見えていた。年端の行かぬ己は、大人になった己がいまだ思春期のように迷い悩み苦しんでいると知ったらどう思うだろうか。癇癪を起こした子供のように全てを台無しにしたと知ったら、己は己を軽蔑するだろうか。
日車は鬱々と詮無いことを考えかけ、鼻を鳴らす。
「スーツの人間は見分けがつかないか?」
「そういうわけでは……」
楠木は眉根を寄せて男の上着から零れたスマホを拾い上げる。日車に示されたロック画面には、男と数人が映っている。女性と、十歳前後の子供たちだった。彼の家族だろう。末の子の足元で座敷犬が男の顔を見上げていた。
「だから、つまり、こういうめちゃくちゃな事態とは無縁な人」
楠木はそう言うと、男の胸元にスマホをそっと置いた。
「罪悪感で圧し潰されそうか?」
日車は意地の悪い語句を選ぶ。だが楠木は日車の思惑通りの反応はしなかった。目を細めて首を傾げ「かわいそうだなとは思いますけど」と言うだけだった。日車は横目に楠木を見ながら雑貨屋のドアを押し開ける。ドアの内側に下げられたOPENのプレートがからからと音を立てて揺れた。
外は生憎の雨模様であった。人の気配がないせいかコンクリートの濡れる金属質なにおいが濃く立ち込めていた。土砂降りというわけではないが、外をうろつく気力は削がれる。足を止める日車に楠木が商品の傘を差し出した。日車にはグレーの雨傘を差し出しながら、楠木は手に派手な紫色のビニール傘を持っている。日車はそれを受け取り店の外で差す。開いた傘の内側を見てぎょっとした。一見地味なグレーの傘の内側には虹のかかった晴天の絵がプリントされている。洒落は効いているが、気分ではない。
楠木は傘の内側を見て顔をしかめる日車の視線を辿る。傘の内側の明るい空を見て、楠木は申し訳なさそうに「交換します?」と申し出た。日車はそれを遠慮する。どこから見ても派手な紫の傘よりは、他者から見れば地味なこの傘の方がマシだった。
細かな雨が傘に当たる音が心地いい。さあさあと低い音がホワイトノイズのようだった。
「その劇場、他に誰かいますかね」
楠木の声は雨音でかき消され聞き取りにくい。日車は「拠点には向かないとおまえだって言ってただろ」というようなことを言ったのだが、日車の低く抑揚のない声はさらに聞き取りにくかったらしい。楠木は眉尻を下げながら日車の方に頭を傾ける。傘の縁がぶつかった。
「日車さんにとって、人を殺すのは大したことがないですか」
雨音の向こうで楠木の声がざらざらと響く。以前そういう趣旨の言葉を口にした記憶はあった。だが「大したことがない」と言った覚えはない。大したことがないと思おうとしているだけだ。泣き言のような日車の言葉に――楠木は苦し紛れに半笑いで「ウケますね」と言った。今思えばそれは正しい反応であったかもしれない。
「大したことではないだろう」
おまえだって術式が未発現でも幾度となく他者を殺し得る機会があった。日車の言葉に傘の向こうで楠木が身動ぎする気配がした。
「だが人間は人間を殺すのに向いていないな」
小さく呟いた言葉は、傘の向こうに届いただろうか。楠木から応えはなかった。小さな雨の粒が弾ける音ばかりが聞こえた。
やがて目当ての劇場に辿り着く。ガラス張りのモダンな建造物は雨に濡れて暗く鈍くきらめいていた。二人は傘を傾け夜の空のように覆いかぶさる大きな建物を見上げる。実物は画像で見たよりも存在感があった。
「体育祭で喜べなかったときも、卒業式で泣けなかったときも、私は私を人でなしなんじゃないかって思いました」
雨音越しの楠木の声はどうしてか常より張りがあって聞こえる。日車は楠木の横顔を見た。楠木は日車のほうを見、目が合うとふっと微笑む。
「私は人を殺すことじゃなくて、人を殺して、それで自分が何も感じなかったらって思うと、すごく、こわい」
でもそれって自分のことしか考えてないってことなんじゃないかとも思うんです、と言って笑う楠木の顔から日車は目を逸らす。
「日車さんはあまり動じなかったですか」
日車は「最悪の気分だった」と舌の根までせり上がってきた言葉を飲み下す。それを口にすれば己が堪え続けている何かがふっつりと切れてしまう気がした。
何かを言い逃れようとする日車の頭上で鋭く空を切る音がする。日車が身構える前に楠木が傘を投げ捨て日車を突き飛ばし飛び退った。二人が歩いていた場所を羽のある何かが目で追えないほどの速度で通り抜けていく。
「雨の日デート中悪いけど」
髪の毛が戦闘機の翼状に変形した女が頭上でホバリングしていた。日車は木槌を提げる。たとえそれが腕力ではるかに己に劣る女であろうと、目の前に現れた人間を殺すことに迷いはない。楠木の言葉を借りるのであれば、全て無意味であり、全て無意味であることを願っている。人を一人殺すたびに、己に大したことではないと言い聞かせている。数多の殺戮が無意味であれば、裁判官と検事の死も、己の信じた正しさも、人の営みも美しさも醜さも、全てが無意味だった。
日車は体の後ろに隠していた木槌を投擲する。回転しながら空を切る木槌が女の胸腹に当たる。女は溺れるように息を詰まらせ地上に落下する。すかさず女の頭に木槌を振り下ろそうとした日車は、空の軋る感覚に眉を顰め女から離れた。ばらばらと風を掻き乱す轟音とともに地を這うように飛行する何者かが女の体を攫う。
「ごめんねダーリン、ミスっちゃった」
「ええわええわ、ワシがなんとかしちゃる」
遥か上空で女に寄り添う男の髪はプロペラ状に変形していた。それが絶え間なく高速回転することで揚力を得ている。変幻自在の飛行能力に加え、接近を拒む回転翼は厄介だった。冷静に勘案する日車の背後で楠木が「……空を自由に飛びたいな」と呟いた。言うなよ、と日車は呻く。
「気が抜けるだろ」
見た目が洗練されておらずとも、あれはあれで驚異的な術式だ。すみません、と楠木は肩を竦める。
「随分余裕があるな、女のほうはおまえがなんとかしろ」
「な、なんとか……?」
高速で低空飛行する女が楠木の体を攫い空高く上昇していく。楠木の悲鳴が尾を引きながら遠ざかっていった。日車はそれを視線で追う。やがて上空から楠木が落下してきた。どす、と耳を覆いたくなるような音とともに楠木の体は濡れたアスファルトに叩きつけられる。
楠木はアスファルトからもそもそと半身を起こし、恨めしげに日車を見上げた。
「八階より高かったですか」
「十二階ってところだな」
楠木は一つ溜息をついて立ち上がる。上空から降りてきた女は男の傍らにホバリングし、楠木が無傷であるのを見て表情を歪める。
「嘘でしょ、何で出来てんの?」
楠木は「そんなの私が知りたい」という泣き言とともに血まじりの唾を地面に吐き出した。濡れて張り付く前髪を掻き上げる。
楠木を墜落死に追いやるのではなく高速で轢き殺すことにしたらしい女は空高く飛び上がっていく。雨空で小さな点になる女を楠木は目を細めて見上げた。
「届かないですよ」
「なんとかしろ」
日車の言葉に楠木は「まあ女をボコるのは本業ですし」と自棄気味の軽口を叩く。突っ込んでくる女に身構える楠木の呪力は、いつもより循環がスムーズだった。慣れか、或いは女性相手のほうが気負わないのか。
細かい雨粒を切り裂きながら突進してくる女の首元に楠木は腕を絡めた。楠木は腕で女の頚部を締め上げる。女は楠木を振り払おうときりもみ回転しながら上空へ避難していった。女の細い首で楠木の絞め技に耐えるということは、女の体は飛行能力だけではなく高速飛行に耐え得る強度も獲得しているらしい。
「はなせっ! このっ! 馬鹿力!」
女の潰れた金切り声が降り注ぐ。上空で男がげらげらと笑った。
「キャットファイトとは見物じゃのう! しばらく観戦するか?」
日車は男に木槌を投擲するが回転翼に弾き飛ばされる。ぱ、と日車の手元に戻る木槌を見て、男は「ハンマーを操るんか」と独りごちる。日車にはそれを訂正しない。現時点に限るならそう言えなくもない。
日車はこの男に領域を使う気が無かった。上空に高速で振り回される楠木がいる限り、領域に楠木を巻き込むおそれがある。すでに執行猶予を受けている楠木を再び領域に巻き込めば、良い結果にはならないことは明らかであった。
「ありゃオマエの女か」
男は口髭を震わせ笑う。日車は男を見上げた。
「前々から聞きたかったんだが、どうして君みたいな奴らは異性の話が好きなんだ」
マックの女子高生といい勝負だぞ、と日車が半ば本気で呆れながら言うと、男は容易に激高した。回転翼をこちらに向けて突進してくる男の頭部を見据える。回転翼のリーチは両腕を伸ばした楠木より一回り広い程度だ。日車には慣れた間合いだった。
日車は長柄の木槌を回転翼に突き入れる。障害物に当たった翼は回転を乱され、男の体も均衡を失う。男はもんどり打って地面に激突した。
「クソ! 何すんじゃ!」
男はかなり強く地面に頭を打ったように見えたが、血を流す気配すらない。一方で女に投擲した木槌は腹に当たり、それなりのダメージを与えていたように見える。首への絞め技は意識を奪うことは出来ずとも苦痛は与えられていた。思うに、頭部を基点に肉体が強化されている。狙うならば下肢であろうか。
日車は右手で木槌を宙に投げ上げ受け止めるのを繰り返しながら、男に視線を向ける。
「俺の武器は鈍器だからな」
突然そう言う日車に、男は怪訝な顔をした。
「あ? 見りゃ分かるわ」
「効率的に君らの石頭を割るには、四肢を順に潰して弱らせるしかない。気は乗らないが悪く思うなよ」
日車の言葉に男は表情を曇らせた。その言葉で情景を思い浮かべられる程度には場数を踏んでいるらしい。男は回転翼を唸らせながら離陸し、日車は男の足首に槌の頭を引っかける。男は背中を地面に強く打ち付け息を詰まらせた。
「馬鹿にしよってェ!」
伸ばした木槌の頭が男の腹を打つ。身を折り頽れる男の脚に呪力を込めた木槌を力一杯振り下ろすが、男は身を縮めそれを回避した。日車の木槌がアスファルトを抉りめくり上げるのを見て、男は顔色を失う。
すかさず木槌を構え直す日車の背後で「日車さぁん」と息を切らした楠木の声がした。
「なんとかしましたけど……どうしましょう」
楠木は気を失った女のタイトなシャツを掴み、ずるずると引きずって歩いてきた。ぐったりと項垂れる女の長い髪がアスファルトを掃く。その姿を見るなり男は怒声を上げた。
「ワシの女に何さらすんじゃ!」
男は叫ぶなり飛び出し、楠木から女を奪う。日車が「楠木、逃がすなよ」と言えば、楠木は「えっ!?」と戸惑いの声を上げながら女の足首を掴んだ。男は女二人をぶらさげたまま不安定な姿勢で上空に逃げていく。女の下肢にぶらさがる楠木に男が「離さんかい!」と喚いた。
ふらふらと飛び上がった男は楠木を落とそうと旋回して雑居ビルの壁に突っ込んでいく。雑居ビルの壁に叩きつけられそうになった楠木は、女の足首を握ったまま壁を這う排水パイプに片腕でしがみついた。そのままひきずりあげられ、パイプがばらばらと外れひしゃげ落下する。楠木はビルの屋上の手摺を握った。上昇する男の体ががくんと傾く。
ビルの手摺、楠木、女、男がひとつながりになって屋上に繋ぎ留められ浮いている様は趣味の悪いアドバルーンのようであった。男が何か口汚く喚き、女はいまだ気を失っている。楠木はおそらく半泣きでビルの手摺にしがみついているだろう。
日車は鼻を鳴らし、悠然とした足取りでビルの出入口を探した。レトロな重いガラス戸を押し開け建物の中に入れば、外で喚く声はほとんど聞こえなくなる。日車は薄暗い廊下にエレベーターからオレンジ色の光が漏れていることに気が付き、エレベーターの上階行きのボタンを押した。すぐに開いたドアの中に踏み入り最上階と閉ボタンを立て続けに押し込むと、エレベーターの箱は軋みながら上昇した。
辿り着いた最上階は暗い。日車は上方から淡い光が降り注ぐ階段を一段ずつ上がり、屋上へと続くドアを蹴り開けた。細かい雨の降り注ぐ屋上の手摺の向こうではまだ楠木が二人を捕まえていた。ドアを蹴り開け現れた日車を見て、男が表情を引き攣らせる。意識を取り戻した女が曖昧なまま掠れた叫び声を上げた。
「ダーリンだけでも逃げて!」
「アホゥ! おどれの女一人守れんで何が男じゃ!」
日車が木槌を提げ大股で二人の方に向かうのと同時に、男の翼の回転数が増した。焼き切れそうな音と焦げ臭さがあたりに立ち込める。女の靴が脱げ、楠木の手から足首が抜ける。バランスを崩した楠木は濡れた手摺から手を滑らせる。日車は必死に逃げようとする二人と、ビルの屋上から落下しそうになる楠木を見て、楠木の方に手を伸ばした。楠木は差し出された日車の手を掴み身を起こす。手を掴まれる力が思いのほか強く、日車は顔をしかめた。
「俺の手を折る気か」
「す……すみ、すみません……」
楠木は手摺に寄り掛かり荒い呼吸をする。紅潮した頬に雨が降り注いだ。楠木は手摺を乗り越え、日車の足元に座り込む。日車は大きく上下する肩を見下ろしていた。楠木は苦し気に眉根を寄せ目を閉じたまま雨空を仰いだ。呼吸が落ち着き、目蓋が薄く開き、日車は楠木と目が合う。どちらからともなく堪えきれないように低く笑った。
楠木は息を詰まらせ肩を震わせながら、濡れた顔を手で拭う。
「日車さん、屋上への現れ方が怖すぎて一瞬私もあの二人と一緒に逃げたくなりました」
「おまえだって女を引きずって現れるのはヤバい悪役みたいだった」
「いや他に持ち方ないし……なんかいい感じにあの二人のラブロマンス劇場の装置にされた気がしてムカつきません?」
「最後のあの台詞は結構格好良かったな」
「何が男じゃ! ってやつ? 一生に一回くらい言われてみたいですね」
ないでしょうけど、と楠木が言うので、日車は「あるかもしれないだろ」と適当な返事をした。ないない、あっても困る、と楠木は笑いながらふらふらと立ち上がった。
「あの二人今頃私たちを悪者にして盛り上がってるんですよ」
「生きててよかったとか言ってるかもな」
「助けてくれてありがとう、アナタ格好よかったワとか言ってね。うわ、はらたつぅ」
楠木は疲労の滲む顔で苦笑し、日車も唇の端を笑みで歪める。強くなってきた雨足を避けるようにビルの中に戻り、最上階に留まったままのエレベーターに乗り込んだ。楠木は一階のボタンを押しながらまだ笑っていた。
「あ、だめ、なんか笑っちゃう」
「なんなんだ」
「腕抜けるかと思いました」
「逃がすなで本当に逃がさないと思わなかった」
「ええ……」
楠木はコントロールパネルにぐったりと寄りかかる。六階、七階のボタンが楠木の肩で押し込まれ点灯した。
やがて一階で止まったエレベーターから降り、とぼとぼと劇場の方へ向かう。ちょっとした小競り合いなどなかったかのように物静かに鎮座する建造物は頼もしかった。劇場の前に投げ捨てられた雨傘を楠木は拾い上げる。内側が晴天のグレーの傘だった。もう一本は二人が巻き起こした風に攫われたのか見当たらない。
楠木は傘の内の明るい柄を見上げながら眉尻を下げる。
「因縁つけてきたチンピラは向こうなのに、まるでこっちが悪者みたい」
日車は楠木の背後を通り抜け、劇場の自動ドアがすうと開くのを眺めた。
「そんなもんだろ」
素行の悪い人間でも人を愛し信頼することもあるし、その逆もあり得る。日車は人間の重層性と複雑さを愛しもし、憎みもした。日車はふと、己が人間の在りようを客観的に愛でるばかりで、己も猥雑な人間の一人であるということを勘案しなかったのではないかとも思った。何もかもいやになったのは、いやになった己自身を許容できなかったからではなかったか。だが今となれば詮無いことであった。
楠木は傘を傘立てに挿し入れる。広いホールに視線をやり「誰もいないみたいですね」と安堵の声を漏らした。
「ここにはパイプオルガンがあるらしい」
日車の言葉に楠木は「へえ」と露骨に興味のなさそうな相槌を打つ。
「弾けるんですか?」
「弾けるわけがない。だが、こんなときでもないと触れないような代物だ」
いじるくらいしても罰は当たらない、と言えば、楠木は「はァ」と気の抜けた返事をした。
「いいですね」
「思ってないだろ」
「思ってますよ」
楠木は濡れた髪をうるさそうに払いのけながら広いホールを横切っていく。彼女はオルガンよりも今日の寝床のことを気にしているようであった。洒落たソファによろよろと近寄ると、崩れるように座り込んだ。日車はその仕草を見てやはり何かそういう動物みたいだと思った。