十一月十日
晴れ 二十二.八度 十五.四度
広く美しい劇場の内部は破壊や収奪の気配もなく深々としていた。コンビニやドラッグストアといった物資が豊富な店舗が無数にある東京の中心部で、好んで劇場に侵入する理由はなかった。
防音設備が行き届いた劇場の中にいれば屋外の喧噪など意識の外で、快適と言えば快適で、不用心と言えばその通りである。楠木は音が吸い込まれたように静かな館内で当てもなくうろうろしていた。日車はといえば宣言の通り体を休めた後はパイプオルガンの音の鳴らない鍵盤を押してみたり、裏手に回って何か探したりを半日ほど続けていた。
館内の散策にも飽きた楠木は日車の姿を探す。日車はオルガンの前に座ってどこかから引っ張り出してきたらしいオルガンの取り扱い説明書を読んでいた。楠木も日車の手元の冊子を見るが、綴られているのが外国語であったので読むのは早々に諦める。
日車はまたオルガンの裏手に回る。緞帳の向こうからばち、ばち、とスイッチを操作する音がした。
「楠木、鍵盤押してみてくれ」
言われるがままに象牙色の鍵盤を押すと、指先に押し返すような感触がある。大きな音がホールに響いた。楠木はそれを聞いて「パイプオルガンってこんな音がするんだ」と思った。壁一面の豪奢な筐体に相応しい荘厳な音が全身を震わせる。
日車は冊子を片手に椅子の前に戻ってくると、長い指を鍵盤の上に置いた。先ほどとは少し違う音が響く。日車はやっと音を出したオルガンに喜ぶでもなく淡々とした視線を向けていた。
「よかったですね」
黙っているのもおかしい気がして楠木はそう言う。日車は「そうだな」と面白くもなさそうに返事をした。だがパイプオルガンの音を出そうと試行錯誤する日車の、利にもならない手仕事に黙々と取り組む姿を見て、楠木は本来この人はこういう人なのだろうなと思いもした。
日車はオルガンの前に座り、いくつかの鍵盤を指で押した。曲にもならない音が連ねられていく。日車はいくつかのスイッチに触れたりつまみを冊子と見比べたりしていた。楠木は観客席に降り、最前列に座る。
「ここで聞いてますよ」
「俺に音楽の素養は無い」
言葉の通り、日車はとんとんと気まぐれに鍵盤を押すだけであった。小さな動作で大きな音が響く。楠木はそれを椅子の肘掛けに寄りかかりながら眺めていた。
しばらくオルガンのあちこちをいじっていた日車は、突然大きな手のひらを鍵盤に置いた。いくつもの音が雑多に鳴らされ、うとうとしかけていた楠木は跳ね起きる。
「暇だな」
日車が椅子から立ち客席の楠木を見下ろす。はあ、と楠木は胡乱な返事をした。
「忙しいよりはいいですよ」
泳者が忙しいということは、命のやりとりが付き纏う。
日車は壇上から降りると楠木が座る席から二つ空けて座った。
「付近に屋内プール施設がある」
突然そう言われ、楠木は面食らう。それがどうかしたんですか、と楠木が尋ねる前に日車は先を続けた。
「小学生の頃、仲の良かった同級生と夜のプールに忍び込む約束をしたんだ。俺は親の目を盗んで夜に――といっても多分八時くらいだが、学校の裏門で友達を待っていた」
「へえ、どうでした」
「結局忍び込めなかった。家を出ようとした友達は早々に親に見つかっていて裏門に来なかった」
子供らしい稚拙な計画の顛末に、楠木は小さく笑う。次いで日車の先の発言を思い出し、真顔になった。
「え、行くんですか」
「暇だしな」
おまえはどうする、と言われた楠木はあまり深く考えないまま「私も行こうかなあ」と呟いた。それを聞いた日車は意外そうに眉を上げる。
「あ、いや、ご迷惑なら……だいじょうぶです」
遠慮がちに首を竦める楠木に日車は呆れた顔で「そういうわけではないが、おまえよくこんなくだらない思いつきに付き合おうと思ったな」と言う。発案者が何を言うのか、と思いもしたが、楠木は口の端に苦笑を浮かべるにとどめた。
「や、日車さん、頭いいんだなって思って」
「どういう種類の嫌味だそれは」
「え、違いますよ、ほんとに思ってるんですよ」
楠木は胸の前で両手を振った。
「この状況で、自分なりに面白みを探して実践してるの、頭いいなって」
殺し犯し奪うことに耽溺するか、緊張に苛まれ自壊するか、どちらに陥るでもなく淡々と今しか出来ないことをしているのは、やはり知性なのだと楠木は思う。楠木はそういう日車の振る舞いを尊敬もしたし、理解できないとも思った。
「日車さんを見てると、私も勉強しておけばよかったって思います」
「なぜ」
「頭いい人が周囲にいたら多分面白いから」
日車は怪訝な顔をし、楠木は自嘲めいて肩を震わせる。
「私のまわりの人間の話題って、パチかフーゾクかソシャゲばっかりでしたもん」
「なんでも突き詰めれば興味深い趣味だろう」
「そうかも。でも、私のまわりの人は、口を開けて楽しみを与えられるのを待つだけだったから」
楠木は弾みを付けて席を立つ。日車は眉根を寄せて楠木を見上げた。
「買いかぶりすぎだ」
「そうですかね、シックハウス症候群かも」
楠木の言葉に日車はふと高い天井を仰ぎ何事か考えた後、楠木の方にゆっくりと視線を向けた。
「ストックホルム症候群のことか」
「多分そう」
楠木は小銭しか残っていない財布の中身を覗きながら「入場料っていくらなんでしょう」と言う。日車が「いくらだったところで」と言うので、それもそうかと思った。
外光の入り込まない劇場内にいたせいで時間の感覚が希薄になっていたが、外はすでに夜の帳が下りていた。日に日に日が短くなるのを実感する。どこかで何かが墜落する音がした。音は一度きりで遠かったので、気にするほどでもなかった。
日車に先導されるまま辿り着いた建物は市民プール施設だった。建物の一部がごっそりと削り取られていることを除けば、何の変哲も無い。日車は天井と壁の一部を失った建造物を見上げて日車は「入場しやすくなっているな」と片眉を上げた。
素っ気ない競泳用プールのレーンを仕切るブイが、夜風を受けてゆらゆらと浮いている。楠木は破壊された建造物の瓦礫がどこにも見当たらないことに気がつき、うそ寒くなった。
無人のプールに足を踏み入れると、湿気ったぬるい空気が塩素のにおいをはらんで鼻腔を満たす。温水プール設備は利用者がいなくなっても健気に水温を適温にしているようだった。
かつてよりずっと暗くなった空には小さい星が瞬いている。黒くとぷとぷと波打つ水面に周囲の光が差し込んで反射した。叙情を誘う光景と言えなくもない。
日車が思い出したように楠木に顔を向ける。
「楠木、泳げるか」
「人並みに――え、いやですよ、泳ぎませんよ」
水着もないうえに、水を浴びたい季節でもない。加えて、傷みきった髪を塩素の多い水に浸けたくなかった。楠木はプールサイドに屈み、指先を水面に浸ける。温水がゆるゆると皮膚を撫でた。
日車は暗い空に視線を向けていた。楠木は立ち上がり、上着の裾で指先を拭いた。
「小学生の頃の日車さんは成仏しましたか」
「そうだな」
日車はしばらく仄暗い水面を眺めていて、楠木は日車の横顔を眺めていた。冷たげな鋭い鼻先は近寄りがたく、骨張った頬の線は厳格そうであった。人好きのしない三白眼に、今は何とも言い難い青白い感情が浮かぶ。楠木はそれを見ると会話が弾むと言い難い日車に声をかけずにいられなくなる。日車の横顔に滲むものの正体を楠木は掴みかねた。やっぱりたくさん勉強しておけばよかった、と楠木は思う。
楠木、と短く名を呼ばれ、楠木は眉を上げる。その表情を盗み見ていたことが露見するのは、特段の下心があるわけではないとはいえ気恥ずかしい。
「スマホを貸してくれ」
おかしな要求ではある。借りてどうするのだという話であるし、日車自身も携帯端末は持っているはずであった。スマホがあったところでどこに連絡が出来るわけでもない。だが楠木は窃視の負い目もあり、おたおたと日車にスマホを差し出した。日車は楠木の端末を手にする。気泡の入った保護シートを日車に見られることに、楠木は気おくれした。
日車が楠木の肩を押す。ぼんやりしていた楠木はプールサイドに「へえ?」と間抜けな声を一つ残して暗い水に落下した。ざぶん、と水面を割る音とともに、耳のあたりに細かい泡が纏わりつく。月の光と街の残渣の光が水面に向かう泡に反射して淡く揺らめいた。楠木は泡の行方を追い、やっと水面から顔を出す。水の入った鼻の粘膜がつんと痛んだ。
プールサイドの日車に向かい抗議の一つでもぶつけてやろうと顔を上げる楠木の視界に、一瞬革靴の底が見えた、あ、と思う間もなく楠木の傍らで水柱が上がる。楠木は突然頭から水を被り、ごぼごぼと噎せた。
黒い水面から日車の青白い顔が現れる。大きな手が濡れ貼り付いた髪を掻き上げ、濡れた顔を拭う。
「さむい」
水面から顔を出した日車がそうだけ言うので、楠木は呆れかえって「そりゃそう」と呻いた。濡れた髪からぽたぽたと雫が垂れる。
「何考えてるんですか……」
「プールに来たら泳ぐだろ」
「はァ? いや、まあ、だからって……」
常に上げている前髪が額に落ちた日車は、楠木の持っていた印象よりも幼く見える。楠木は怒る気力も失せてざぶざぶとプールサイドに近寄った。縁に手をかけ、体を引き上げる。水中を揺蕩う衣服が水からあげられた途端重く体に纏わりついた。這うように水から上がり、楠木は水中を漂う日車に手を伸ばす。
「風邪ひきますよ」
差し伸べられた手を日車は握る。楠木は日車をプールサイドに引き上げた。日車の黒い上着からざあざあと水が流れ落ち、プールサイドに水溜りを作る。日車は濡れた上着の表面に指を滑らせ「ばかなことしたな」と鼻で笑った。
「――日車さん」
なんだ、とこちらに視線を向けかけた日車の胴に楠木は両腕を回す。
「は?」
「失礼します!」
楠木は背を反らせ日車の体をプールに投げ込んだ。水音の向こうで日車が「嘘だろ」と呟いていたような気がした。波立つ水面の傍らに、楠木は背面から飛び込み宙で一回転して着水する。水面に顔を出したのはほとんど二人同時であった。
日車は楠木に向かい物言いたげに口を開けたが、結局何も言わなかった。呆れたように項垂れるだけだった。楠木はブイによりかかり、噎せながら笑う。
「二十年前の自分に、おまえしょーもない人生送ってたら突然人を殺すように言われるし怖い弁護士に虐められるしでもなんだかんだちょっと楽しくやってるって言ったらどんな顔するかな」
波打つ水が口に入り、楠木は何度か咳をする。日車はむっつりと「人生を儚むぞ」と言った。楠木は水面を手のひらで打って笑い声をあげる。
「二十年前の俺に、おまえ夜のプールにギャルと飛び込むことになると教えたらえらいことになる」
「アラサー捕まえてギャルもないですよ」
「飛び込んだというか投げ込まれたしな」
楠木はしゃくりあげるように笑いながら腕を投げ出し浮力に身を任せる。靴を履いたままの爪先がプールの底をゆらゆらと滑った。夜空を見上げて溜息をつく。
「……大人になったらもっとマシな人間になれると思ってました」
日車は目を伏せしばらく黙り込んだが、低く「そうだな」と言った。
「まさか忍び込んだプールではしゃぐ大人になるとは予想していなかった」
楠木は身を起こし、鼻から上だけを水面に出し日車を眺める。楠木から見れば日車は十分に成功した、十分にまっとうな大人に見えた。楠木がそう言うと日車は恬淡と「まっとうな大人は人を殺さない」と言った。それもそうであった。
「日車さんは判決に逆ギレしたって言ってましたけど、でも私は、人のために怒れるのは大人だなと思いますよ」
日車はプールの壁面に寄りかかり空を仰ぐ。暗い空に淡い紫色の光がぱ、ぱ、と瞬いた。美しかったが、あそこで誰かが死んだのだろうか。日車は骨の目立つ手で顔を覆い、水滴を垂らす前髪を掻き上げた。
「そんな高尚なものか」
日車の手が水面に落ちる。ばしゃん、と高い水音がした。楠木の頬に水がかかり、夜風であっという間に冷えていく。
「俺は拗ねて自暴自棄になっただけだ」
そうですか、と楠木は目を伏せる。
「俺には己を許せる度量がなかった、世間は度量のない人間に甘くない。それだけだ。なるべくしてなった。俺が死ぬか、俺以外が死に絶えるかだ」
日車は吐き捨てるように言った。語尾にひりつく感情が滲む。楠木はブイにつかまりふらふらと浮いていた。日車の常から血色の良いとはいえない顔は青褪めている。楠木の体も芯から冷えてきていた。
楠木はえへへと馬鹿みたいな笑声を漏らす。十の頃から曖昧な追従の笑みだけで世の中を渡ってきた。楠木にはそれしかないからで、そういう己を厭いもした。日車の言葉に笑って見せたいのではなかった。もっと何かかけるべき言葉があるような気がした。
「日車さんは色々な人を救ったのに、日車さんは誰にも救われないんだ」
なんとなく楠木はそう呟いた。日車はそれを耳にし口の端を歪めて「哀れか?」と言った。楠木は水面に漂いながら日車の顔を見上げる。
「どうですかね、じんせぇって感じです」
日車はふと眉間のあたりの力を抜いて表情を緩めた。肉の薄い頬に笑みめいたものが滲む。
「急に達観するなよ」
「私は日車さんほど頭良くないから、大抵のことはどうしようもねえーって思いながら生きてますし」
楠木はいよいよ寒さに耐えられず、ざぶざぶとプールサイドを目指した。二度目は一度目よりコツを掴んで水から上がることが出来る。楠木はずぶ濡れの日車をプールから引き上げた。
日車は色を失った唇を緩く閉ざしている。楠木は濡れた上着の裾を絞り、日車が避難はさせていたスマホを飛び込み台から拾い上げた。
「さむいさむいさむい、これ水の中の方が温かかったですよ」
「そうだな」
「日車さん着替え持ってきてるんですか」
「いや」
「ええー、無計画すぎる」
初冬の気配さえ帯びる夜風を浴び楠木はぶるりと震え上がる。水を吸って重くなった衣服を引きずりながら無人の更衣室に侵入する。室内は快適ではなかったが、無理矢理半屋外にされたプールよりは体温を保てる。
楠木はロッカーを次々開け、衣服を探した。使えそうなものが見つからないので、震えながらスタッフルームをこじ開けスポーツウェアの上下を見つける。冷えた体には通気性が良好すぎたが、濡れた服よりはマシだった。水泳教室のロゴが入った蛍光ブルーのブルゾンを失敬して上に羽織る。
タオルで髪の毛の水分を取りながら待合室の方に進むと、アイスクリームの自動販売機の前で日車が立ち尽くしていた。濡れた前髪を下ろし、グレーのスウェットの上下を着ている。楠木はこれまで暗色のスーツを着た日車しか見たことがなかった。楠木は使っていないタオルを日車に投げ渡す。
「スーツ着てないと若く見えますね」
「だから着ている」
日車はタオルを受け取り、頭を乱暴に拭いた。楠木は自動販売機のパネルを見ながら「何か買うんですか」と尋ねる。カラフルな棒アイスは幼い頃の憧れだった。
「買うわけないだろ、子供じゃあるまいし」
あと寒い、と日車は溜息をつく。楠木は眉尻を下げて笑った。
「次は着替えとタオルを用意して銭湯でやりましょう」
「もう十分だ」
日車はアイスクリームの自動販売機の隣の自動販売機に小銭を入れた。日車に購入されたおしるこの缶を楠木は横目に見る。
「……おしるこ?」
「そういえば飲んだことがなかった」
ぱき、とスチール缶が開けられる。躊躇いなく一口飲んだ日車に、楠木は温かいカフェオレを買いながら「どうです」と尋ねた。日車は表情を変えないまま「甘すぎた」と言った。