十一月十一日(終)
晴れ 二十.一度 十三.五度
広く静かなホールの観客席で、楠木はコーヒーの紙コップを片手に「もしここを出られたら何がしたいですか」と言った。音響設備の行き届いたホールで、何気なく零された言葉は、演劇の一部のように静謐に響く。暇そうに投げ出される汚れたスニーカーの爪先が、ゆらゆらと揺れている。無意味な問いであった。少なくとも日車にとっては。
楽屋にあったんですよ、と嬉々としてインスタントコーヒーを淹れる楠木はこの環境に馴染んで見えた。その楠木の口から「ここを出られたら」という言葉が出たことに、日車は寂寥を覚えもした。
日車の手の内でコーヒーが温度を失っていく。日車は舞台の強い照明に照らし出され飴色に輝くコーヒーの水面を見下ろした。
「楠木は」
逃げるように問うと、楠木は気分を害した風でもなく高い天井を仰ぐ。
「……家で風呂入りたい」
遠出した子供のようなことを言う。日車は口の端で笑って狭い観客席に深く腰掛けた。
「家は無事なのか」
意地悪くそう問えば、楠木は「ああ」と呻いて肘掛けに寄りかかった。
「どうかなあ、駄目かも。じゃあ家探しと職探しですね」
「急に世知辛いな」
「今死んだら住所不定無職って報道されるのかな」
「他の泳者のポイントになるだけだ」
楠木の視線がついと日車を向く。日車さんはと言われ、日車はぼんやりと何もない宙を眺めた。
「出たところで殺人犯だからな」
日車の努めて淡々と吐き出した言葉に、楠木は眉根を寄せる。
「外もぐちゃぐちゃでしょうし、有耶無耶にならないですか」
「ならないだろ」
なっていたら、それこそ司法に失望する。なんでそんなこと言うんです、と楠木は唇を尖らせた。
「日車さんなら、術式で色々な弁護が出来そう」
「知りたくもないことを知るほうが多いだろうな」
総則があり、全自動で執行される罰則がある結界内では己の苦悩はないだろうか。罪があり罰がある。過失があり過料がある。因果があり応報がある。誰もが焦がれる単純な世界だ。日車はふとそんなことを考えた。蠱惑的な考えの気もしたし、馬鹿々々しいような気もした。ジャッジマンはただ事実のみにより罪を裁く。そこに至る経緯も事情も情状も酌量しない。それは道を逸れざるを得なかった立場の弱い人間を殊更に追い詰めることにならないか。ぐずぐずとそういうことを考えることに疲れ、日車は「知るかよみんな死んじまえよ」と投げやりに思考を堰き止める。
楠木は眦にいたずらっぽい笑みを浮かべ、横目に日車を見る。
「でもまあこんななってまで真面目に仕事しなくてもいいか。ムカつく奴を片っ端からぶん殴るでおっけーです」
そのくらい無意味でくだらない未来の方が、語る価値があった。
「二人でぶん殴って回るか」
「え、私も?」
「俺たちに明日はない」
突然巻き込まれた楠木は目を丸くする。おろおろと「ええ……私ぶん殴りたいほど恨んでる人間なんかいませんよ」と狼狽えるので、日車はそれを鼻で笑った。
「冗談だ」
そもそも結界から脱出できる可能性は極めて低い。浸透膜のような結界は入りはひらけていたが、出ることは難しい。総則も永続を目的として設定されていることが読み取れる。目的の果てに何があるかは知らされていない。
楠木は日車の軽口に反駁しかけたのか口を開いたが、眉根を寄せて視線を周囲に巡らせる。
「――子供の泣き声?」
楠木の表情が強張る。日車は唇の前に人差し指を翳し、楠木に視線を向ける。楠木が喉を詰まらせ黙り込んだ。確かにどこからか子供が泣き喚く声が聞こえた。遠くかすかではあるが、この施設の防音性を考えれば声の主は建物の内部にいる。日車はカップを肘掛けに置くと立ち上がり、開けていた上着のボタンを留めた。
ホールの最後部のドアは開け放たれていて、そこから聞こえる声は徐々に近付いてくる。幼い子供の悲痛な泣き声であったが、それを頭から信じ無防備になれるほど結界内は温くなかった。
外光の差し込むドアに人影が駆け寄ってくる。声の印象通りに小さな影であった。ホールに子供の泣き声が響き、満ちていく。観客席の階段を泣きながら駆け下りてくるのは幼い少女であった。五、六歳ほどの子供が、ぼさぼさの髪を振り乱し、汚れた手で顔を拭い、足を不格好に引きずりながら泣いていた。夜闇から聞こえる得体の知れない鳴き声のような、演技とは思えぬ魂切る罅割れた泣き声だった。
少女は足を引きずりがくがくと痛々しく体を上下させながら急な階段を転げるように降りる。楠木が困惑の視線を日車に向けた。少女を見据えながらすでに木槌を提げる日車に楠木は竦む。だが日車の的確な備えを咎め立てするほど楠木は愚かではない。
敵かそうでないかはジャッジマンに判断させればいい。日車は迷いなく木槌を振るい、領域を構築しようとする。呪力の境界が少女の体を現世から隔離しようとした瞬間に、少女の頭部が破裂した。熟した鳳仙花の果皮が弾けるように、少女の頭蓋の内側が勢いよく露出する。弾き出された黒い破片が、日車の木槌を持つ手の甲を抉る。
「日車さん!」
楠木は悲鳴を上げ、椅子を乗り越え日車に駆け寄る。血を流す手の甲を見て、楠木は眉をひそめた。
「うわ、血」
見慣れてるだろ、と日車はそれを一蹴する。階段に頽れる少女の亡骸はぴくりとも動かない。日車の手の甲から流れる血よりはるかに大量の血液が、階段を一段ずつ伝い落ち忍び寄ってくる。
「やはり子供では種も未熟だなあ」
場にそぐわぬのんびりとした声が反響する。壇上に女が立っていた。いや男であろうか。すらりと背の高い中性的な面差しに、得体の知れない笑みを浮かべている。日車は女のただならぬ気配に即座に領域を展開しようとしたが、手の甲の灼けるような痛みと呪力の漣に妨げられる。呻き声を上げ身を折る日車に、楠木がぎょっとして立ち尽くした。
日車の手の甲に、華奢な茎が這っている。ところどころから伸びた白い根がぷつぷつと日車の皮膚を侵している。
女はほろほろと笑声を上げた。
「呪力を練るのはやめたほうがいい。私の種は呪力を糧に生長し術師の心身を侵す。おまえはいい培土になりそうだな。そしてこれを開示することでより早く花が咲く。――おまえらは知らないのだろうから教えてやろう、これを術式の開示と言うんだよ」
素早く伸びあがる蔦が座席を薙ぎ倒しながら日車に迫る。神経に響く痛みのために日車は木槌でそれを振り払うので精一杯であった。木槌を振るうたびに、植物体がみしみしと範囲を広げ日車の手首に絡みつく。楠木が蔦を引き裂こうとするが、見た目に反して強靭な蔦は先端が千切れるだけである。女に掴みかかろうとする楠木は幾重もの蔦に阻まれ立ち往生した。蔦の間から人間の歯が生え揃った双葉が現れ楠木に牙を剥く。楠木は咄嗟に腕で首元を庇った。左腕に鈍い歯が食い込み、血が滲んだ。
楠木は助けを請うような視線を日車に向ける。日車は激痛で朦朧としながら「ああ、これは敵わない」と思った。逃げるか、逃がしてくれるか、巡る思考は痛みに邪魔される。
青々と茂る葉に視線を落とす日車に棘を備えた茨が忍び寄る。それを他人事のように見つめるだけの日車を楠木が椅子を乗り越え担ぎ上げると脱兎の如く逃げを打った。されるがままの日車の視界に、床の木目と楠木の靴の踵と、それに静かに這い寄る無数の植物が映る。
「悪手だな、俺を置いて逃げろよ」
日車は誰ともなく呟くが、返事はなかった。触れた体からどくどくと重い鼓動だけが沁みてくる。楠木は蔦を振り払い、踏みにじり、ホールを飛び出すと飛び下りるように階段を降りていく。思い切り揺さぶられるが、右手の激痛に比べれば十分に無視できた。ふと見れば艶のある葉の間から覗く皮膚が、白いゴムのように生気を失っている。
何階かも分からなくなった暗いフロアに楠木は日車を引きずり込み、うすぼんやりと光る消火栓表示灯の下に日車の体を下ろした。楠木は日車の手を取り、赤い光で黒く照らされた葉を毟る。毟られた葉は煤のように霧散し、日車の手からは倍の葉が芽吹く。やめておけ、と日車は歯列の間から呻き声を漏らす。楠木は感覚を失った日車の手を握りながら項垂れた。
「俺たちは敵同士だろう」
日車の掠れた声に楠木は表情を引き攣らせる。笑おうとしたのだろうか。どうしようもないときに言い逃れのように浮かぶ楠木の曖昧な笑みが日車は嫌いだった。日車の指先にはすでにいくつか花蕾が膨らんでいた。黒いスーツの肩口まで、瑞々しい茎の先端が伸びている。日車は己の心臓の上に花が咲く光景を思い浮かべ、悪くない死に方かもしれないと思った。
楠木は日車の左腕を肩に回し、日車を立たせる。靴底が床を打つ振動で全身がびりびりと痛んだ。
「歩けますか」
「無理だな」
「歩いてください」
楠木は日車の体を無理矢理引きずる。日車の視界は妙に白っぽく霞んでいた。階段に辿り着く頃には、ひとつふたつの花が深紅の花びらを綻ばせている。縮緬のように波打つ繊細で美しい花びらだった。毒々しい黒い花芯が目玉のように日車を見上げる。
「死ぬ前に聞いておきたいことがあるんだが」
返答がないので日車は勝手に先を続けた。
「領域内の、おまえが対戦相手を半殺しにしたやつ、どうしてあんなことになったんだ」
楠木と共有した時間はそう長くはない。しかし楠木が好んで苛烈な暴力沙汰を起こすようにも思えなかった。楠木は息を上げ、奥歯を噛みながら前だけを見ている。意識を手放しかけた日車の耳朶を楠木の震え声が打った。
「先輩が……先輩が怖くて、」
対戦相手は楠木より長く団体に席を置いていた。華と人気のある選手で、売り出し中の楠木にとっては名を売る好カードだった。
「打ち合わせ通りに、うまいこと出来なくて、先輩に怒られると思って、怖くて」
激痛を覆うように蕩ける陶酔感が指先から滲む。花びらを落とした緑の果実から乳白色の樹液が滴った。
「――怒られるくらいなら、殺しちゃえばいいって、」
切れ切れと吐き出される言葉に、日車は朦朧と笑った。
「試合中の事故というのは嘘か」
「嘘じゃないですけど……や、いや、嘘かも」
言わないほうがよかったですか、と楠木の弱々しい声が降ってくる。
「裁判には虚偽がつきものだ」
もしそれが明らかになっていれば、楠木には否応なしに実刑が下っていただろう。してやられたな、と日車は愉快に思う。日車は巡らぬ頭を楠木の首元に預けた。掴み取った生活の糧も上手く運べず、追い詰められ苦し紛れの犯罪行為も遂行できず、結界内で人も殺せず、この女は何ならば器用にできるのだろうか。
「どうしようもないやつだなあ」
日車の喘鳴と笑声まじりの呟きに、楠木は肩を震わせる。だが日車は、そういう人間のどうしようもなさを、かつて愛しく思いもしたのだ。
楠木は日車の体を揺すりあげ担ぎ直し、低く呻く。
「死なないでよ、死ぬな、あんた強いし頭いいんじゃん、私を救ってよ」
身勝手な独白のようなそれを曖昧に耳にして、日車の脳裏に浮かんだのは、誰もいない教室に所在なく立ち尽くす小さな少女だった。迷子のような不安げな双眸が日車を見上げる。覚えのない光景だった。そうだな、と呂律も回らずぼんやりと応じる日車に、楠木が「しっかりしてくださいよう」と泣き言を漏らした。
外光の降り注ぐ階段を降りる。壁と天井の継ぎ目から、階段の手摺から、ステップのあわいから、新緑がふつふつと芽吹き二人の足を絡めとる。楠木の左手から滴る赤黒い血が日車の左手をぬるぬると濡らした。
「逃げても無駄だ」
術師と距離をとってさえ花は生長速度を増し日車の半身を覆っていく。これが止まるのは、術師が術を解除するか、死ぬか、どちらかであろう。日車は花の齎す激痛と呪力への干渉で領域を構築することがままならない。手札は術式も不明のまま頑丈なだけの楠木のみで、手詰まりと言ってよかった。おまえだけでも逃げろ、と柄にもない台詞が日車の舌の根元にまで上る。
「どうすればいいか分かんないですよ、私日車さんみたいに頭よくないし、どうしたら、どうして、ああクソ……」
楠木は歯をかちかち鳴らしながら宛先不明の恨み言を吐く。階段を下りた先、無人のフロアに女が立っていて、蟻の巣穴を観察する子供のような目で二人を眺めていた。女の足元からざわざわと蔦が湧き立つ。歯を備えた双葉ががちんと空を噛む。楠木は階段の中ほどに日車をおろし、身軽になって階段を下りていく。日車は冷たく硬い階段の感触を鈍く背中に感じながら安堵した。
「せいぜい元気でやれよ」
諧謔めいてやっとそう吐き出す日車に、楠木は顔を半分ほど日車の方に向けて、やはり曖昧に苦笑した。
無数の蔦が集まり捩りあい鋭い先端を形成し音もなく、だが明確な殺意を纏い楠木に迫る。楠木は蔦を引き裂き引き千切り女の首に手をかけようとするが、次から次へと芽吹く植物の壁に手も足も出ない。女の底の見えない呪力量を思えば、消耗戦は明らかに不利であった。
日車はぼうと見上げる天井に太い茨が這うのを見た。鎌首をもたげる蛇のように、硬質な先端が日車を狙う。日車はつと目を閉じた。ひゅうと空を切る音がして、肉を貫く音がした。ぼたぼたと血の滴る音がする。己のものであろうか、痛みも感覚もない。薄く目を開ける日車の目に映るのは、楠木の後姿であった。立ち塞がるように女に相対し、庇うように日車に背を向けている。腹を貫く茨の先端が、背中から突き出し血を滴らせていた。
日車は声もなく悪夢のような目の前の光景を眺める。花の齎す幻覚であってほしかった。茨が楠木の腹からずるりと抜けた。血の付いた茨が地面でのたうち、磨かれた床に血肉をなすり付ける。赤黒い大穴の向こうで、女が笑っているのが見えた。楠木の血の気のない指先が、痙攣のように震えていた。楠木はぼたぼたと血と臓腑を零しながら、女を見据えていた。日車からは楠木がどういう表情で女を見ているのか分からなかった。
「なんとまあ、鬼若のようだな! あの小僧には手を焼かされたもの――」
女の笑声が途切れる。理由は日車にも分かった。楠木の呪力の質が明らかに変化したからだ。冬の朝の機械油のように重く鈍く白濁した呪力が、温められたように急激に循環を開始し、溢れかえるように湧いている。みしみしと音を立て、楠木の腹の大穴が骨と肉で埋められていく。今にも千切れそうであった胴体が瞬きの間に修復し皮が張られた。
女は冷静に舌打ちを一つして、楠木に蔦の群れを襲い掛からせる。滑らかに循環する膨大な呪力を纏う楠木は通常より遥かに速く力強くキレのある動きでそれらを一蹴した。
楠木は強く踏み込み、女に向かい手を伸ばす。当然のように分厚い植物の壁が立ち塞がったが、楠木はそれごと女を吹き飛ばした。あれほど強靭であった防護壁が、藁束よりも呆気なく粉砕される。女は壁に叩きつけられ、続けざまに膝蹴りを入れられた。壁が崩れ、瓦礫とともに女は壁の向こうに頽れる。
日車の意識が途切れる寸前に垣間見えた楠木の横顔は、抜け落ちたような冷たい無表情であった。
*
目を覚ました日車は自身が劇場の楽屋に敷かれた毛布に寝かされていることに気が付く。毛布から右手を抜き出し見下ろす。やや血色は悪いが、感覚は取り戻していた。根の張った小さな傷だけが皮膚の表面に残っていた。
鏡の前の小さな椅子に座る楠木が体を起こす日車を見て浅く会釈した。
「大丈夫ですか」
「そうでもないな、最悪の筋肉痛と二日酔いが一度に来たみたいだ」
日車の言葉を聞いて楠木は「うわあ」と眉尻を下げた。楠木は血と穴だらけの上着をすでに着替えていたが、左腕の傷から血が滲んでいた。日車が己の左腕を指し示しそれを伝えると、楠木は左の上腕を撫でながら「これは治らなかったんです」と苦笑する。
「腹は」
「そっちは治りました」
楠木は己の腹を衣服の上からばしばしと叩く。ついさっき腹の大穴の中まで目にした日車には痛々しい光景だった。楠木は「なんででしょうね」と首を傾げる。
日車は彼女の術式がカウンター技であることは推測していた。楠木の呪力の動きは敵に攻撃を受けると向上する。だがいくら攻撃を受けても呪力に全く変化がないこともあった。おそらくはなんらかの縛りであったが、それが日車には掴めないでいた。
「おまえに避けるか庇うかしろと言うべきではなかったな」
楠木の術式はノーガードで攻撃を受けた場合にだけ発動する。あれほど己の職業を向いていないと泣き言ばかり言っていた楠木の術式にしては皮肉なものだった。もっとも日車とて人のことは言えないが。
「あの術師は頭を狙うべきだった」
一撃で即死させていれば楠木の術式は発動しないだろう。日車が言うと、楠木は「怖いこと言わないでくださいよ……」と肩を落とした。
「あの術師は」
日車は淡々と尋ねる。楠木は言いあぐね、天井や鏡に忙しなく視線を移ろわせる。
「めっちゃお願いしたら許してくれたってことでは駄目でしょうか……」
「そういうことにしておいてやる」
努めて軽い調子で日車は言うが、楠木の顔色は優れない。楠木は壁にかけられた鏡に寄りかかる。ごつ、と軽い音がした。
「それほど気負うな正当防衛だろう」
日車が言うと楠木は目を細めて笑った。
「日車さんは、多分日車さんが思っているよりまっとうですよ」
楠木の言葉の意味を掴みかね、眉をひそめた。楠木は一瞬沈んだ色の双眸を日車に向け「自分を嫌いになりそうなくらい、日車さんはまっとう」と囁いた。
「俺が何人殺していると思っているんだ」
「それこそ気負うことないんじゃないですか、ほら、じょーじょーゆーじょー?」
日車は怠い頭をやっと回して楠木の言わんとするところに考え至る。
「情状酌量か」
「多分そう」
楠木は口の端に淡い笑みを浮かべ、手を伸ばして日車に水のボトルを渡す。日車はそれを右手で受け取った。
「二日酔いは水飲んで寝てるのが一番いいですよ」
「――そうだな」
水を口に含むと突然疲労感を思い出す。あらがいがたい眠気に襲われ、日車はボトルの蓋を閉めた。手元に置いたボトルの水面がかすかに震える。楠木はじいと日車を見ていた。
「少し眠る」
楠木は日車に向かって何か言ったが、日車にはそれを聞き取ることが出来なかった。日車は薄れゆく意識の中で、目を覚ましたときに楠木の姿がないような気がしていた。