Extra Dark Roast(without sugar or milk)



 アラスターの起床に合わせてアイロンを当てた複数社の新聞紙とコーヒーを用意する。トレーにそれらを載せ、小走りに寝室のドアの前に立つ。新聞紙のインクが手に移らないかを確認し、ドアをノックした。中から応答があり、ディメンシアはドアを細く開けて中を覗き込む。
「おはようございます、アラスター」
 アラスターはベッドに腰掛けたまま軽く片手を挙げ、眠たげに欠伸を噛み殺す。ディメンシアは慣れた手つきでサイドテーブルにカップを置き、コーヒーを注ぐ。アラスターがそれを一口飲んだところで新聞紙を手渡した。ラジオパーソナリティとして地獄の住人にホットな話題をお届けすることに血道を上げるアラスターは、ホットな話題の収集にも余念がない。場合によっては自身が凄惨な話題を作り出すことさえ辞さない。
 今どきは地獄にだってSNSがあって膨大なトピックがリアルタイムに更新されているのだとディメンシアはアラスターに進言したことがあるのだが、純粋な親切心での提案のために酷い目に遭わされたので、それ以来アラスターの前でSNSの話はしないことにしている。アラスターは更紙に印刷された文字しか信用しない。場合によってはそれすら信用しないが。
 アラスターはばさばさと複数紙に目を通すと、新聞紙をディメンシアに投げ返す。
「まったく、しばらく留守にしている間にここも随分退屈な場所になってしまったようです」
 ディメンシアはそれを肯定も否定もせず、たまたま表になっていた紙面の記事を爪先で指す。
「……動物園で双頭の蛇が産まれたようですよ」
「ほぉん、それで?」
「産まれてすぐ右の頭が左の頭を食べてしまって、今は普通の蛇だそうです」
「は、ケッサク!」
 もう少しまともなことが言えないのかと横目に睨まれ、ディメンシアは肩を竦める。その視線から逃れるように、ディメンシアは上着のポケットからスケジュール帳を取り出す。
「アラスター、今日は午前中に新しい上着の採寸の予約を入れています。それと、午後はゼスティアルに挨拶のアポイントメントをとってあります」
 アラスターは億劫そうに鼻を鳴らし、ポットの蓋を開ける。
「コーヒーを変えました?」
「いいえ……なぜ?」
「本当に? 変わっているはずです」
 アラスターは飲みかけのコーヒーを手にしたままベッドから立ち上がり、寝室を出て階下に降りていく。それを見送ったディメンシアは、「あ」と小さな声をあげ飛び上がる。転がり落ちるように階段を駆け下り、パントリーのドアに手をかけるアラスターとドアの間に体を滑り込ませた。
「あ、あの、淹れ方を変えたんです。そのせいかも……!」
「何をそんなに慌てているんです?」
 ディメンシアはドアに背を付け、眉尻を下げ、アラスターから目を逸らす。ええと、その、とぼそぼそ呟くディメンシアに、アラスターは心底面白そうに口角を上げた。黄色い牙が唾液で濡れ、獰猛に光っている。
「私が入ってはいけないと?」
「うう、いいえ、そういうことでは……」
「私の屋敷に私の入ってはいけない部屋があるなんてオカシな話です!」
 アラスターの声音の向こうからドッと群衆の笑い声が聞こえてくる。ディメンシアの額からもドッと冷や汗が噴き出した。
「ア、アラスターさんがわざわざ入るような場所では……散らかった物置部屋ですし……私がコーヒー豆を持ってきますから……」
「屋敷内の状況を把握するのも主の務めだ、そうだろう?」
 まったくアラスター"さん"だなんて、私に隠し事をしていると白状しているようなものだ、とアラスターは喉を鳴らして笑った。赤い双眸がディメンシアを睨みつける。
「どきなさァい? ――ディメンシア、今、すぐだ」
 鼻にかかった猫撫で声に、ディメンシアは焼き鏝を押し付けられたようにドアの前から後ずさった。ああ、とか、うう、とか呻きながら、ディメンシアはアラスターがパントリーのドアを開けるのを為す術なく見送るほかない。アラスターは軽い足取りでパントリーに入ると、コーヒーの棚に向かう。ディメンシアはしょぼしょぼした足取りでそれを追った。アラスターはコーヒー豆を保管する棚の、缶の間に隠すように置かれた小さなテレビをステッキで指し示す。アーァ、と落胆の声が聞こえる。テレビのスイッチはオンのままで、朝の報道番組が絞ったボリュームで流れていた。
「これは?」
「あー、それは……なんでしょう、私には……ずっとここにあったのかも、いえ、さっき庭に捨てられていたのを拾って、ゴミに出そうと……ああ、うう、スミマセン」
 ディメンシアの言い訳をうんざりしたように爪先を弄りながら聞いていたアラスターは、ディメンシアが体を縮こまらせ小さな声で許しを乞うに至り鼻先で笑い飛ばした。
「ディメンシア、私の好みを知らないとは思いませんでした」
「ええ、ですが……はい、ごめんなさい」
 アラスターはテレビの横にディメンシアを立たせ、俯くディメンシアの顎先にステッキを当て前を向かせる。ディメンシアは鼠を前にした猫のようなアラスターの目を直視できず、目を伏せた。
「すぐに処分します」
「こんな低俗な電波に曝されたせいで私のお気に入りのコーヒーの香りまで変わってしまったようですねェ!」
「……買い換えます」
「私は心配なんです、私の大切なディメンシアが、退屈で、下品で、ユーモアの欠片もないテレビ番組に、毒されやしないかとね」
「……アラスター、」
「ディメンシア、ディメンシア、ディメンシア」
 アラスターは猫撫で声でディメンシアの名を舌先で転がすと、ディメンシアの双角に触れた。ディメンシアはびくりと体を震わせ、全身を強張らせる。アラスターの鋭い爪の先が、ディメンシアの角の先端をかつかつと叩く。
「娯楽のセンスが合わないヤツとはともに暮らせないナァ!」
 声音は明るく、背後からゲラゲラと笑い声が重なる。ディメンシアは喉の奥でぐうと呻き、脂汗を流しながら立ち尽くした。
「勘弁してください、アラスター」
「それはアナタの心がけ次第」
「ごめんなさい、アラスター。これはすぐに処分します。コーヒーも買い換えて、心も入れ替えます……ラジオさいこー」
「最後の一言は余計でしたね」
「すみません」
 怯えて喉をヒュウヒュウ言わせるディメンシアに、アラスターはニタニタ笑った。死へのカウントダウンのように鳴らされていた角から手が離れ、そのまま優しく頭を撫でられる。アラスターはディメンシアの頭を撫でながら、額にキスをした。
「いい子だ」
 どうやら許されたらしい。ディメンシアは見えない縄から放たれたように背後のテレビに取り付き「すぐに処分してきます」とテレビのスイッチに手を伸ばした。その手をステッキで叩かれる。
「ディメンシア、ボリュームを上げて」
「へ? なんで?」
 いいから早く、と睨まれ、ディメンシアはおずおずと音量つまみを回す。人気パーソナリティーのケイティ・キルジョイの声がパントリーに響く。余談だがディメンシアは彼女のファンだ。歯に衣着せぬ物言いが心地いいし、何よりセクシーだ。アラスターの前では口が裂けても言えない。口を裂かれる。
 番組には赤いタキシードを着た金髪の女性が出演していて、何か新しい試みについて話していた。ディメンシアはアラスターの顔色を窺うのに精一杯で放送の内容など欠片も頭に入ってこなかったが、アラスターは食い入るように画面を見つめている。やがてアラスターはステッキに体を預けながら、身を捩るように哄笑した。割れた笑い声と、大勢の笑声と拍手が番組の音声を掻き消す。アラスターがテレビを観て爆笑しているので、ディメンシアは明日はエクスターミネーションだと思い天を仰ぐ。暗い天井の隅を蜘蛛が駆け抜けていく。
「こいつァケッサク!」
 アラスターはディメンシアの肩を強く叩き同意を求めてくる。ディメンシアは黙って揺さぶられるままになっていた。
「ディメンシア、今日の予定は全てキャンセルです!」
「え、上着はいいのですか?」
 楽しみにしていたのに、とディメンシアはアラスターの顔を覗き込む。アラスターはすでにあらゆる関心を今日の予定から失っているらしく、灼けた目を爛々とさせ顔中が口になったように笑った。
「上着? まァもう持ってるし。ゼスティアルも、そうですね、私が腹を壊したとでも言っておけばいいでしょ」
「腹を? ……アラスター、あなたは何を食べたら腹を壊すんです?」
「なんでもいいですよ、虹色のコットンキャンディとか」
「ええと、虹色のコットンキャンディを食べて下痢をしたので、今日の予定はキャンセル」
 律儀にスケジュール帳を書き換えるディメンシアにアラスターは矢継ぎ早に指示を重ねていく。
「朝食はいりません、コーヒーを淹れ直して、すぐに着替えを。手土産を用意してください。脳味噌お花畑のお嬢ちゃんが喜びそうなやつ。靴も磨いて、それと、シャーロット・モーニングスター嬢に訪問のアポイントメントを!」
「だ、誰です!?」
「鹿を用立てておいてくれます? 大仕事の後は腹が減るものだ!」
「鹿? シャーロットって名前の鹿?」
 アラスターは困惑するディメンシアの角を引っ掴み、強引に頬にキスすると「任せました我が友よ」と調子はずれの笑い声を残し蕩けるように消えた。