FM 102.7MHz 2003



 デボラはバスケットボールが好きな十三歳で、サイエンスは好きだがライティングが苦手で、ジュニアハイに入学するときに親の許しを得て開けたピアスを気に入っていて、友達は多くはないが気の許せる親友が何人かいて、先生には居眠りが多いとちくちく言われることがあるごく普通の少女で、ラジオ恐怖症だった。
 その理由をデボラは他人に語ったことがない。家族にさえ相談したことがなかった。とにかくデボラはラジオを怖がった。スイッチを入れることはおろか、ラジオのある部屋に入ることさえ拒絶する。
 ラジオの、無数に穴の空いたスピーカーを見るだけでぞっとするのだ。またあの声が、己を唆す気がする。甘く調子のいい言葉が、死を招き寄せる気がする。
 七歳の頃、祖母が亡くなる前に聞いてから、その声がラジオから聞こえたことはない。だがデボラは、今もラジオを恐れ続けている。


 エレメンタリースクールの頃から通っているバスケットボールクラブで練習をしていたデボラは、練習試合の相手チームの一人であるジェシカが強く投げたボールが顔に当たりよろめいた。ジェシカは「あ、当たっちゃった」とへらへらした。取り巻きのチームメイトがくすくす笑いながらジェシカに耳打ちする。ジェシカは意地悪く目を細め「ちょっと、やめなよ、かわいそうじゃん」とデボラのほうを見ながら肩をすくめた。
 デボラはジェシカを睨み付ける。ジェシカは「なに怒ってんの?」と鼻で笑う。取り巻きが「これバスケだよ?」と口を出した。その異様な雰囲気に、他のプレイヤーも横目にその様子を窺う。だが誰かが割って入る様子はない。
 デボラは自身の胸元にぽたぽたと血が落ちているのに気がつく。強く打った鼻から血が出ていた。出血を手で押さえるデボラを、ジェシカたちが声をひそめ、顔を見合わせ笑いながら指さしてきた。デボラはコートの真ん中で鼻血を出したのが恥ずかしく、悔しく、黙ってコートから出る。後ろから「は? 勝手に帰んの? ノリ悪いよ」「鼻血出ただけでしょ?」とジェシカたちが口々に言うのを聞いた。
 ロッカールームに戻ると、デボラのロッカーが半端に開けられ、バッグが床に落とされている。デボラが抗議できない程度に砂をなすられたバッグを拾い上げ、デボラは鼻血が出たまま家に帰った。
 家には誰もいなかった。デボラはシャワーを浴び、血で汚れたシャツをこっそりガレージのダストコンテナに捨てた。
 ジェシカたちに目を付けられたのは、半年ほど前のことだ。ジュニアハイからクラブに入ってきたジェシカたちは、自分たちがクラブに馴染み結束するための生け贄としてデボラを選んだらしい。きっかけは、ジェシカの好きな曲をポータブルMDプレイヤーのイヤホンで聴くことをデボラが拒否したからだ。デボラはイヤホンが苦手だった。それがラジオに繋がったものでなくても、あの声が耳元で囁いてくるのではないかと思うといてもたってもいられなくなる。
 デボラはやせっぽちで、バスケットボールは好きだが長くやっている割にはあまり技術も優れていない。そういうところが、多分ジェシカたちにはちょうどよかった。
 デボラはジェシカとその三人の取り巻きの、これ見よがしの嘲笑やからかいに半年耐えた。ユニフォームの置き場所が勝手に変わっていたり、飲み物がなくなったりすることにも気がつかないふりをしていた。だが、今日、はじめて直接危害を加えられ、そして誰も自分を庇ってくれなかったことに、デボラは深く傷ついた。もうクラブに行きたくないと思ったし、自分の方が長く通っているのにどうしてやめなくちゃならないんだとも思った。
 涙をこらえながらデボラが部屋に戻ろうとすると兄が帰宅したところだった。兄はハイスクールに通うようになってから、あまり家で話さなくなった。デボラはそれに不満をこぼしたが、母は「年頃なのよ」と笑うばかりだった。
 兄が冷蔵庫のミルクをボトルのまま飲んでいたので、デボラは顔をしかめて「コップ使ってよ」と言う。兄はわざとらしくデボラを真似て顔をしかめ、ボトルを冷蔵庫に戻すとリビングを出て行こうとし、すれ違いざまにデボラの顔を見て「どうした」と言った。久しぶりにまともに聞いた気がする兄の声は、記憶よりずっと低いような気がした。
「……別に」
 デボラが言うと、兄は「ふうん、あっそ」と言い、自室に戻っていった。
 デボラはその日からバスケットボールクラブに行かなくなった。心ないいじめに負けるのも嫌だったが、バスケシューズを履くと足が鉛のように重くなり一歩も動けなくなる。
 昼は働きに出ている両親はデボラがバスケットボールクラブをサボっているのに気がつくのに時間がかかったが、しばらくして夕食の席で母がおずおずと「最近、バスケットボールクラブに行ってないのね、どうしたの?」と切り出した。あんなに大好きだったじゃない、と母が呟く。父もフォークを置き、心配そうにデボラを見つめた。
「クラブで何かあったならパパに相談してみなさい」
 父親の申し出にデボラは表情を強張らせ、首を横に振る。親が出てきてチームメイトにからかいをやめるようコーチに言ってもらうなんて、そんな恥ずかしいことは出来なかった。そんなことをしても、以前と同じようにクラブに参加できるわけもない。
 デボラは不機嫌顔を作り、ベイクドポテトの皿を睨むと「なんでもない、飽きただけ」と呟く。父は厳しい表情でデボラを見つめた。
「デボラ、あんなに頑張ってきたじゃないか。そんなに簡単に投げ出して良いのか? 来月には大会もあるんだろう?」
 言葉に詰まったデボラは大きな溜息だけでそれに返事をした。父が眉を吊り上げて何か言いかけ、デボラがフォークを置いて部屋に戻りかけ、それらを遮るように兄が「いいだろ別に」と言った。食卓の視線が全部自分に向けられ、兄は居心地悪そうに皿にがっついた。
「他のことすれば」
 兄は素っ気なくそうだけ言い、食器を片付け部屋に戻っていく。父は兄の背を見送ると、デボラに「デボラはどうしたいんだ?」と尋ねてきた。デボラはしばらく俯いたあと「バスケットボールはやめる」と呟いた。両親は「そうか」と応え、それ以上は何も聞いてこなかった。
 翌日、デボラはクラブのロッカーに置きっぱなしだったユニフォームを取りに行った。元チームメイトが練習している声を聞きながらこそこそ荷物を取りにロッカールームに忍び込むのは、惨めで苦しい。半開きにされたロッカーから、いじり回されたユニフォームが垂れていた。デボラはそれを取り、バックパックに詰め込む。家まで走って帰り、ガレージに飛び込んでユニフォームをコンテナに押し込む。
 生ゴミや紙ゴミの上にオレンジ色のユニフォームを落としたとき、胸がぎゅっとした。思わず嗚咽を漏らすと、背後から「ああ、なんてかわいそうなんだ、泣かないで」と囁く声がする。デボラははっと顔を上げた。ガレージの中に人影はない。デボラの全身が総毛立つ。
「私はいつでもキミの頑張りを見ていました。キミはあんなにも一生懸命だったのに、不当に追い出されるなんてあってはならないことです。キミを追い出した奴らは、報いを受けるべきだ」
 デボラは肋骨の内側でどくどくと心臓が脈打つのを聞きながら、必死にその声を聞かないようにする。耳を塞ぎ、コンテナに背を押しつけて身を縮こまらせた。
「望むんだ。さあ、ほら、私はいつもキミの味方だ。これまでも、そうだったろう?」
 あの声だった。デボラは喉の奥で悲鳴を上げる。ガレージの隅の不要品置き場に、ボロボロのラジオが転がされているのを見つけ、デボラは這うようにそれに近づく。電源もない壊れたラジオから、優しげな声が垂れ流される。
「キミはそんな扱いを受けるべきではない。思い知らせてやりましょう、あの高慢なバカ女どもに」
 デボラは悲鳴を奥歯で噛み潰し、ラジオを両手で持ち上げるとコンクリートの床に強く叩きつける。「私はキミの味方です」「復讐を」「罰を」と繰り返すラジオを、何度も床に叩きつけた。デボラが我に返ったときには、ラジオは原形をとどめないほどばらばらになっていて、声も聞こえなくなっていた。デボラは自室に逃げ帰り、シーツにくるまって息を潜めて泣いた。
 だが、今度こそあの声に唆されなかったと安堵した。






 デボラがバスケットボールをやめてから一ヶ月が経った頃、かつてデボラが所属していたチームが州の大会で優勝し、ローカルニュースはその記事で持ちきりになった。デボラはそれを努めて気にしないようにしたが、そう上手くは振る舞えなかった。
 優勝トロフィーを中心に笑顔を見せる元チームメイトの写真を見かけるたびに、胸が潰れそうになった。ジェシカたちがトロフィーに手を添えているのを見ると、私がそこにいたはずなのにと怒りがわいた。どうしようもなく苦しくなって、部屋に引きこもって何度も泣いた。
 ジェシカが行方不明になったという話を聞いたのは、それから数日後のことだった。水曜日の夜の練習の後、ロッカールームから親の迎えの車に向かう間に消えたのだという。デボラはそれを聞いてぞっとした。まさか、と思う。そんなわけはなかった。デボラはそんなことを望んではいない。あの声に耳を傾けず、ラジオは破壊した。
 だが、本当にそうだろうか。自分をいじめたジェシカたちがひどい目にあえばいいと、己はほんのひとかけらも願わずにいられただろうか。
 その翌週、ジェシカの取り巻きだったチームメイトの一人が失踪した。そのさらに翌週に、同じく取り巻きの一人が失踪した。どちらも水曜日の夜だった。最後の一人は、思うところがあったのか早々にクラブを辞めて引っ越していった。その後のことは分からない。
 閑静な田舎町は騒然とし、バスケットボールクラブは参加する者がいなくなり自然消滅に近い状況に追いやられた。両親はおおっぴらには言わなかったが「あなたがクラブを辞めていて本当によかった」とデボラを抱きしめた。デボラはその抱擁を力なく受け入れた。
 デボラは部屋に引きこもりがちになった。体調が悪く学校を休むことが多くなった。両親はそれを咎めなかったし、学校から何か言われることもなかった。
 その日も学校を休んだデボラは、階下に誰もいないことを確認し、昼過ぎにやっとリビングに下りた。空腹は感じていないが、何か食べた方がいいと思った。玄関先に落ちている朝刊の一面に、バスケットボールクラブの少女連続失踪事件についての記事が載っていた。その手の記事はいつも家族がデボラの視界に入らないよう処分してくれていた。
 デボラはそれを汚物のように摘まみ上げ、古新聞置き場に持って行く。キッチン脇の古新聞ストッカーの一番上の新聞も、一面は失踪事件の記事だった。デボラは悲鳴を飲み込み、ストッカーを掴むとガレージに向かう。全て放り込み、蓋を閉めきってしまおうとダストコンテナを開けると、ジェシカと目が合った。コンテナの中、生ゴミや紙ゴミの上に、ジェシカの首がぽんと置かれていて、ぼんやりとデボラを見上げていた。デボラは悲鳴も上げられず、コンテナの蓋を閉め、静かに数歩後ずさる。ストッカーを取り落とし、コンクリートの冷たい床に古新聞がばさばさと落ちる。全ての新聞紙が、失踪事件の記事だった。
「なんで、うそ、そんな……」
 噎せ返るような腐敗臭が、途端にガレージ中に満ちる。デボラは嗚咽を漏らしながらガレージの隅のラジオの破片にすがりついた。
「いやだ、いや、もうやめて、あれをどこかにやって、おねがい、おねがいよ……」
 デボラはその場所で手足が冷えきり痺れるまでへたり込み、どうしようもないまま痺れた体を引きずるように自室に戻った。それ以来デボラはダストコンテナを開けることも、ガレージに近づくことも出来なくなった。だからデボラの願いが聞き入れられたのかは分からないままだ。だがジェシカたちが帰ってくることも、遺体が見つかることもなかった。