ほろ酔い仔猫ちゃん



 正体不詳目的不明上級悪魔の殺戮とその悲鳴をブロードキャストすることで短期間でラジオデーモンの異名をほしいままにしたアラスターは実のところ酒に強くない。生前からの知己だというミムジーなどはアラスターを「少しのお酒で仔猫みたいになっちゃう」と言うのであるが、ディメンシアはそこまでアラスターが酒に飲まれているのを見たことはない。そもそもアラスターは好んで酒を飲む性質ではなかった。ディメンシアが思うに、酔ったところを人に見せるのが嫌なのだ。アラスターの言葉を借りるならば、おしゃれと言えない。
 だが、鉄の意志で笑顔を纏い続ける暴虐の悪魔であっても、ときには酒量を誤ることがあるらしい。カウンターに座ったまま動かなくなったアラスターに、ハスクは「飲まないなら帰ってくれよ」とぼやく。酔ったエンジェルダストがアラスターの空いたグラスに酒を注ごうとすると、アラスターはその手を乱暴に払いのけた。アラスターが他者の手を避けるのはいつものことであるが、常のさりげなく紳士的な拒絶ではない。エンジェルダストはあまり気にした様子もなく「なんだよー、おかわり注いでやろうとしたのに」と唇を尖らせた。
 ビリヤード台の下で行方不明の六番ボールを探していたディメンシアは、台の下からアラスターの様子を覗き見た。口元はいつもどおりの笑みを浮かべているが、眉根は寄せられ苛立たし気な表情を浮かべている。
「おいエンジェル、アラスターに絡むな」
 エンジェルダストをたしなめたハスクをアラスターはぎょろぎょろした赤い目で「うるさい」と睨む。酔客の対応とエンジェルダストのセクハラには慣れているが、アラスターの癇癪にはいまだに慣れないハスクは「ああそう、今のは俺が悪いよな」と閉口する。
 遠巻きにそれを眺めていたディメンシアは、誰彼構わず伸ばされた手に威嚇する野良猫のようだと思った。アラスターらしくない。そしてミムジーが酒の席でいつも繰り返す「仔猫みたいになっちゃう」という言葉を思い出し「え、あれってそういう意味だったのか?」と思った。真偽のほどはわからない。
 ディメンシアは台の下から這い出ると、アラスターの背後に立つ。それだけで「なにか」と睨まれ、ディメンシアは狼狽える。
「……アラスター、すみません。相談したいことがあって。いいですか?」
「今はお酒を楽しむ時間ですが、ディメンシアの頼みなら」
 アラスターはいつもどおりに皮肉っぽく言うと、ディメンシアのほうに上体を向けた。ディメンシアは肩を竦めながら、控えめに階上を指差す。
「ここでは、ちょっと」
 アラスターは瞬きをしない目でディメンシアを見ると、ハイスツールから立ち上がる。ディメンシアは手を貸すべきかと思ったのだが、それはやめた。アラスターの足取りは思いのほかしっかりしていたし、アラスターはそういう扱いを望まないだろう。アラスターはいつもどおりステッキを片手にロビーを横切り、ディメンシアは小走りにそれを追う。
 自室に戻ったアラスターは一人がけのソファに座ると「それで、用というのは?」とディメンシアを見上げる。ディメンシアは部屋に戻りがけにキチネットから持ってきた水のボトルをアラスターに差し出す。
「いえ、ただ……あまり体調がよくないように見えて」
 アラスターはボトルを一瞥し、片眉を上げる。
「おやおやおやおやァホテルスタッフの振る舞いが板についてきたようで何より! きっとチャーリーだったら泣いて喜んでキミの頭をわしゃわしゃしただろう! だがそれは私ではなく客にするべきだ。閑古鳥のホテルではキミのホスピタリティの行き先が迷子なのは同情するよ」
 行き場をなくしたボトルをぷらぷらさせながらディメンシアは眉尻を下げる。やはり無用な気遣いだったろうか。
 ディメンシアはボトルをテーブルに置く。
「すみません、バーに戻りますか?」
 アラスターは常の笑みのままディメンシアに膝をつくよう指示する。ディメンシアは促されるままソファの脇に膝をつく。アラスターはディメンシアの角の先端を指先で弾き、頭を撫でる。
「私のかわいいディメンシアをいたずらに心配させる趣味はありません、アナタのホテルスタッフとしての崇高な振る舞いに免じて、今日のところは大人しくしておいてさしあげましょう」
 いいね、と目を覗き込まれ、ディメンシアは膝をついたまま後ずさる。
「では、アナタは行きなさい。明日の晩にも六番ボールがないままだと、整頓魔のヴァギーがビリヤード台を撤去しかねない」
 ディメンシアは立ち上がると、身をかがめてソファに座るアラスターの額に前髪の上からキスをした。
「おやすみなさい、ア――」
 言い終わる前に胸倉を掴まれ、先ほどまで跪いていた床に引きずり戻される。目を白黒させるディメンシアを、アラスターは冷ややかに見下ろした。ディメンシアはその目に怯え、体を強張らせる。
「今のは?」
 低い唸り声が背骨を這い上がる。ディメンシアははくはくと意味のない呼吸をした。
「すみません、アラスターがしてくれることを――」
「ディメンシア、飼い主が愛犬にキスをすることがあっても、犬が飼い主の顔を舐めるのは厳しく躾けられるべきだ」
「……ごめんなさい」
 床で蹲るディメンシアの項に、アラスターの笑声が降ってくる。
「一流ホテルスタッフをめざすディメンシアに物の道理を教えてあげましょう! 薄めないと飲めたもんじゃない安酒もあるし、三十年物のラフロイグを水割りにする奴の頭は酒瓶でカチ割っても罪には問われない!」
 アラスターはディメンシアを立ち上がらせ、組んだ足先をディメンシアに向ける。
「いいでしょう、これも飼い主の責任の範疇。甘んじて受け入れます」
 指先で再度口付けを要求され、ディメンシアは表情を凍り付かせ首を横に振る。
「もういい? 鞭が効きすぎましたか? まったく最近のアナタは聞き分けが良すぎてちょっとだけ退屈です!」
 ディメンシアは震える膝から崩れ落ちないよう必死に立ち続けながら項垂れる。アラスターはソファから立ち上がり、ディメンシアの胸元に指先を立てる。
「苦痛を薄めれば快楽に、悪臭を薄めれば香水に。その心地よいしゃばしゃばの憎悪は、そのままとっておきなさい」
 アラスターはそれだけ言うと、ディメンシアの胸に立てていた指を廊下に向ける。
「六番ボール」
 ディメンシアは叱られた犬のようにとぼとぼと部屋を後にする。どうしてあんなことをしてしまったんだろう、と思った。最近ディメンシアは、自分で自分が分からない。